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野島画廊から、正確に言うと祥子さんから葉書が来ていた。 画廊の10周年パーティーの案内状だった。 一瞬、あたしなんかにまで?と思ったけれど。考えてみれば、惺に紹介されて有さんとつき合うきっかけになって、外岡さんとのあたしにしたら『事件』もあった、結構関わり合いの深い場所だ。 そして、もちろん瑞希さんとの出会いも。瑞希さん、どうしているのだろう。まだ入退院を繰り返しているのだろうか、それとも元気にな...
野島画廊から、正確に言うと祥子さんから葉書が来ていた。
画廊の10周年パーティーの案内状だった。
一瞬、あたしなんかにまで?と思ったけれど。考えてみれば、惺に紹介されて有さんとつき合うきっかけになって、外岡さんとのあたしにしたら『事件』もあった、結構関わり合いの深い場所だ。
そして、もちろん瑞希さんとの出会いも。瑞希さん、どうしているのだろう。まだ入退院を繰り返しているのだろうか、それとも元気になった?
優しくて綺麗で、大人で強い祥子さんのことも懐かしく思い出される。元気かなぁ、そう言えば随分ご無沙汰してしまった。
「有さん…にも、この案内は行ってるよね?」
でも、きっと有さんは来ない。
そんな確信めいた予感があった。
懐かしい画廊と、その周辺の風景。
最初は全然自分には似合わないと思っていた大人の街を、大人の街が似合い過ぎるくらい似合う有さんと歩いた。
背の高いそのひとは、足が長い分とても早足で、あたしは置いて行かれそうになったっけ。銀座の街の落ち着いた洒落た夜の光の中を、長い影にエスコートされるようについて行ったっけ。
辛すぎるラーメンにひいひい言いながら涙と鼻水だらけになったあたしを、長身を折り曲げるようにして笑ったひと。意地悪で冷たい眼で、大嫌いって思ったはずなのに。いつしか、どうしようもないくらいに惹かれていた。
駄目って思いながら、引き返すことができなくなっていた。
有さんのネクタイだなんて知らなくて、早乙女君に返したはずのそれを有さんがしているのを見たとき、自制できないくらい動揺した。それが有さんの狙いだって、ちっとも気づかずに。そんな大人の意地悪な企みも、狡さも、有さんだから全部全部好きだった。
「有さん…」
男の人だから関節はしっかりしているけど、長くて綺麗な有さんの指を思い出しながら、あたしは案内葉書をそっと撫でる。
「行ってみようかな…」
有さんは、きっと来ないだろうけど。でも画廊とその周辺には、有さんとの思い出がいっぱいだ。
「だって、祥子さんに就職したことすら知らせてないし。派遣だけど」
自分に言い訳するみたいにそう言って、あたしは行くことに決めた。
7月最後の土曜日、華やかな夏の装いに身を包んだ人波に溢れる銀座の街にいた。
この日は曇りのせいか、夕方から蒸し暑さが薄らいできていた。
「こんにちは」
そう言って、恐る恐る画廊の扉を開ける。
「まぁ、沢口さん。よく来てくれたわね」
久しぶりに見る、相変わらず上品で大人な祥子さんがすぐに気がついてくれた。
「お久しぶりです、ご無沙汰しています」
「まぁ、とっても可愛くなっちゃって」
祥子さんがそう言いながら、あたしを頭のてっぺんからつま先まで見るから緊張してしまう。
「い、いや、そんな」
今日のあたしの恰好は、もちろん並木さんに相談して決めた。銀座の画廊のパーティーということで、華美過ぎず地味過ぎず、上品な中にも華やかさを感じられるもの。袖とスカートに透けるオーガンジーを重ねてあるシャーベットオレンジ色のワンピース。パールとラインストーンを組み合わせたネックレスとピアスはお揃いだ。全体の色調がボケないように、靴とバッグは紺色とベージュを基調にしたものを選んだ。そして髪にも紺色の小さなリボンがついたカチューシャ。
「もう、女子大生じゃないものね。OLさんなんだものね」
やっぱり、知ってたみたいだ。それは惺から訊いたんですか?それとも…
「いまのところは、は、派遣…」
派遣ですけど、と言おうとしたあたしを、祥子さんがやんわり遮る。
「アパレルですって?どおりで素敵な格好してると思ったわ。仕事、楽しい?」
「はい!」
それには大きく頷いて、即答した。
「そう、仕事は楽しいのが一番よ」
そう言うと、祥子さんは楽しんでいってねと囁いて、別のお客様の方へ行ってしまった。
画廊には、この日のために野島教授と祥子さんが選び抜いたというコレクションが展示されている。
それをわからないながらも鑑賞していると、画廊のスタッフと思われる女性から声を掛けられた。
「よろしければティーサロンの方に軽食を用意してありますので、どうぞ」
「はい、ありがとうございます」
ティーサロンもかつて働かせてもらった、思い出の場所だ。心なしか足取り軽く、とんとんと階段を昇った。
あまり広くはないティーサロンには想像以上に多くのお客様がいて、飲み物やお皿を手に歓談していた。
「あれ?沢口さん?」
店長兼ウエイターの西田さんだった。
「うわ、西田さん、ご無沙汰しています」
「あれまぁ、なんだか凄く可愛くなっちゃったね」
目を丸くしてそう言うと、慌ててつけ加えた。
「い、いや。前から可愛かったけど、でも…見違えたよ」
うん、つまり馬子にも衣裳ってことですね?
