プロフィール

Author:mikazuki0602
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
オリジナル小説の
実験室へようこそ♪
本業の傍らゆるゆる
のんびり更新してます。
ざっくり気ままな試作でつが、
著作権は放棄していないでつ。
初めての方は「New!更新情報」
or「contents」からどうぞ。
(*´ω`*) Since 2013.6.2

【R18限定記事について】
男のひと目線の描写じゃなく、女子目線でホントのところを描きたいでつ お読みいただくには、パスワードを入力いただくか下記URLからどうぞ 「小説家になろう」グループ内 R18女性向小説サイト「ムーンライトノベルズ」 灯凪田テイルのXマイページへ移動します。 http://xmypage.syosetu.com/x1507h/
メール

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
08 | 2014/09 | 10
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
カウンター
フリーエリア

スポンサーサイト

<!-- passive:etc --><div style="text-align:center;margin-bottom:10px;"><iframe src='//assys01.fc2.com/1375' style='width:300px;height:250px;border:none;' scrolling='no'></iframe><!-- FC2管理用 --><img src="//media.fc2.com/counter_img.php?id=1368" width="1" height="1"><!-- FC2管理用 --></div><div style="font-size:8px;">上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。<br />新しい記事を書く事で広告が消せます。</div>
412

第12章 永遠の追いかけっこ〈ⅴ〉

「やあ、アレン。今日はどうしたんだ?」 ADの新村にそう声を掛けられて、アレンは局内の制作部の廊下で立ち止まった。「海外ファッションショーの取材の打ち合わせがあって」「ああ、来月の?語学が堪能だと、仕事の幅も広がって、すっかり人気者だなぁ」「そんなことないですよ。新村さんこそ、忙しそうじゃないですか。会うの久しぶりだし」 アレンにそう言われて、新村は陽に焼けた顔で笑った。「こっちは海外と言っても、世... <span style="font-size:large;">「やあ、アレン。今日はどうしたんだ?」<br /> ADの新村にそう声を掛けられて、アレンは局内の制作部の廊下で立ち止まった。<br />「海外ファッションショーの取材の打ち合わせがあって」<br />「ああ、来月の?語学が堪能だと、仕事の幅も広がって、すっかり人気者だなぁ」<br />「そんなことないですよ。新村さんこそ、忙しそうじゃないですか。会うの久しぶりだし」<br /> アレンにそう言われて、新村は陽に焼けた顔で笑った。<br />「こっちは海外と言っても、世界の果てだ。奥地だよ、奥地」<br />「楽しそうじゃないですか。でも、気をつけてくださいよ」<br />「はは、わかってるって」<br /> 気さくに片手をあげると、新村は「また」と言って慌ただしく廊下を去って行った。<br /> <br /> 打ち合わせするADがいる制作室へ向かったアレンは、見知った顔を見つけて再び足を止めた。200mほど先のドアの前で頭をぺこりと下げ、急いで立ち去った横顔は見間違えようもない。<br /> 続いて同じドアから、ふたりの女性が出てきた。<br />「じゃあ、そう言うことで。お願いね、夏目さん」<br />「はい、わかりました。じゃ、試作品ができたらご連絡します」<br />「うん、よろしく」<br /> 女性を見送って、また制作室に戻ろうとした女性ADにアレンは声を掛けた。<br />「こんにちは、岸谷さん」<br />「あら、アレン。今日はどうしたの?」<br /> その問いにさっきと同じ答えを返し、アレンは続けて訊いた。<br />「いまの、仕事関係の人ですか?」<br />「うん、フードコーディネーター」<br />「フードコーディネーター?岸谷さん、料理番組も持ってましたっけ?」<br />「違うわよ、ほら例の。アイドルグループの番組の中に、料理コーナーがあるのよ」<br />「ああ、『彼と一緒につくるラブラブ・メニュー』…でしたっけ?」<br />からかい交じりに言うアレンに、岸谷は苦笑しながら答えた。<br />「しょうがないのよ。ファンの需要に応えるのが番組制作者の務めよ。バカにしてるみたいだけど、視聴率いいのよ?」<br />「いやいや、バカになんかしてないですよ。凄いドキュメント番組撮ってた岸谷さんが、きゃぴきゃぴのアイドル相手じゃいろいろ大変だろうなって思っただけですよ」<br /> 岸谷は、おどけたようにアレンを軽く睨むといった。<br />「どんな番組だって撮るわよ、サラリーマンだもの。でもね、これはこれで思った以上に面白いのよ。どうせなら、思い切り弾けた番組にしてやるわ」<br />「さすが!肝が座ってる人は、違いますね」<br /> お世辞でなく、アレンは心底そう言った。<br /><br />「どころで岸谷さん」<br />「ん?」<br />「さっきのコーディネーターさんの前に出てった女性、誰ですか?」<br />「うん?夏目さんの、フードコーディネータ-のアシスタントよ。なんで?」<br />「いや、もしかしたら知ってる人かもって。横顔見ただけだから、確証はないんですけど」<br />「そうなの?確か、北川さんて言ったわよ。最近、アシスタントになったらしいけど、よく気がつくいい娘(こ)よ。なによぉ、元カノとか?」<br />「違いますよ。借金踏み倒されたんですよ」<br />「まじ?」<br />「だから、連絡先知ってたら教えてください」<br /> アレンの表情を疑い深そうに見ていた岸谷は、やがて吹き出した。<br />「嘘でしょ。でも、いいや。なんか訳ありそうだし、アレンだから教えてあげる。彼女のはないけど、夏目さんの、『夏目クッキング・サロン』の名刺があるから。ちょっと待ってて」<br /><br /> 打ち合わせが終わったアレンは、局から出るとすぐに電話をかけた。<br />「もしもし、柊?」<br />「ああ、アレン?ごめん、これから電車に乗るから、かけ直す」<br />「電車、1本、やり過ごせよ」<br />「え?」<br />「それぐらい貴重な情報だぞ」<br />「いや、でも…」<br />「Miss幼なじみが…」<br />「えっ?」<br /> 驚いた柊の声が、電車のドアが閉まる音に重なった。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> その場所はすぐにわかった。<br /> 『夏目クッキング・サロン』の看板が小さく掲げられたビルを、柊は見上げた。<br /> アレンから連絡があったその週の土曜日、柊は教えられた住所を訪ねた。<br /> 灯里はいるだろうか。<br /> 緊張からか、手に汗をかいているのを感じて、柊はふぅと深呼吸した。<br /> エレベーターで2階へ上がり、『夏目クッキング・サロン』と書かれたガラス張りのドアを押した。けれども、ガチッと鈍い音がしただけでドアは開かない。ガラスのドア越しに中を覗くけれど、人の気配はなさそうだった。<br /> 電話をしてから来るべきだったろうか。いや、でも。<br /> 柊は突然、灯里の前に姿を現して、驚く灯里を有無を言わさず捕まえたかった。<br /> その作戦が裏目に出たか、と柊は苦笑いをする。でも、いい。灯里は此処で働いているのだ、簡単には逃げられない。<br /> 覚悟してきたくせに、どこかほっとする自分もいて、柊は自嘲しながら1階へ降りた。<br /><br />「おや、キミ」<br /> ビルを出たところで、独りの老人が眼の前に立っていた。<br />「え…っと」<br /> どこかであった気がするけれど思い出せない。でも知り合いでもないその老人の顔を柊はまじまじと見て、やがて「あ」と思い当った。<br />「ほぉ、覚えていたらしい」<br /> 老人は、ふぉふぉふぉと笑った。<br />「あの喫茶店で…」<br /> そう言う柊に、老人はいきなり切り出した。<br />「キミ、投資に興味はないか?」<br />「は?投資、ですか?」<br /> 小柄だが眼の前に飄々と仁王立ちする老人は、別に詐欺師や悪い人には見えない。それどころか、不思議なオーラと余裕を感じる。しかしいきなりの質問は、やはり意味がわからない。<br />「いえ、ないです」<br /> ふ~む、と老人は顎に手を当てて考え込む。<br />「では、時間はあるかい?」<br />「え…いまですか?」<br /> 老人が頷く。<br />「とくに予定とかは…」<br /> 老人の有無を言わさぬ雰囲気に呑まれて、つい本当のことを言ってしまった柊は即座に後悔した。<br />「ふうむ。では、キミに投資の面白さを教えてあげよう。特別に」<br /> そう言うと、老人は柊の腕をぐっと掴むと、ビルの中へ入って行こうとする。<br />「えっ、ちょ、ちょっと待ってくださいっ。い、いや、僕は…」<br />「年を取ると、次のチャンスを待つなんて悠長なことは言っていられなくなるんだ。これも縁だと思って、諦めなさい」<br />「え、な、何言っているのか…わ、わからな…」<br /><br /> 予想外に強い老人の力に、柊は唖然としながらも引きずられた。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
411

第12章 永遠の追いかけっこ〈ⅳ〉

「しっかし、もう9月だってのに。真夏並みの暑さなよなぁ」 そうぼやきながら柊の眼の前で、先輩兼指導係の石上がおしぼりで汗を拭いている。「石上さん、何にしますか?」 13時過ぎの喫茶店は人が少なく、石上と柊はこれから少し遅い昼食だ。「そうだな、ナポリタンにでもするかな。あとアイスコーヒー。お前は?」「カレーとアイスコーヒーにします」「お前、カレー好きだなぁ」 そう言う石上に照れたように笑って、柊はふた... <span style="font-size:large;">「しっかし、もう9月だってのに。真夏並みの暑さなよなぁ」<br /> そうぼやきながら柊の眼の前で、先輩兼指導係の石上がおしぼりで汗を拭いている。<br />「石上さん、何にしますか?」<br /> 13時過ぎの喫茶店は人が少なく、石上と柊はこれから少し遅い昼食だ。<br />「そうだな、ナポリタンにでもするかな。あとアイスコーヒー。お前は?」<br />「カレーとアイスコーヒーにします」<br />「お前、カレー好きだなぁ」<br /> そう言う石上に照れたように笑って、柊はふたりのオーダーをウエイトレスに告げた。<br /><br />「うわぁっ、また値を下げたっ」<br /> 壁のマルチモニターで株価とマーケット情報をチェックしていた石上が、頭を抱えながら叫んだ。<br /> ここは喫茶店と言っても投資家やそれが趣味の人たちをターゲットにした店で、国内外のリアルタイム株価情報をマルチモニターで確認できる。柊には全くわからないが、それぞれのテーブルでは同時に自分のタブレットやスマホでなにやらチェックしている人の姿も見受けられる。<br />「あちゃ~、これはもう売りどきかなぁ」<br /> 石上が一気に意気消沈して、おしぼりでまだ汗をぬぐうと水をがぶりと飲んだ。<br />「石上さんの買ってた銘柄って、どれでしたっけ?」<br /> そう訊ねる柊に、石上は無言でスマホの画面を見せる。そこに表示された企業の株価推移のグラフを見て、あれ?と柊は首を傾げた。<br />「なに、どうしたんだよ?」<br />「なんか、この企業、タイに新規事業の工場つくったって日経に出てたような…」<br /> 石上の顔色がさっと変わった。<br />「おい、ほんとか?」<br />「確か、この企業だったと思うんですけど。3日前の日経です。調べてみてください。あ、それと3か月前にも180円くらい一気に下がった後、また上がったじゃないですか。もし新規事業拡大のために工場を新設したんだとしたら…」<br /> そこにウエイトレスが注文したものを運んできてくれたので、柊は話を中断して彼女に軽く会釈をしたが、石上はスマホと柊の顔を交互に見比べて、真剣に考え込んでいる。<br />「売るのは、もう少し待ってみるか」<br />「石上さん、食べましょうよ」<br /> ああ、と頷いてフォークを手にした石上だが、その手を止めて言った。<br />「しかしお前、つくづく思うけど、ホント記憶力いいなぁ。自分が買ってもいない銘柄の数字と日経情報、よく覚えてたなぁ」<br />「数字の方は、昔からなんか記憶に残るんですよね。理数系だからかな、数字の配列って、綺麗に見えるんですよ。それと、日経の方はたまたま偶然です」<br />「数字の配列が綺麗って、さすが企画研究室採用だな。それにたまたま偶然に日経でそんな記事、見つけないぞ。もしかしたらお前、投資の運に恵まれてんじゃないのか?」<br />「まさか。為替も株も、まったく興味ありませんよ」<br />「そうかぁ?この運とかセンスとかってのは、努力ではどうにもなんないんだよ。持ってるもん勝ちっていうか。なぁ、お前、ちょっと株やってみない?」<br />「いや、遠慮しときます」<br /> そう笑ってカレーを口に運んだ柊だったが、なんとなく視線を感じて右後方を振り向いた。<br /> 独りの老人と眼が合った。知らない人だな、なんだろうと柊が思った瞬間、その老人はすぅと眼を逸らし、手にしている新聞に視線を戻した。<br />「どうした?」<br /> 石上が、怪訝そうに訊ねてくる。<br />「あ、いえ。何でもないです」<br />「なぁ、ほんとにやってみない?株」<br />「いやいや、センスも運も興味もないですから」<br /> 柊はそう笑って、アイスコーヒーを飲んだ。<br />「じゃあ、営業にいる間だけでも、俺につき合え。お前の買う銘柄、俺も試しに買ってみるから」<br />「い、嫌ですよ。それでやっぱり失敗した、なんて言われたくないですから」<br />「言わないから。俺、そんなに器の小さい男じゃないから」<br />「いえ。仕事では尊敬してますが、こと株に関しては石上さんは充分、器の小さい男です」<br />「お前ねぇ、先輩に向かって…」<br /><br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「あ、お父さん、お帰りなさい」<br /> 夏目老人が2階の『クッキング・サロン』と覗くと、織江がそう声を掛けた。<br />「灯里は?」<br />「先に駐車場に行ってる」<br />「なんだ、出かけるのか?」<br />「ええ、局で打ち合わせ。例のアイドルグループの。今度はどんなテーマかしら、ホントに無茶振りしてくるんだから」<br /> 織江はそう言いながら、慌ただしく出かける準備をしている。<br />「気をつけて行きなさい」<br />「はい。ああ、夕方には戻るから。夕飯は、お肉でもいい?」<br /> いいよという風に軽く手を振って、夏目老人はサロンのドアを閉めるとエレベーターのボタンを押した。<br /><br /> 3階のリビングに落ち着くと、夏目老人はひとまとめに積まれた新聞の中から3日前の日経を探し出した。<br /> 某企業のタイへの新規工場設立は、目立たない小さな記事だった。<br /> 新聞の片隅に載っているその記事を改めてじっくりと読みながら、夏目老人はう~んと唸った。<br />「これは本当に、投資の運を持っているかもしれないぞ」<br /> 記憶力といい、数字への独特の感性といい、面白い若者だった。加えて真面目そうで、神経が細やかそうで、冷静で賢い顔つきも好印象として残った。見ず知らずの人間なのに、育ててみたらおもしろそうだと初めて思った。<br />「また、あの喫茶店で会うかもしれないな。もう一人のセンスと運に見放された男の方は、あそこの常連らしいし」 <br /> 新しい楽しみでも見つけたように、夏目老人はにこりと笑った。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
410

第12章 永遠の追いかけっこ〈ⅲ〉

 夕食の片づけをし終わり、入浴も済ませ、自分の部屋で独りになった灯里は、窓辺に持たれて月も星も見えない夜空を見上げた。 柊の前から逃げるように姿を消して1年半、もう大学院は修了しただろうか。そしてそのまま大学の研究室に残ったのか、企業へ就職したのか、灯里には確かめる術がない。いや、本気で確かめようとすれば手段はあるのだが、その勇気がないのだ。  勝哉とのことを柊に知られた衝撃は、想像していた以上に... <span style="font-size:large;"> 夕食の片づけをし終わり、入浴も済ませ、自分の部屋で独りになった灯里は、窓辺に持たれて月も星も見えない夜空を見上げた。<br /><br /> 柊の前から逃げるように姿を消して1年半、もう大学院は修了しただろうか。そしてそのまま大学の研究室に残ったのか、企業へ就職したのか、灯里には確かめる術がない。いや、本気で確かめようとすれば手段はあるのだが、その勇気がないのだ。<br /> <br /> 勝哉とのことを柊に知られた衝撃は、想像していた以上に大きかった。<br /> これで心底軽蔑される、「汚らわしい」と疎まれる、そう思ったら柊の眼に自分をさらすことが耐えられなかった。柊の顔さえ見るのが怖くて…・<br /> 消えてしまいたかった、永遠に。<br /> 同時に、ほっとしたのも事実だ。もうこれで、知られることに怯える必要もない。<br /><br /> だけど。<br /> 時間が経つにつれて、柊と過ごしたあの苦痛と悔恨とキラキラした幸福の欠片を拾い集めるような日々が、たまらなく愛おしく懐かしく思い出されてきた。<br /> 自分の望み通りに激しく抱いてくれた柊、初めての快感を教えてくれた長く繊細な指、優しくときには意地悪な唇と舌、溶 け合うように一つになれた不思議な肌の感触、そして突き抜ける快楽と終わりの見えない絶望と幸福。<br /> すべてが蠱惑的で、麻薬のように脳を痺れさせ、癒えることのない渇きをもたらした。<br /> もっと、もっと、もっと。<br /> 充足の後に来る気が狂いそうなほどの飢餓感、そして夜も昼もなく求め合い抱き合った日々、心と躰を傷つけ合ってなお、愛おしくてたまらなかった人。<br /><br /> 時間が経てば。<br /> そんな期待は、脆くも裏切られるということを、あの6年間で学習したはずなのに。<br /> 一見幸福で穏やかな日々の中で、焦燥感が燻っている。逢いたくて、心のどこかが壊れそうだ。自分の気持ちを騙しながら、灯里は何とか均衡を保っている。<br /> どんなに軽蔑されても、罵られても、無視されても。ひと目、見るだけでも。柊ちゃんに逢いたい。<br /> ううん。そんなのは嘘っぱち。<br /> ただ裸で抱き合いたいのだ、これ以上ないくらい密着して、すべてを忘れて快楽の海に溺れてしまいたい。優しい柊ちゃんが見せる、ベッドの中だけのオスの顔。拘束して、自由にして、貪って、支配して。肌が合うのと同じくらい、きっとふたりは嗜好もぴったりだから。<br /><br /> 心と躰は、乖離しない。<br /> 離れてみて、自分たちを俯瞰(ふかん)で見ることができてわかったことは、それ。<br /> あんなに符合する快楽と嗜好が、心を置き去りにもたらされるはずがない。<br /> お互いに。<br /><br /> その当たり前の事実に気づいた灯里は、やっと小さな希望を見つけた気がして、暗い夜空に手を伸ばした。<br /><br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 3か月の新入社員研修が終わって、柊は営業部に配属されることに決まった。企画研究室希望だったし、採用は研究員としてだった。しかし入社後、2年間の営業をあえて選んだ。現場を知らなければ、頭でっかちの研究成果しかあげられない気がしたからだ。<br /> 強くなりたい、大きな男になりたい。<br /> 中高生のときとは違った意味で、柊は男として自信をつけたかった。<br /> どんなときも、どんなことも狼狽えずに受け止められるだけの度量が欲しい。そうなってこそ、再び灯里を追いかけることができそうな気がした。<br /><br /> 柊の就職祝いを、アレンと星奈がしてくれたあの日。柊を駅まで送りがてら、アレンが訊いた。<br />「彼女の居場所は、まだわからないのか?」<br />「ああ」<br />「探してるんだろ?」<br />「いや」<br /> 一瞬、沈黙したあと、アレンは口を開いた。<br />「もう、いいってことか?」<br />「そんな訳ないだろ」<br />「じゃあ…」<br /><br /><br /> 僕と灯里は、まだ追いかけっこの途中なんだ。<br /> 幼かった頃、灯里より2つ年下で背もまだ小さかった僕は、風のように走り抜ける灯里を捕まえられなかった。追いかけても、追いかけても。<br /> 中学になってどんどん可愛くなっていく灯里に、眩しさと邪(よこしま)な想いを抱いて、追いかけることすら躊躇われた日々。<br /> 追い打ちをかけるように許婚の存在を知らされて、悶々としながら灯里の影を追い求めたあの頃。<br /> 6年間という長い月日を経て再会して、やっと手に入れたと思った灯里は捕まえようとすると、途端に眼の前からすぅと消える蜃気楼のようだった。<br /> 今度こそ、今度こそ、僕は捕まえる。しっかりとこの両腕に抱きしめて、決して逃がさない。追いかけっこを、今度こそ僕の勝ちにするんだ。<br /><br /><br />「だから、就職した。大学に残らずに」<br /> 気負いも衒(てら)いもなく、柊はすっきりした表情で前を向きながら言った。<br />「そっか。大学残って独り立ちできるまでには、だいぶかかるらしいからな。男は家族を養わないといけないし」<br /> そんなアレンに、柊は吹っ切れたような笑顔を見せた。<br />「でも、捕まえる。絶対に。今度こそ、確実に」<br />「まあ、お前も大概しつこいからな。それと、言いだしたら訊かないところがある」<br /> 長いつきあいで、アレンは本当の柊を知っている。柊が本当のアレンを知っているように。<br />「じゃ、今日はありがとう、ご馳走さま。また手料理楽しみにしてるよって、星奈に伝えて」<br />「ははは。そりゃあ、星奈、喜ぶよ。だけど次も鍋かもしれないぞ、覚悟しとけ」<br /><br /><br /> アレンと別れ、独り見上げた空には月も星もなかった。<br /> しかし、柊の心は明るかった。灯里と離れてみて、わかったことがある。それは自分たちが、これ以上ないほどにぴったりだということだ。<br /> なぜ、気がつかなかったのだろう。あの頃は、それほど夢中で余裕がなかったということか?いや、いろいろなことがありすぎたせいだとも言える。<br /><br /><br /> 灯里。<br /> 僕はキミが好きだ。幼い頃からずっと。<br /> そして、きっとキミも。<br /> そう考えれば、すべての疑問がするすると解けていく。<br /> いくつか確認したいことはあるけれど、<br /> でもそれはお互いを想うゆえの誤解だと信じたい。<br /> あんなに求め合い、吸い寄せられるように密着する躰、<br /> 心がそこにないなんて思えない。言わせない。<br /> 灯里、だから僕らはきっとまた逢える。<br /> その日まで、僕は決して諦めない。<br /> たとえそれが、永遠に続く追いかけっこだったとしても。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
409