「おい、山形。沢口さん、来てくれたよ」
タイミングよく通りがかった調理の山形さんを捕まえて、西田さんがそう言った。
「え?あっ、あれぇ、沢口…さん?」
山形さんまで驚いた表情で、まじまじと見てくるから恥ずかしい。
「どうも、お久しぶりです」
あたしは顔が火照るのを感じながら、小さくそう言った。
「うわぁ、見違えたよ。すっかり、綺麗になっちゃって」
「だろ?」
うんうん頷き合っている西田さんと山形さんに、あたしは訊いた。
「あの、お手伝いしましょうか?」
勝手知ったるティーサロンである。しかし、西田さんは笑った。
「こんな可愛い格好してるお嬢さんに、ウエイトレスはやらせられないよ」
「あはは、沢口さん。今日はお客さんなんだから、ゆっくりしてって。手は足りてるからさ、大丈夫。でも、ありがとね」
山形さんも、そう言って笑った。
西田さんと山形さんがそれぞれの仕事に戻ってしまったので、あたしは所在無げに人が溢れているサロンを見回した。
そして、こちらに注がれている一つの視線に気がついた。
「瑞希さん…」
クリーム色の光沢があるツーピースを着て、綺麗にお化粧をした瑞希さんがこちらを見ていた。
どちらからともなく、近づく。
「瑞希さん、お久しぶりです」
「沢口さん、ここで会えるなんて。来てよかった」
瑞希さんは細い声でそう言うと、それでも嬉しそうに微笑んだ。その姿は真っ白な百合が風に揺れているようだったけれど、顔色はお化粧のせいもあってか比較的良かった。相変わらず、とても痩せていたけれど。
「瑞希さん、お元気そうです」
そう言うと、瑞希さんは少し頬を染めながら「ありがとう」と言った。
「座りませんか?」
瑞希さんの体調を考えて、あたしはそう窓際の空いている椅子の方へ誘った。
「ええ」
瑞希さんは手にオレンジジュースのグラスを持って、促されるままに窓際へ移動する。
「何か、食べ物を持ってきます」
瑞希さんを座らせると、あたしはそう言った。
「じゃ、あたしも」
「いえ、瑞希さんは座っていてください」
こく、と瑞希さんは素直に頷くと微笑んだ。
画廊のスタッフは「軽食」と言ったけれど、中央のテーブルにはシティ・ホテルにも引けを取らないオードブルやサンドイッチ、パスタや肉・魚料理などが並んでいた。
思わず心の中で、舌なめずりしてしまう。うん、どれもゴージャス、おいしそう。
大きめのお皿にちょっと行儀悪く沢山盛りつけて、ふたり分のフォークとナプキン、自分の飲み物ジンジャーエールのグラスを手に瑞希さんの元へ戻った。
「はい、どうぞ」
「あら、こんなにたくさん?」
瑞希さんが本当に驚いたように言うので、恥ずかしくなったあたしはペロと舌を出しながら言った。
「いっぱい食べなきゃ、瑞希さんは。それに、どれもこれもおいしそうだったから、つい」
ふふふ、と瑞希さんが笑うので、あたしもてへ、と笑って見せた。
よかった、ヘンなわだかまりも、ぎこちなさもない。
「再会にカンパ~イ!」
あたしはちょっとおどけた風に言って、かちりと瑞希さんのグラスに自分のそれを合わせた。
瑞希さんとふたりで、同じお皿から仲良く食べる。
「これ、おいしいですよ!」
そう勧めるたびに、瑞希さんは微笑んで小鳥のようにちょっとずつ食べ物を口に運ぶ。
やがて瑞希さんはフォークを小テーブルのナプキンの上に置くと、あたしを正面から見つめた。
「沢口さん」
「はい」
瑞希さんの眼が、何から話していいのかというように一瞬泳いだけれど、それでも再び彼女はあたしを正面から見ると言った。
「沢口さんにちゃんと謝らなきゃって、ずっと思っていたの」
瑞希さんが思いつめたような表情になるから、あたしはなんとかこの場を笑い話にしてしまいたいと思う。
「も、もぅっ!瑞希さんたら、律儀なんだからっ。謝ることなんて、なにもないじゃないですかっ」
「だけど…」
「もう、忘れましたっ」
それ以外、上手く誤魔化す言葉が見つからない。
なのに、瑞希さんは意外なことを言った。
「忘れてはダメ」
「え?」
瑞希さんはふぅと一息ついてから、オレンジジュースで喉を潤すと言葉を繋いだ。