第12章 永遠の追いかけっこ〈ⅱ〉

 難しい顔でレシピを睨みながら試作を重ねていた母の織江が、3階と繋がる内線電話を取った。「灯里、お父さんがコーヒー淹れてほしいって。まったく、私と二人のときは自分で淹れてたくせに。孫娘だと甘えるんだから」 野菜を切っていた手を止めて、灯里は母に訊ねる。「これ、どうする?」「ああ、そこのバットに種類ごとに並べておいて」「わかった」 手早く残りの野菜を切り終えると、灯里は言われたとおりに銀のステンレス... <span style="font-size:large;"> 難しい顔でレシピを睨みながら試作を重ねていた母の織江が、3階と繋がる内線電話を取った。<br />「灯里、お父さんがコーヒー淹れてほしいって。まったく、私と二人のときは自分で淹れてたくせに。孫娘だと甘えるんだから」<br /> 野菜を切っていた手を止めて、灯里は母に訊ねる。<br />「これ、どうする?」<br />「ああ、そこのバットに種類ごとに並べておいて」<br />「わかった」<br /> 手早く残りの野菜を切り終えると、灯里は言われたとおりに銀のステンレス・バットに野菜を種類別に並べた。<br />「じゃ、行ってくるね」<br />「ああ、そうだわ。夕飯、何が食べたいか訊いておいて」<br />「はい」<br /> 灯里はそう答えるとエプロンを外して、「夏目クッキング・サロン」と書かれたドアを開けた。<br /> <br /> 「夏目クッキング・サロン」は母の織江が経営している。当初は料理教室がメインだったが、フードコーディネーターとしての需要が増えるにしたがって、料理教室の方は規模を縮小して完全予約制になっている。<br /> 灯里は現在、フードコーディネーター夏目織江のアシスタントとして、仕事をしている。<br /> 「夏目クッキング・サロン」が入るこの5階建てのビルは、灯里にとって祖父である夏目邦広が所有する不動産の一つだ。<br /> 1階がコンビニエンスストア、2階が「夏目クッキング・サロン」、3階が夏目家の住まい、4階が母の恋人でもある税理士の関根幸一朗の事務所と住まい、5階が某外資系企業の海外赴任者向け契約賃貸2部屋となっている。<br /> <br /> エレベーターで3階に上ると、灯里はオートロックの暗誦番号を手慣れた仕草で押した。<br />「お祖父様、お待たせ」<br /> 年長者には身内でも様をつけてしまうのは、リツと過ごした灯里の癖だ。リビングに入ると、いつものように祖父は壁一面に備え付けられたモニターを楽しそうに見ていた。そこには世界の主要マーケットの株価指数と為替がリアルタイムで映し出されている。<br />「ああ、忙しいところに悪かったね。でも、コーヒーは灯里に淹れてもらうのが一番旨い」<br /> 母の織江なら、「コーヒーメーカーなんだから、誰が淹れても同じでしょ」と言うところだろうが、灯里は笑って祖父の背中に訊ねた。<br />「お祖父様、何か甘いものでも召し上がる?」<br />「そうだな。ああ、関根が出張土産だとかで持ってきた長崎カステラがある。灯里も、よかったら食べなさい」<br /> 4階に事務所と住まいを借りている関根幸一朗は、もともとは夏目老人が眼をかけていた自身の税理士だった。それがいつの間にか娘の恋人となり、織江の仕事の税金関係も扱うようになった。<br />「本場のカステラね、おいしそう」<br /> 灯里はカステラを切り分けた皿とコーヒーをふたり分整えて、リビングに運んだ。<br /><br />「お母さんと関根さん、結婚しないのかな?」<br /> 淹れ立てのコーヒーを飲みながら灯里が訊ねると、夏目老人はつまらなさそうに眉根を寄せた。<br />「あいつは税理士だけに金銭感覚はあるが、投資の素質がない」<br />「そうなんですか?」<br />「何度か指南してやったが、見極めのセンスも度胸もない」<br />「いいじゃないですか、別に投資のセンスがなくたって」<br /> 可笑しそうに笑う灯里をまじまじと、見ながら夏目老人が言った。<br />「織江も、お前もセンスどころか興味もないときている。灯里、お前が結婚する相手は、私以上に投資の才能がある男がいい」<br />「そんな人、見つける自信なんて皆無だわ、お祖父様」<br />「つき合っている男はいないのか」<br />「いないです」<br /> 即答する孫娘に、夏目老人はやれやれという表情を見せた。<br /><br />「そういえば」<br /> 夏目老人が、カステラをひとかけ口に入れてから言った。<br />「仁科が、謝ってきた」<br />「え?」<br />「お前が私の孫娘だと、知ったらしい。慌てた様子で電話をかけてきて、お詫びに伺いたいと言ってきた」<br />「わざわざ、いらっしゃるんですか?」<br />「いや。それには及ばないと言っておいた。とっくに成人した孫や、姪のことで大の男が軽々しく出て行くものではない」<br />「申し訳ありませんでした」<br /> 自分に大学の事務の仕事を紹介してくれたのが、実は祖父だったと灯里はリツの手紙を読んで知った。リツの遺品整理で父の一史が見つけたリツの手紙は、当初リツが渡す予定だった20歳の誕生日を遥かに過ぎてから、灯里の元へ届けられた。<br /> それを読んで、灯里は母に会いたいと思ったのだ。そして、何も知らせずに自分を助けてくれていた実は祖父だった人にも。<br />「まったく。たった1年で足元を掬(すく)われるとは、お人よし過ぎる。人生経験が足らなさすぎる」<br /> もう何度も言われた小言を、灯里は今回も神妙に訊いた。その通り過ぎて、返す言葉がない。<br />「しかし、仁科には釘を刺しておいた。これは貸しだと。それと、これまでのように投資の相談には気軽に乗れないとも言っておいた。まあ、これが仁科一族にとっては、一番の痛手かもしれないがな」<br /> ニヤリと楽しそうに笑う祖父は、器は大きいけれど人が悪いと灯里は思う。<br />「あたしにも油断や甘えがあったんです。あまり苛めないであげて、お祖父様」<br /> そう言う灯里に、夏目老人は気難しい顔をつくって見せた。<br />「まあ、そう反省するなら、今度はもっとしたたかに、いや、しなやかに生きなさい」<br />「はい」<br /> 素直に応じる灯里に、夏目老人はやっと祖父らしい慈愛に満ちた笑顔になった。<br /><br />「そうだ、お祖父様。夕食、何かご希望ある?」<br />「どうせ、いま階下(した)でつくっている試作品でも食べさせられるんだろう」<br /> あからさまに顔をしかめた祖父に、灯里は噴き出した。<br />「今日のは、お祖父様向きじゃないです。だって、レシピのテーマが『初めて家に来た彼氏をメロメロにする料理』だもの」<br />「なんなんだ、それは」<br />「ほら、いま人気の女性アイドルグループ5人組が持ってるTV番組の中のお料理コーナーよ。お母さんたら、いまの若い男の子ってどんな料理にメロメロになるのって、頭かかえてた」<br /> それを訊いた夏目老人は、悲しげに頭を振った。<br />「まったく。美江が、お前のお祖母様が訊いたら、止めておきなさいと言いそうな仕事だな」<br /> 灯里の母方の方の祖母、夏目老人の妻の美江は、残念ながら3年前に他界して灯里は一度も会うことが叶わなかった。味付けは織江より美江に似ていると、夏目老人が相好を崩すその祖母に、灯里は会ってみたかった。そして、料理を手ほどきしてほしかった。<br />「お祖父様ったら、時代が違うんですもの。それに、結構楽しい仕事だとあたしは思います。若い子たちにも、見た目はイマドキでもちゃんとした家庭料理の味を知っておいてほしいじゃない?」<br /> そう言う灯里に、夏目老人は納得したように頷くと言った。<br />「じゃあ、灯里。私は茶わん蒸しが食べたい」<br />「わかりました。それと階下(した)にお野菜がいっぱいあったから、筑前煮と白身魚の野菜あんかけでどうですか?」<br /> 満足そうに頷く夏目老人に、灯里は茶目っ気を出してつけ加えた。<br />「あ、でも。あんかけに入れる人参は、ハート型になりますからね」<br />祖父の唖然とした表情に笑顔を返すと、灯里はリビングの扉を閉めた。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
408

第12章 永遠の追いかけっこ〈ⅰ〉

「おう、よく来たな。柊、入れよ」 インターホンを押すと、ドスドスと大股で歩く音が近づいてきて、勢いよく開けられたドアからアレンが顔を出した。「うん、久しぶり」  手土産に持ってきたワインを渡し、柊はマンションの中へ入った。「星奈、これ、柊から」「いらっしゃい、柊。なに?ワイン?わ、ありがとう」 エプロン姿でキッチンに立つ星奈に、柊が目を丸くしているとアレンが悪ガキのような眼で言った。「これで驚くの... <span style="font-size:large;">「おう、よく来たな。柊、入れよ」<br /> インターホンを押すと、ドスドスと大股で歩く音が近づいてきて、勢いよく開けられたドアからアレンが顔を出した。<br />「うん、久しぶり」 <br /> 手土産に持ってきたワインを渡し、柊はマンションの中へ入った。<br />「星奈、これ、柊から」<br />「いらっしゃい、柊。なに?ワイン?わ、ありがとう」<br /> エプロン姿でキッチンに立つ星奈に、柊が目を丸くしているとアレンが悪ガキのような眼で言った。<br />「これで驚くのは、まだ早いぞ。なんと、今日のシェフは星奈だ」<br />「えっ」<br /> マジで驚いた柊を、気にするでもなく、上機嫌の星奈が言う。<br />「うっふぅ。待っててね、柊。すんごいおいしいの、食べさせるから」<br /><br /> う、うっふぅって言ったか、いま? 星奈が、あの星奈が、女になっている。いや、性別はもとから女だが、そういう意味じゃなくて。<br /> それに、おいしいものって…怖いよ、何が出てくるか。いいのか、アレン?星奈をキッチンで野放しにして。<br /><br /> 眼を白黒させて何か言いたげな柊に、アレンは「わかってるよ」と言うように目配せした。<br /><br /> ここは、アレンが両親の離婚後も住み続けているマンションだ。柊にとっても馴染みの空間で、アレンは星奈と暮らしはじめた。<br /> あの学食での大公開プロポーズの後、星奈の両親に挨拶に行ったアレンは、兄弟も含めた家族全員に大歓迎されたそうだ。<br />「この星奈が、嫁に行く日が来るとは…」<br /> 感極まったように早くも涙する父親に、母親は今更、慌てふためいた。<br />「まぁまぁ、どうしましょう。星奈ちゃんに、家事もお料理も何にもさせてこなかったわ。いまから、間に合うかしら?間に合わなかったら、私も…ついて行く?」<br /> どうやら星奈の天然っぷりは、母親のDNAだとアレンは確信したらしい。<br />「姉さん、ビーカーで味噌汁とかつくりそうだもんな」<br />「星奈、掃除はいまはロボットがあるから大丈夫だ。洗濯は洗濯機がやってくれる。料理は…デパ地下がある、デリバリーもあるっ」<br /> 星奈のダメさ加減を隠しもしない弟と兄に、アレンは言ったそうだ。<br />「大丈夫です、料理は僕が得意です」<br /> 母親の顔が見る見る嬉しそうに、綻んだらしい。<br />「で、星奈。大学院は修了したら、どうするんだ?お前には奥さんだけでも大変なのに、働くのか?」<br /> 思い出したように訊く父に、今度も答えたのはアレンだったそうだ。<br />「星奈さんは大学に残って、研究者の道に進みたいそうです。僕も、それには賛成です。彼女の能力は家で奥さんをやるより、もっと広い世界と人類のために活かされるべきです」<br /><br /> <br />「どうだ、完璧だろ?」<br /> アレンは得意そうに今井家訪問の顛末を語ったが、その話を訊いたとき柊は、もうこの破格なビッグカップルに感服するしかなかった。<br />「おまたせ~」<br /> キッチンから、星奈がカセットコンロを運んできた。<br />「お、手伝うよ」<br /> その姿を見たアレンが、キッチンに消える。<br /> やがてアレンは、大きな土鍋を運んできた。その後ろから星奈が、それぞれの取り分け用の器や箸やらを乗せたお盆を持って続いている。<br />「そうか、鍋か」<br /> 柊は合点がいった。<br /> ほっとしたような表情の柊を面白そうに見ながら、アレンが言う。<br />「今日は、胡麻みそ辛鍋だ」<br />「おいしいんだよ~。本場韓国キムチ鍋と迷ったんだけど、これにしたんだよねぇ、アレン」<br /> 星奈が嬉しそうに言って、土鍋の蓋を取る。途端、湯気とともにコクのあるおいしそうな匂いが立ち上った。<br />「まずは、乾杯だな。最初はビールでいいよな?柊」<br />「うん」<br />「じゃあ、柊の就職に乾杯!」<br /> アレンがそう言って、3人できりりと冷えたビールで乾杯した。<br /> そう、柊は再来月から社会人になる。大学に残るより、企業の研究室を選んだ。<br /> <br />「さぁ、食べて食べて。鍋はいいよぉ、野菜も肉も魚も全部味わえるもん」<br />「ぷ、星奈らしいよ」<br />「え~、なによ。柊、バカにしてるでしょ」<br />「してないよ。うん、旨いっ」<br /> 冷たいビールと熱い鍋、本当に最高だった。<br />「柊、星奈はこの冬、何回、鍋したと思う?」<br /> アレンが、肉や野菜をふうふう言って頬張りながら訊ねる。<br /> 柊が少し考えていると、星奈が口を尖らせながら言い訳した。<br />「なによぉ。だって、いまは本当にいろんな種類の鍋用スープが売ってるんだよ。どれも試してみたいじゃない」<br />「どんなの試したの?」<br />「えーと。まずこの胡麻みそ辛鍋は、この他にマイルドも塩味もあるの。それに豆乳鍋でしょ、美肌コラーゲン鍋、キムチ鍋にカレー鍋、トマトチーズ鍋に比内鶏しょうゆ鍋、それから…」<br /> まだまだ続きそうな星奈に、柊は半ば呆れながら確かめた。<br />「いま上げたの、全部試したんだよね?」<br />「ん?当然!一番おいしかったのは、この胡麻みそ辛鍋だけど、美肌コラーゲン鍋もなんか独特でクセになる味だったよ」<br />「おかげで、俺の肌もつるつるピカピカさ」<br /> おどけて言うアレンに、柊はたまらず吹き出してしまった。<br /> 星奈はまたしてもちょっと膨れながら、アレンと柊の顔を窺うように言う。<br />「しょうがないじゃない。いまのとこ、野菜切って、肉や魚は切り身を入れればいい鍋しかできないんだもの」<br /> そんな星奈が可愛くてたまらないという顔をして、アレンが優しくフォローする。<br />「大丈夫だよ。それで充分、星奈の頑張りは伝わってるから。お互いができること、得意なことを分担してすればいいんだ。俺たちは最初から、そうするって決めて夫婦になったんだろ?ほかがどうとか、世間がどうとか、そんなのは関係ないさ。これが俺たちの幸せのカタチなんだから、な?」<br />「うん」<br /> 幸せそうに頷く星奈を見て、本当にいい夫婦だと柊は思った。<br /><br /> 鍋の後片付けを3人でして、その後はアレンお手製のスモークチーズやピクルスでワインを飲んだ。スモークしたうずらの卵や、カリフラワーのピクルスを食して、こっちのほうはさらに腕を上げたな、と柊は思った。<br /><br />「ところで、ピアノ、どうしたんだ?」<br /> 前より広く感じるリビングを見渡して、柊はアレンに訊ねた。<br />「ああ」<br /> アレンが、星奈と顔を見合わせる。<br />「アレンのお母さんの実家に送ったの。ピアノが弾きたいって、言いはじめたから。ね?」<br /> 星奈が、アレンの手にそっと自分の手を重ねて、その顔を窺うようにして言った。それに応えるようにアレンも、星奈の手を優しく握り返した。<br />「それはつまり…良くなっているということ?」<br /> 慎重に訊く柊に、アレンが頷いた。<br />「ピアノを弾くようになってからは、さらに感情も体調も落ち着いてきた。婆ちゃんの話だと、最近は笑うようになったそうだ」<br />「よかった」<br /> 柊がそう言うと、幸せそうなふたりはさらに想いのこもった眼で見つめ合い微笑んだ。<br /> これなら。<br /> アレンの秘密は、もうふたりの間では秘密でも何でもなくなっているだろう。このふたりは、幸せも苦しみもシンプルに共有すること望むんだろう。それが自然にできる稀有なパートナー同士だ。<br /> 自分も心の中に温かな幸福を感じて、柊は微笑んだ。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
407