「忘れては駄目よ。あんな卑怯な方法で、氷川先生をちょうだいって言ったあたしに、沢口さんが負けなかったこと」
確かに病室のベッドで、あんなに真っ青な顔で切羽詰まった表情の瑞希さんに、NOを伝えるのはとても苦しかった。はっきり言えなくて、眼鏡をかけたうさぎのぬいぐるみを有さんに渡してもらった。それが答えだと、瑞希さんならわかってくれると思ったから。
「卑怯じゃないですよ」
「いいえ、卑怯だったわ」
瑞希さんは瑞希さんらしくないくらい、きっぱりと言った。
それから少し顔を曇らせたから、具合でも悪いのだろうかとあたしは心配になる。
「それなのに…」
瑞希さんが胸を押える。
「大丈夫ですか?どこか、苦しいですか?」
慌てて訊いたあたしに、瑞希さんが首を振る。
「信じたくないの、いまでも。氷川先生と沢口さんが…その…」
ああ、そういうことか。 誰から訊いたんだろう。
「離れ離れになったってことですか?」
思い切ってそう言ったけど、瑞希さんの前でどうしても「別れた」とは言えなかった。
だって、別れたんだろうか?違う、いっそのこと有さんに捨てられた、の方があたしは傷つかない。だってあたしの心は、いまでも有さんのものだから。
「本当、な、の?」
なんて答えればいいのかわからなくて、あたしはちょっと唇を噛む。
よく有さんに、「俺の仔猫を、俺の仔猫が傷つけるのは許さない。菜乃果、唇を噛んでは駄目だ」って言われたっけ。
そんな些細なことすら、思い出すと目頭が熱くなる。
「ご、ごめんなさい」
涙が滲んだ訳を誤解した瑞希さんが、慌てた様に謝る。
「ち、違うんです。ちょっと…思い出してしまって」
「…氷川、先生の、こと?」
遠慮がちに確認する瑞希さんに、あたしはこく、と頷く。
「もしか、して…まだ忘れ、られ、ないの?」
あたしはまたこく、と頷く。
忘れられるわけがない。だって、あんなに、あんなにも素敵なひとなんだから。あたしにとって唯一の、出逢ってしまったひとなんだから。
「ごめんなさい」
もう何度目かわからない謝罪を、瑞希さんがまたする。
「もう、謝らないでください」
あたしは恥ずかしくなって、瑞希さんを上目遣いに見た。
そんなあたしの両手を、瑞希さんが両手で握る。その力の弱さに、どきっとする。
「忘れないで。きっと沢口さんのその想いは、いつか報われるわ」
両手の力のなさとは真逆の力強い言葉に、あたしははっとした。
「そうでしょうか?」
「あたし、祈るわ。毎日、必ずふたりのことを」
そんな…。
瑞希さんが祈らなければならないことは、ほかにもいっぱいあるはず。
「ありがとうございます」
それでもあたしは、瑞希さんにそう言った。瑞希さんの気持ちが、素直に嬉しかったからだ。
「ねぇ、瑞希さん。瑞希さんの方はどうなんですか?」
なんだか恥ずかしくなって話題を変えた途端に、瑞希さんの頬にかすかに赤みが差した。え、もしかして。
「恋、してます?いま」
ほんの微かにだけど、瑞希さんが頷いた。
「わぁ、誰?誰とですか?」
きっと両思いだ。だって瑞希さんの性格から言って、片思いならこんなに恥ずかしそうに頷いたりしないはずだ。
「新しく、お世話になることになった、病院の…」
「主治医?」
今度ははっきりとわかるくらい、瑞希さんの頬が染まる。
「うわぁ、おめでとうございます!」
「おめでとうだなんて…まだ、その、なんて言うか」
はじまったばかり…なんですね、きっと。
「でもでも、両思いなんですよね?」
ここは核心を突くべきだ、うん。
「君を任せてって、言ってくれて…」
うんうん。
「病気のことも、僕が絶対に治して見せるって…」
凄い、これは頼りになりそうな彼だ。
「瑞希さん、大丈夫。これから瑞希さんは、たくさんのものを持てますよ」
あなたは何でも持っている、と瑞希さんからかつて言われたことを思い出しながらあたしは言った。
「そう、かし、ら?」
「そうですよ!」
嬉しかった、自分のことのように。瑞希さんも、この日一番の笑顔を見せてくれた。
よかった、本当に。

- Date : 2017-04-01 (Sat)
- Category : アイス