第11章 手 紙〈ⅴ〉

◆ リツから 灯里への手紙 灯里、二十歳の誕生日おめでとう。 あなたと勝哉の許婚の件を、公式に発表した今日、この手紙を書いています。 この手紙をあなたが読む頃、私はあなたの傍で相変わらず、怖くて厳しいお祖母様としていられるでしょうか?こんな気弱なことを書くのも、近頃少し体調が悪くてね。でも憎まれる存在ほど長生きするというから、まあ、大丈夫でしょう。 灯里、あなたは私が本心から認めて、そうあってほしい... <span style="font-size:large;">◆ リツから 灯里への手紙<br /><br /> 灯里、二十歳の誕生日おめでとう。<br /> あなたと勝哉の許婚の件を、公式に発表した今日、この手紙を書いています。<br /><br /> この手紙をあなたが読む頃、私はあなたの傍で相変わらず、怖くて厳しいお祖母様としていられるでしょうか?こんな気弱なことを書くのも、近頃少し体調が悪くてね。でも憎まれる存在ほど長生きするというから、まあ、大丈夫でしょう。<br /><br /> 灯里、あなたは私が本心から認めて、そうあってほしいと願う『北賀楼』の後継者です。そのために幼い頃から厳しく手塩にかけてあなたを育ててきたつもりです。<br /> 実の母の手から乳飲み子のあなたを奪い、その母の行方を知らそうともしない。母を恋しがりはじめている子供のあなたに、もう別の家庭を持っているから、その幸せを邪魔するなとまで言いましたね。冷酷な、鬼のようなお祖母様だと思ったことでしょう。<br /><br /> でも、私はあなたに強くしなやかに覚悟を持って、その人生を生きてほしいと思ってきました。『北賀楼』を継ぐにしても、継がないにしてもです。どんな人生を選ぶにしても、最期は自分次第なのです。だからあなたを育てるのに、容赦はしませんでした。いまでも、それが間違っていたとは思っていませんよ。<br /><br /> 二十歳になったあなたに、言いたいことがあります。<br /> 『北賀楼』を継ぐ覚悟がありますか?もし一瞬たりとも迷いがあるなら、お辞めなさい。迷いのある人間に継げるほど、甘い世界ではないのでね。<br /> でも、もしその覚悟が持てるのなら、私が生きている間は全身全霊であなたを支えます。勝哉は才能のある板前です。いますぐに愛せなくても、あなたにとって最良の伴侶になると私は信じています。<br /> でも万が一、あなたがどうしても受け入れることができないのなら、『北賀楼』と私を思い切ってお捨てなさい。中途半端な未練や甘えを捨てて、あなたが非情になれるのなら、私はあなたの選択を尊重します。<br /><br /> もう一通の、手紙が入っているでしょう?<br />あなたが『北賀楼』を勝哉と継ぐのなら、それは開封せずに焼いてください。そして継ぐ気がないのなら、読んでご覧なさい。<br /> 決めるのは、あなたですよ。人生のどんな場面でも。<br /> 灯里、二十歳になったあなたを、私は一人の大人として尊重します。<br /><br /><br /><br />◆ リツから 灯里へのもう一通の手紙<br /><br /> 灯里、開封したのですね。実は、そうするのではないかと、思っていました。<br /><br /> あなたの母親と、その家族のことについて書きましょう。<br /> まず、あなたの母方のお祖父様ですが、夏目邦広と言って某出版社の取締役まで務めた方です。主に政治経済誌の記者や編集長の仕事をこなす側ら、趣味ではじめた株や投資等でも類まれなセンスと才能を発揮して、現在はかなりの財をなし成功していると訊いています。<br /> またあなたのお祖母様は、夏目美江と言って当時数少ない女性料理研究家でした。お祖父様とお祖母様の出会いは、お祖母様の料理本の編集に携わったご縁だと訊いています。<br /> あなたはそんなお祖母様の血を引いていたからか、幼い頃から味覚が鋭くて、私が料理に使われている出汁や隠し味の試験をしても驚くほど敏感だった。お弁当作りをはじめるようになってからは、さらにその天賦の才能を感じさせて「血は争えない」と思ったものです。<br /> あなたが男に産まれていたら、私はあなたを何が何でも『北賀楼』の板前にしていたでしょう。ええ、間違いなく。<br /> お祖父様とお祖母様は『北賀楼』の味も愛してくださって、折々に訪れては季節の味覚を愉しみ、知り合いにも紹介してくださいました。そんなご縁で、私はあなたの母親になる織江とも出会ったのでした。<br /> 織江を一目見て、私はその芯の強さと茶道や華道などのたしなみ、料理への勘の良さを大変気に入ってしまい、半ば強引に一史の嫁として夏目家から貰い受けたのです。<br /> けれども、上手くいきませんでしたね。男女の機微というのは、正直、私にはいまもよくわかりません。なぜ、あの凛と何事にもよく出来た織江ではなく、おっとりと頼りない万祐子がいいのか…。まあ、これは言っても仕方ない愚痴なので、これ以上は止めておきますが。まったく一史ときたら、煮え切らないだけでなく、夏目家に対する私のメンツも手酷く潰してくれましたよ。<br /><br /> それはさておき、灯里。あなたのお祖父様、お祖母様はいまも東京でご健在です。また織江が結婚して幸せな家庭を築いているというのは、まだ子供だったあなたを迷わせないための私の嘘です。ごめんなさい、お祖母様は謝ります。<br /> 私の知る限り、いまも独り身で料理に関する仕事をしているそうです。会いたいですか?それなら、会いにお行きなさい。<br /> 母親に会うのも、お祖父様やお祖母様に孫として対面するのも、もう、あなたの自由です。住所を記しておきますから、いつでも会いに行ったらいいでしょう。<br /> 二十歳になったあなたに伝える言葉。<br /> 私はそれをずっと考えながら、あなたを育ててきたような気がします。<br /> 厳しく温かみのないお祖母様だったかもしれませんが、私なりの愛情は注いできたつもりです。そして、あなたは充分に応えてくれましたよ。<br /><br /> そうね、このお言葉にしましょう。<br /> 私はあなたを、一人の人間として誇りに思い、いつもどんなときも信じています。<br /> 幸せにおなりなさい、私の大切な灯里。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
406

第11章 手 紙〈ⅳ〉

◆ 繭里から 柊への手紙 日ごとに秋色深まる季節。 柊ちゃん、いかがお過ごしですか? 突然、東京へお姉ちゃんと柊ちゃんを訪ねてから、ずいぶんと時間が経ってしまいました。勝哉さんとの生活がまた元のように落ち着いたら、お便りしようと思っていましたが、悪阻や初めての妊娠でいろいろ戸惑うことも多く、大変遅くなってしまってごめんなさい。 1週間前、無事、男の子が産まれました。少し早産で2570gと小さいですが、と... <br /><span style="font-size:large;">◆ 繭里から 柊への手紙<br /><br /> 日ごとに秋色深まる季節。<br /> 柊ちゃん、いかがお過ごしですか?<br /><br /> 突然、東京へお姉ちゃんと柊ちゃんを訪ねてから、ずいぶんと時間が経ってしまいました。勝哉さんとの生活がまた元のように落ち着いたら、お便りしようと思っていましたが、悪阻や初めての妊娠でいろいろ戸惑うことも多く、大変遅くなってしまってごめんなさい。<br /><br /> 1週間前、無事、男の子が産まれました。少し早産で2570gと小さいですが、とても元気です。<br /> 名前は「一哉」、『北賀楼』を継ぐ家に産まれた男子は必ず「一」の字を入れることがしきたりになっていて、長男でも次男でも「それぞれが唯一の存在」という意味と「一番になれる才を磨け」という意味が込められているのです。<br /> 勝哉さんは父親となって、いっそう一家の、そして『北賀楼』の大黒柱としての自覚がましてきたようで、花板としての日々の研鑽に余念がありません。その甲斐あってか、お得様はもとより新規のお客様からの評判も上々です。<br /> 私は母になって、月並みですが、自分の命に代えても守りたいと思える存在を与えていただいた幸せに感謝する日々です。<br /><br /> そう言えば、私はあの夏の日も、東京でも「私は幸せにならなければならない」と柊ちゃんに言いましたね。<br /> お姉ちゃんの苦しみ、勝哉さんの苦しみ、それをわかった上で、だからこそその思いは私を支える因(よすが)だったのではないかと、いまでは思っています。<br /><br /> いまにして思うのですが、お姉ちゃんは勝哉さんとのことを、柊ちゃんに知られるのが一番怖かったのではないでしょうか。だってお姉ちゃんは、物心ついたときから柊ちゃんが大好きで、いつだったか柊ちゃんに「汚らわしい」と言われたことをずっと気に病んでいたから。許婚がいるだけで汚らわしいと言われたお姉ちゃんにしたら、柊ちゃんにどんな眼で見られるか、それはそれは恐ろしかったと思います。<br /> だから、お姉ちゃんはいまでも消息を絶ったままなのではないでしょうか。<br /><br /> そして勝哉さんも、私にお姉ちゃんにしたことを知られるのが恐ろしくてたまらなかったそうです。とくに「繭を愛していると気づいてからは、いっそう恐ろしく苦しかった」と何度も話してくれました。<br /> 私は、結婚前から知っていたのに…。でも、それでも私は勝哉さんが嫌いになれなかった。だから、私は「忘れよう」と決めたんです。どんなに卑怯であっても、忘れることでなかったことにしようと思ったんです。<br /> でもそれが逆に、勝哉さんの苦しみを深めてしまっていたかもしれません。私は一生懸命、幸せそうに振る舞って、勝哉さんにも「幸せだ」って言っていて。なのに、そんな私の必死の嘘は、お祖母様の葬儀で脆くも崩れてしまいました。<br /> あのとき、お姉ちゃんを見た勝哉さんは、自分の取り返しのつかない罪を、もう一人で抱えていることができなくなったんです。『北賀楼』を辞めるという手紙と、離婚届を置いて姿を消した勝哉さんを、そこまで追い詰めたのは私の利己的な嘘だったのかもしれません。<br /> でも、いま私は本当にあのことを「忘却」しようと思っています。勝哉さんのために、一哉のために、お姉ちゃんや柊ちゃんや『北賀楼』のために。<br /> それはますますエゴだと、柊ちゃんの眼には映るかもしれませんね。でも、私がいまやっと辿り着いた愛の形は「忘却」なのです。<br /><br /> 柊ちゃん、お姉ちゃんを「汚らわしい」と思いますか?私は、いまの柊ちゃんならそんなこと思わないと信じています。<br />お祖母様の葬儀のとき、お姉ちゃんを傍でずっと支えていた柊ちゃんの姿を覚えているからです。柊ちゃんはお姉ちゃんしか見ていなくて、全身全霊をお姉ちゃんに捧げていて。そんな柊ちゃんならどんなお姉ちゃんも受け止められると思うのは、私の都合のいい勘違いですか?<br /> お願いです、柊ちゃん。お姉ちゃんを探してください。そして、柊ちゃんの愛の形を伝えてあげて。それができるのは、柊ちゃんしかいないから。<br /> それが大人になっても、相変わらず我儘な幼なじみからの一生のお願いです。<br /> お願い、柊ちゃん。お姉ちゃんを、幸せにしてあげて。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
405

第11章 手 紙〈ⅲ〉

◆ カオルから 灯里への手紙 Hello! 灯里。 あたしの相棒、双子の片割れ、永遠のBest friend!! メールにしようと思ったんだけど、すんご~く長くなっちゃいそうだから、手紙にするねっ。 じゃ~ん、Big newsです! シンジが、いま大注目のアーティストJ.Oの世界ツアーのバックダンサーに抜擢されましたぁ~。凄いでしょ、もうあたし、大興奮だよ。 オーディションはなんと5次審査まであって、3000人を超える応募があった... <span style="font-size:large;">◆ カオルから 灯里への手紙<br /><br /> Hello! 灯里。<br /> あたしの相棒、双子の片割れ、永遠のBest friend!!<br /> メールにしようと思ったんだけど、すんご~く長くなっちゃいそうだから、手紙にするねっ。<br /><br /> じゃ~ん、Big newsです!<br /> シンジが、いま大注目のアーティストJ.Oの世界ツアーのバックダンサーに抜擢されましたぁ~。凄いでしょ、もうあたし、大興奮だよ。<br /> オーディションはなんと5次審査まであって、3000人を超える応募があったらしい。あたしは残念ながら3次審査で落ちちゃったけど、シンジは最終の25人に選ばれたの。日本人で選ばれたのは、もちろんシンジ一人だよ。カッコいでしょ?さすがシンジだよねえ。<br /> いまシンジは、猛レッスン中。来年になったら全米からヨーロッパ、アジアを周る約半年間のツアーがスタートするんだ。<br /><br /> で、あたしはどうするかって?<br /> もちろん、ツアーについていくのだ!<br /> だってさ、バイト先のネイルサロンであたしを気に入って指名してくれるお客さんが、なんとJ.Oのマネージャーでお姉さんのマギーだったんだよ。なんなのこんな偶然って感じで、超ラッキー。日本人の手先の器用さ、舐めんなよ!<br /> あ、それにね、あたし、歯科技工の技術をネイルアートに活かすグッド・アイデア思いついたんだ。いずれ日本に帰ったら実用新案特許とるぞぉ~。どんなアイデアかはいまんとこ企業秘密だょおん。もう、歯科技工士も舐めんなよって感じ? <br /> って、話が逸れちゃったけど、とにかくそんな感じでマギーと仲良くなったから、思い切って頼んでみたんだ。もう雑用でも何でもするからツアーに参加させてくれないかなぁって。そしたら、なんとあっさり「OK!」。いやあ、言ってみるもんだねぇ。<br /> それ訊いて、シンジったら「お前の悪運の強さは、世界レベルだ。しかも、どんだけ強引なんだよ」って。失礼しちゃうよね。<br /> でも悪運だって、強引だって、夢をかなえたもん勝ちじゃない?何といっても、これで半年間、シンジと一緒に世界を周れるんだよぉ~。<br /> 来年の秋には日本にも行く予定。待っててね、灯里。あたしもシンジも、そのとき会えるのを楽しみにしてるよ!<br /> <br /> あ、そう言えば、また引っ越ししたの?大学も辞めちゃったって、もう、灯里も人生ちゃんと考えなよ。まあ、何があっても、あたしとシンジがついてるから。<br /> We love you, AKARI!   <br /> ♡♡♡ XXX</span><br /><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a>
403

第11章 手 紙〈ⅱ〉

◆ 三宅 雅彦から 灯里への手紙 北川さん、いま、どうしていますか? 料理教室に突然来なくなって心配していたけれど、仁科さんからご実家のご不幸の話を訊いて、あのお祖母様が他界されたことを知りました。何年もずっとお見舞いに通い続けていたキミだから、どんなにショックだったろうと心が痛みます。遅くなりましたが、心からお悔やみ申し上げます。 思えば、あの長期療養病院で偶然にも再開したことから、私たちの人間同士... <span style="font-size:large;">◆ 三宅 雅彦から 灯里への手紙<br /><br /> 北川さん、いま、どうしていますか?<br /> 料理教室に突然来なくなって心配していたけれど、仁科さんからご実家のご不幸の話を訊いて、あのお祖母様が他界されたことを知りました。何年もずっとお見舞いに通い続けていたキミだから、どんなにショックだったろうと心が痛みます。遅くなりましたが、心からお悔やみ申し上げます。<br /> 思えば、あの長期療養病院で偶然にも再開したことから、私たちの人間同士のつきあいがはじまったのでしたね。<br /> 妻と向かい合う勇気を与えてくれ、妻が目を覚ましたときの目標まで与えてくれたキミに、私はどんなに感謝していることか。<br /> だから仁科さんから、「北川さんが突然、大学を辞めた」と訊かされたときは、本当に驚いたんだよ。何があったかはわからないが、ひと言でも相談してほしかった。私はそんなに頼りにならない存在かと、ちょっとショックだった。<br /> まあ、冗談はさておき。<br /><br /> メールアドレスも電話番号も変えたようだから、望みは手紙かなと思ってこれを書いています。<br /> もう、新しい仕事はしているのかな?もし、私に力になれることがあったら、遠慮せずに何でも言ってください。何といっても、北川さんは私たちの恩人だから。<br /><br /> そう、キミは私と妻の恩人です。<br /> 2週間前、妻が眼を覚ましました。<br /> 私がいつものように、日常にあった他愛もないことを妻に話して聞かせているときでした。握っていた彼女の指が、かすかに動いたの感じたのです。最近は、それがめずらしいことではなくなっていたから、私は妻の名前を呼びました。<br />「友美恵、友美恵」<br /> 呼びかけに反応するように、さらに指が動きます。私は思わず両手で彼女の手を強く握りしめてしまいました。<br />「友美恵、聞こえるかい?僕だよ、友美恵」<br /> 彼女の手を両手でさすりながら、私は何度も何度も呼びかけました。でも、次第に彼女の指の動きは緩やかに停止して、「まあ、焦ることはないのだ」と自分に言い訊かせたそのときでした。<br /> 彼女の眼が、突然開いたのです。私は本当にびっくりして、恐る恐る彼女の眼を覗き込みました。<br /> でも彼女の表情は変わらず、その瞳に私が映っているのかわかりませんでした。<br />「友美恵、僕だよ。わかるかい?」<br /> そう言って、再び手をさすりました。看護士さんを呼びたいのだけれど、その間に友美恵が再び眼を閉じてしまうことが怖くて、その手を離すことができません。<br /> そうしているうちに、何度も彼女の名前を呼ぶ私に、看護士さんの方が気づいてくれました。<br />「まあ…」<br /> いつも良くしてくれる40代くらいの看護士さんが、眼を開けている友美恵を見て、驚きのあまり絶句しました。そして、すぐに担当医を呼びに行ってくれたのです。<br /> 先生が駆けつけてくれたとき、まだ友美恵は眼を開いたままでした。先生は友美恵の眼の前で手を振ったり、光を当てたり、肩にそっと触れて呼びかけたりしてくれました。<br /> でも何の反応もないままに、友美恵は再び眼を閉じてしまいました。<br /> <br /> 私はすぐに有給休暇を取り、駅前のビジネスホテルに宿泊して毎日、友美恵を見舞いました。<br /> 友美恵の両親も、次の日から同じように毎日、病室を訪ねてきます。<br /> 友美恵は日によって時間こそ違いますが毎日、数分だけ、眼を開けてくれます。指の動きも前より滑らかになって、握れば応えるような反応を見せてくれるようになりました。<br /> 奇跡だ、と思いました。私は、人生の中でいまはじめて奇跡を見ているのだと、武者震いしました。両親も「信じられない、信じられない」を繰り返していました。<br /> そしてとうとう2日前に、友里恵が言葉を発しました。<br />「ま、さ、ひこ…さん」 <br /> 涙が突然、恐ろしいほどの勢いで溢れ、嗚咽が止まりませんでした。躰中に鳥肌が立って、もうどうしていいかわからないほど感動しました。両親も手を取り合って、泣いています。<br /> それから覗き込んだ友里恵の眼には、微かな反応がありました。<br />「これから、どんどん良くなりますよ」<br /> 先生も看護士さんも、そう言ってくれました。<br /> 両親は、先生と私に「ありがとうございます、ありがとうございます」と繰り返すのです。先生はともかく、私などどんなに罵倒されても仕方ない存在なのに。<br /><br /> 北川さん、キミのお蔭です。キミが私に希望をくれたから。<br /> その希望に縋った私は、奇跡を見ました。救われました。<br /> この感謝は、どんなに言葉を尽くしても伝えられるものではありません。<br /> 北川さん、もう一度訊ねます。<br /> キミはいま、希望を抱いていますか?幸せですか?私にできることは、ありませんか?<br />今度は、私の番です。私たちの恩人のために、できる限りのことをしたいと思っています。心の整理がついたら、一度、連絡をくれないだろうか。待っています。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
404

修正なのにゃん

えっとぉデス(*´ω`*)昨日、今回の小説の間違いを教えてくださった方、ありがとうございました。コメ返だと気づかれないかも…と思い、記事にしました。大学法人だから、「退社」じゃなくて「退職」、「正社員」じゃなくて「正採用」、「契約社員」じゃなくて「臨時職員」。うわぁおぉ~~~、ごもっともだぁ~!!しかも「激しい憎悪を剥ける」じゃなくて「向ける」…。いくら、いろいろ剥くのが好きだからって…ああ、はぢかしい…(●... えっとぉデス(*´ω`*)<br /><br />昨日、今回の小説の間違いを教えてくださった方、<br />ありがとうございました。<br />コメ返だと気づかれないかも…と思い、記事にしました。<br /><br />大学法人だから、「退社」じゃなくて「退職」、<br />「正社員」じゃなくて「正採用」、「契約社員」じゃなくて「臨時職員」。<br /><br />うわぁおぉ~~~、ごもっともだぁ~!!<br /><br />しかも「激しい憎悪を剥ける」じゃなくて「向ける」…。<br /><span style="color:#999999"><s>いくら、いろいろ剥くのが好きだからって…</s></span><br />ああ、はぢかしい…(●´ω`●)<br /><br /><a href="http://otonaasabi.blog.fc2.com/img/20140922193816735.jpg/" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-67.fc2.com/o/t/o/otonaasabi/20140922193816735.jpg" alt="脱力" border="0" width="171" height="150" /></a><br /><br /><img src="http://blog-imgs-1.fc2.com/emoji/2009-03-17/369100.gif" alt="" border="0" style="border:0;" class="emoji">「まったく、もぅっ。こんなアホな飼い主に飼われているかと思うと、<br />飼い猫としてはずかしいゎっ。<br />むなしくて、脱力しちゃうじゃないの。 あぁん、もう、秋ね。。。」<br /><br />ご、ごめんね、maoちゃ。<br />maoちゃんにまで、はぢかしい思いをさせて。<br />もう、反省、猛反省よっ!<br /><br />でも…なんかこれで一皮剥けた気がするわん(*´ω`*)<br /><br /><img src="http://blog-imgs-1.fc2.com/emoji/2009-03-17/369100.gif" alt="" border="0" style="border:0;" class="emoji">「なに言ってんのよ!<br />まだまだよっ。一皮も二皮も、365皮も剥けなさいっ!」<br /><br />やぁあ~ん、そんなに剥けたら、いなばの白うさこになっちゃうわん(*´ω`*)<br /><br /><img src="http://blog-imgs-1.fc2.com/emoji/2007-08-26/154040.gif" alt="" border="0" style="border:0;" class="emoji">「てか。<br />そんなくだらないやりとりしてる暇があったら、さっさと<br />ご指摘の箇所を直しなさい」   ←誰っ? 久々登場、好きなひとデス。うひっ(●´ω`●)<br /><br />すみませ~ん!<br />本日中に修正しますっ!!<br />教えていただき、ありがとうございました。m(__)m<br /><br /><br />
402

第11章 手 紙〈ⅰ〉

◆ 須藤 典子から 灯里への手紙 北川さん、お元気ですか。 引っ越しをされたとかで、この手紙があなたの元へ届くかどうかわからないけど、どうしても伝えなければならない気持ちが抑えきれなくて書いています。 まず最初に、ごめんなさい。謝っても許してもらえるかわからないけれど、本当に申し訳なく思っています。 北川さんのお家にご不幸があって、忌引をされている間、私は教務課に女性一人で心もとなさそうにしている仁科... <span style="font-size:large;"><br />◆ 須藤 典子から 灯里への手紙<br /><br /> 北川さん、お元気ですか。<br /> 引っ越しをされたとかで、この手紙があなたの元へ届くかどうかわからないけど、どうしても伝えなければならない気持ちが抑えきれなくて書いています。<br /><br /> まず最初に、ごめんなさい。謝っても許してもらえるかわからないけれど、本当に申し訳なく思っています。<br /> 北川さんのお家にご不幸があって、忌引をされている間、私は教務課に女性一人で心もとなさそうにしている仁科さんを誘ってお昼を食べるようになりました。北川さんがまた大学に来られるようになっても、体調がすぐれなさそうだったから、仁科さんとのお昼が続いていたのは知っての通りです。<br /> 仁科さんは本当にお嬢さんで、なんだか放っておけない不器用なところがあって、私だけでなく学生課の近藤さんや中田さんも、年の離れた妹のように可愛がっていました。高橋さんだけは、あまり彼女とソリが合わなかったみたいだけど。<br /> 年も改まったある日、いつものように仁科さんとお昼を食べていると、突然彼女がこんなことを言いだしたのです。<br />「なんだか北川さんって、男性関係が派手らしいですよ」<br /> 同じ教務課で、北川さんと仁科さんは仲が良いと思っていた私や近藤さん、中田さんは最初驚きました。<br />「なんでそんなことを言うの?確証もないのに、滅多なことを言ってはダメよ」<br /> と、窘(たしな)めた記憶があります。でも彼女はお昼のたびに、北川さんの良くない噂話をします。ときには具体的に、三宅さんとかいう前の会社の上司の名前も出したりして。おまけにその三宅さんという人と、仁科さんも北川さんも同じ料理教室に通っているから、ふたりの親密な様子は料理教室でも噂になっていると言うのです。<br /> 最初こそ信じていなかった私ですが、北川さんが密かに次に狙っている相手として高橋さんの名前を出されたときには、訳のわからない嫉妬で眼の前が真っ暗になりました。<br /> 高橋さんが北川さんをモデルに写真展で賞を取ったときから、どんなにいままで通りあなたに接しようと思っても、どうしてもできない自分がいて、そんな自分を正当化するチャンスだと思ったのかもしれません。<br /> 私は仁科さんに便乗するように、近藤さんや中田さんに、北川さんがうちの大学の院生にまでちょっかいを出しているらしいと言いふらすようになっていました。高橋さんにまでそう言ったとき、彼は何も言わず酷く冷たい目で私を見て、さらにヤケになってしまったんです。みんな北川さんに騙されてる、あんな清純そうな顔をして、裏で何やっているかわからないと、あのときの私は本気でそう思い込んでいたんです。<br /> いま思えば、何と愚かで滑稽なことでしょう。恥ずかしくて、あのときの自分を蹴り飛ばしてやりたいくらいです。<br /><br /> そして4月になって次長から、「実は北川さんは3月末日で契約切れとなった」と訊かされたとき、私は初めて正気に戻ったのです。<br /> 自分は、なんてことをしてしまったんだろう。根も葉もない噂を信じて、さらに尾ひれをつけて流して、なんの咎(とが)もない人の人生を狂わせてしまった。<br /> 高橋さんも、近藤さんも、中田さんも、唖然としていました。そこまで大事になるとは、誰一人、予想していなかったからです。<br /> でも、仁科さんを責めることはできません。なぜなら、私も同罪だからです。<br /> 私は高橋さんたちと話し合って、次長になんとかいまからでも契約を継続してもらうことはできないかとお願いしました。けれども次長の返事は「もう、あの噂は理事の耳にまで入っているから、無理だ」という冷たいものでした。<br /> 北川さん、本当に本当にごめんなさい。あなたは、いま、どうしているのでしょう?新しい仕事をしているのでしょうか?良き仕事仲間に囲まれて、新しい環境と住まいで心機一転、頑張っているのだといいのだけれど。<br /> もしも、もしも、そうでないなら私にできることは何かありますか?高橋さんや近藤さん、中田さんも同じ気持ちです。一緒に旅行にまで行った仲間を、信じて守ってあげられなかったことを、私たちはとても後悔しています。<br /> なぜ、あんなに優しくて控え目で賢いあなたに、何もしてあげられなかったのか。<br /><br /> それと、仁科さんのその後についてもお知らせしておきます。知りたくはないかもしれないけれど、あなたには知る権利があると思うからです。<br /> 彼女は、春学期いっぱいで結婚退職しました。お相手は、お父様の会社関係の優秀な方だそうです。お家もお金持ちだとかで、「結婚式には有名な政治家やビッグネームの歌手、俳優なども参列するから、ぜひいらして」と言われましたが、みんな分不相応だからと遠慮させていただきました。新婚旅行はヨーロッパ周遊、新居は都内の高級マンション、通いのお手伝いさんとシェフがいるそうです。<br /> 私たちとは、かけ離れた世界で生きている方だったんですね。<br /> そして件(くだん)の理事というのが、仁科さんの叔父さんにあたる方でした。彼女はもともと、その理事の後押しで最初から臨時採用ではなく正採用として入ったのだそうです。<br /> 仁科さんに関して、私たちは事実をそのまま受け止めています。それについて、何を言う気にもなれないからです。<br /><br /> 北川さん、あなたは本当に真っ直ぐで、気持ちのいい人でした。そんなあなたと、ほんの少しの間でも同僚でいられたことを、私たちは嬉しく思っています。そして、あなたがいま、幸せに新しい人生を歩んでいることを願ってやみません。<br /> 北川灯里さん。<br /> ごめんなさい、そしてありがとう。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
401

第10章 別 離〈ⅵ〉

 3月。 アレンは、無事に卒業式を迎えた。「おめでとう、アレン」 嬉しそうに祝福する星奈を、アレンはキスしながらハグした。「とうとう卒業だな、アレン」「ああ。柊、お前もキスしてハグする?」「い、いや。遠慮しとく」 卒業式が終わったばかりの学食で、アレンと星奈、柊は缶コーヒーで乾杯した。春休みということで、出てきている学生はまばらだが、それでも女子学生からアレンは結構な数の花束をもらっていた。 その... <span style="font-size:large;"> 3月。<br /> アレンは、無事に卒業式を迎えた。<br />「おめでとう、アレン」<br /> 嬉しそうに祝福する星奈を、アレンはキスしながらハグした。<br />「とうとう卒業だな、アレン」<br />「ああ。柊、お前もキスしてハグする?」<br />「い、いや。遠慮しとく」<br /> 卒業式が終わったばかりの学食で、アレンと星奈、柊は缶コーヒーで乾杯した。春休みということで、出てきている学生はまばらだが、それでも女子学生からアレンは結構な数の花束をもらっていた。<br /> その花束にヤキモチを妬いている星奈を微笑ましく見ながら、柊はアレンに訊ねた。<br />「来週早々には、また海外だって?」<br />「淋しいか、柊?」<br />「訊く相手、間違ってるし」<br />「はは。ベイビーは、もちろん淋しいさ。なあ?」<br /> そう水を向けるアレンに、星奈は首を竦めて舌を出す。<br />「別に。もう慣れたから」<br />「なんだよ、つれないな。花束にヤキモチか?」<br />「な、何言ってるのよ。あたしは研究や実験で忙しいのっ。邪魔がいなくて清々する」<br /> アレンは呆れたように両手を上げる。<br />「邪魔って…ベイビー。あんまりつれないと、俺、海外で浮気しちゃうかもしれないぞ。心配じゃないのか?」<br />「そんなことより、あんたの将来設計の方が心配よ。ずっと、この仕事続けるつもり?」<br /> つきあいはじめはともかく、すっかりまた元のペースに戻っているふたりに、柊は思わず吹き出した。<br /> そんな柊を軽く睨むと、アレンはめずらしく真面目な顔で星奈に言った。<br />「この仕事は、目標額がたまったら辞めるつもりだ」<br />「目標額?」<br /> 星奈と柊が顔を見合わせる。<br />「ああ。俺、この仕事を通して知り合った人とビジネスはじめるつもりなんだ」<br />「ビジネス?」<br />「まさか、やばい仕事じゃないでしょうね?」<br /> 驚く柊と星奈に、アレンは苦笑する。<br />「あのな、もっと俺を信用しろよ、ふたりとも」<br />「ビジネスって、どんなビジネスよ?」<br /> 心配のあまり前のめりになって訊く星奈の頬を軽く撫でながら、アレンは言った。<br />「親がいない子供や、虐待や育児放棄された子供たちを引き取る施設をつくる」<br />「えっ」<br />「それ、マジ?」<br />「ああ、マジだよ、柊。ビジネスパートナーやブレインには、何人か名乗りを上げてくれてて。いずれもきちんとした企業家や、仕事関係の地位も名誉もそこそこ備えてる人たちだ」<br /> 柊は意外だった。でも、アレンの生い立ちを思い返せば、本気なのだろうと理解できる。<br />「ビジネスなんて、簡単じゃないわ」<br />「わかってるよ。でも、これがやっと見つけた俺の夢なんだ。そして俺は、その施設の子供たちに英語を叩き込んでやる。社会に出てから、それが武器になるように。自信になるように。親や家柄や金なんかじゃなく、自分という存在価値で、どんな環境や試練も乗り越えて、逞しく生き抜いていけるように」<br /> アレンの眼は本気だった。<br /><br />「だから、星奈。俺と結婚しないか?」<br />「なっ。なんで、突然、そうなるのよ」<br /> アレンの急な展開に、星奈が泡を食っている。当然だ。<br />「だって、俺、ちゃんと将来のこと考えてるだろ?」<br />「え、で、でも」<br />「もうさ、俺の方が耐えられないの。お前と一緒に暮らしたい」<br />「や、で、でも」<br /> 余裕のアレンに、星奈はますます動揺する。相変わらず面白いふたりの掛け合いを、柊はにやにやしながら見ていた。<br />「あ、あたしっ。料理できないよっ」<br />「知ってる。でも料理は、俺が得意」<br />「掃除も苦手」<br />「大丈夫、俺はそこそこ綺麗好き」<br />「け、研究バカだし」<br />「結婚してからも、大学に残っていいぞ」<br />「お、奥さんらしいこと、何一つできる自信ない」<br />「自己評価が適切で、実に結構」<br />「美人じゃないし」<br />「あまり、かまわないだけさ。でも俺には十分可愛いベイビーだし、なにより巨乳だ」<br />「大食いだし」<br />「大食いなくらいの方が、見ていて小気味いい」<br />「性格おおざっぱだし」<br />「おおざっぱでストレートな、お前が好きだよ」<br />「に、鈍いし」<br />「裏表がなくて、まっすぐで可愛いよ」<br />「え…っと」<br /> さすがの星奈も、何を言ってもしゃあしゃあと肯定してくるアレンに、とうとう言う言葉が見つからなくなったようだ。<br /> そんな星奈に、アレンは余裕の笑みでダメ押しした。<br />「そんなこと、どうでもいいんだよ。俺はお前が、お前だけが好きだ。ベイビーは?」<br /> 星奈が真っ赤な顔でもごもご何か言っていたと思ったら、もの凄く小さな声で言った。<br />「あ、あたしもアレンが、アレンだけが好き」<br /> ひゅ~と柊は口笛を吹いた。<br />「じゃあ、もう一度。星奈、ベイビー、俺と結婚してくれ」<br />「はい」<br /> さっきよりさらに小さな声で言うと、星奈が頷いた。<br /><br /> その瞬間、学食中から拍手と喝采と、冷やかしの口笛と訳の分からない歓声が上がった。<br />「え、えっ?」<br /> と戸惑う星奈と、にこやかにギャラリーに手を振るアレンが対照的だ。<br /> アレンのファンも、そうでない女子も男子も、みんながこの公開プロポーズの幸福な証人になった。<br /> 後日、星奈が「なんで、プロポーズの場所が学食ぅ~。夢がないよっ」と文句を言っていたけど、そんなことはない。最高にロマンチックで、ハッピーで、ふたりらしいと誰もが思ったはずだから。<br /> <br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> そして、6月のある日。<br /> 柊は、共同実験室前で由紀子に呼び止められた。<br /> 由紀子は、ボブだった髪を再び伸ばし、ゆるいウェーブヘアにしていた。最初に出会った頃より、あか抜けて可愛らしくなっていた。<br /><br />「あの、野々村さん」<br />「なに?」<br /> 上目づかいで話しかける由紀子に、柊は静かな笑みで答えた。<br /> そんな柊に、由紀子はちょっと下唇を噛んで言い淀む。そして、何かに挑戦するような眼を向けると言った。<br />「私、結婚するんです」<br />「そう、おめでとう」<br />「…」<br /> 柊の無関心という微笑みは、相変わらず優しくそして残酷に由紀子を傷つける。<br />「父の、父の会社のっ。凄く優秀な人で、お家もお金持で」<br /> 由紀子は勢い込んで続けた。<br />「せっかくお料理教室に行って習ったのに。そんなのお手伝いさんがするからって。ちょっと残念。でも、私の手料理はおいしいって言ってくれて…」<br /> 脈絡のない由紀子の話が、柊は次第に苦痛になって来た。<br />「おめでとう。幸せになってください」<br /> そう言って深々と頭を下げると、柊はまだ何か言いた気にしている由紀子を残して共同実験室へ消えた。<br /><br /> 休憩室の窓から、空を見上げる。重たげに立ち込める雨雲が大気を湿らせて、ひと雨きそうだと柊は思う。<br /><br /><br /> 雨が降ると思い出すんだ、灯里。<br /> あの日、雨音を聴きながら一日中抱き合っていたことを。<br /> ずっと続けばいいと願った、幸福な時間。<br /> あのときと同じくらい、いやそれ以上に僕はキミを求めているというのに。<br /> 灯里。<br /> キミはいま、何処で、この空を見上げているの?</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
400

第10章 別 離〈ⅴ〉

「教えてくれ、教えてくれよ、灯里お嬢さん、俺はどうしたらっ…」 ふらふらと立ち上がった勝哉が、灯里の両肩を掴んで揺さぶる。恐怖と悔恨に強く捕らわれて、灯里の躰は強張ったまま少しも動けない。「灯里っ」「勝哉さん! お姉ちゃんっ」 猛烈な勢いでかけてきた柊はふたりの間に割って入ると、勝哉の胸ぐらを掴んだ。「灯里に、何すんだっ!」 激しい憎悪を向ける男の顔を、勝哉は呆けたように見た。「止めて、柊ちゃんっ... <span style="font-size:large;">「教えてくれ、教えてくれよ、灯里お嬢さん、俺はどうしたらっ…」<br /> ふらふらと立ち上がった勝哉が、灯里の両肩を掴んで揺さぶる。恐怖と悔恨に強く捕らわれて、灯里の躰は強張ったまま少しも動けない。<br /><br />「灯里っ」<br />「勝哉さん! お姉ちゃんっ」<br /> 猛烈な勢いでかけてきた柊はふたりの間に割って入ると、勝哉の胸ぐらを掴んだ。<br />「灯里に、何すんだっ!」<br /> 激しい憎悪を向ける男の顔を、勝哉は呆けたように見た。<br />「止めて、柊ちゃんっ」<br /> 柊の激しい剣幕に、繭里が必死で止めに入ろうとする。<br /> しかし渾身の力で勝哉の胸ぐらを掴んだ柊の腕は、びくともしない。<br />「殴れよ」<br /> 勝哉が濁った眼で、今度は柊を睨みつけると言った。<br />「あんた、隣の幼なじみだったよな。女将さんの葬式のときも、灯里お嬢さんにぴったりと付き添ってた」<br />「勝哉さん、柊ちゃん、お願い、止めて」<br /> 必死で止めようとする繭里の手を、勝哉が払った。<br />「繭、俺はお前を裏切ってんだよ」<br />「裏切ったって…」<br />「お前は知らなかっただろうけど…」<br /> そう言って勝哉は一度目をつぶると、再びカッと目を見開き言い放った。<br />「俺は、俺はなっ。お前の姉を、無理やり、力づくで犯した男なんだっ」<br /><br /><br /> なんだって?<br /> いま、なんて言った。コイツは、いまなんて言ったんだ。<br /><br /><br /> 躰から血の気が一気に引いて、それから暴力的な憎悪が逆流してくるのを、柊は感じた。<br /> 柊は勝哉をゆっくりと睨みつけながらその胸ぐらをもう一度つかみ直すと、右手で思い切り殴りつけた。<br />「きゃぁあ~っ!」<br /> 繭里が悲痛に叫ぶと、倒れこんだ勝哉を庇った。<br /> 勝哉は、その繭里をすら退(ど)けようとする。<br />「いや、いやっ」<br /> それでも繭里は、髪を振り乱して勝哉に縋った。<br /> 地面に座り込んで切れた口元を拭う勝哉を見ながら、柊は思った。<br /> <br /> コイツは、こんなに小さな男だったか?<br /> こんな弱い、無様な…。<br /><br /> あの頃、あんな強そうに見えた勝哉を、いまや柊は身長でも鍛え上げた躰でも、遥かに凌いでいた。強くなりたいと自分に思わせた男は、もうただの痩せぎすの幻想だった。<br /> 自分を見下ろす柊に、勝哉は滲んだ血を舐めながら言った。<br />「カッコいいな、あんた。好きな女を守ったつもりかい?」<br />「黙れっ」<br />「ふん。あんた、知ってるか?あんたが昔から好きで好きでたまらなかった女を、やっと手に入れた気でいる灯里お嬢さんに、俺が何をしたか」<br /> 自暴自棄とも取れる表情で、勝哉が言い捨てた。<br />「もう、止めてっ。お願いだから」<br /> 繭里が悲痛な悲鳴を上げる。<br /> そんな繭里の肩にいたわるように手を置きながら、勝哉は悲壮な眼で言った。<br />「繭、許してくれ。俺はもう『北賀楼』にはいられない。お前の傍にはいられないんだよ」<br />「いやよ、そんなこと言わないで。勝哉さん」<br />「無理だ、もう無理なんだよ。繭、お前のためにも、こうした方がいいんだ。なっ?」<br /> 肩を優しく擦ってそう言う勝哉に、尚も繭里は縋って激しくイヤイヤをする。<br />「何を、何をしたっていうんだっ」<br /> 何か恐ろしいことを訊かされる予感がして、込み上げる吐き気を宥めながら、柊はそう勝哉に訊いた。<br /> 勝哉は繭里から視線を外すと、覚悟を決めたように冷たく放った。<br />「俺は、高校を卒業したばかりの、まだ少女のように可憐で無垢だった灯里お嬢さんを犯した。そうさ、無理やり。力づくで、激しく抱いて傷つけたのさ」<br /> <br /> <br />  犯した? 激しく抱いて傷つけた?<br /><br /><br /> 柊は目の前が真っ白になり、呼吸するのも困難に感じた。<br /> 躰が自分のもののようではなく揺れて、よろけながらなんとか足を踏ん張った。<br /><br /> うそだ!うそだ!!うそだ!!!<br /><br />「知ってたわ」<br /> そのとき、繭里の声が遠くで聞えた。<br /> 驚いた勝哉が繭里を唖然とした目で見つめるのが、なんだか別世界のように映る。<br />「繭…知ってたって…言ったか?」<br /> 両肩を掴まれた繭里が、勝哉を真っ直ぐ見つめながら微笑んだ。その頬に、涙の跡を光らせながら。<br />「知ってた。知ってて結婚した」<br />「繭…」<br />「そして、忘れた」<br />「忘れた?」<br />「うん、そんなこと忘れて、勝哉さんを愛した、精一杯。それで、思った。私がいつも幸せな顔をしていることが、勝哉さんの苦悩を癒すことになるって信じて。帰ってこなくなったお姉ちゃんも、あたしが幸せそうに笑っていたら、いつか自分を責めることから解放されるんじゃないかって思ってた」<br /> <br /> 繭里…だからなのか。<br /> あの夏の日、キミが言った言葉、いまならその意味が分かる。<br /> 痛いほど、苦しいほど。<br /> 「あたしは幸せでいなければいけないの、みんなのために」<br /> 繭里、キミは…<br /><br /> 勝哉の眼から、涙が溢れる。繭里の肩を抱いて、勝哉は躰を震わせた。<br />「繭、お前は…」<br /> 勝哉に抱きしめられながら、繭里は聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべて言った。<br />「だから、帰ろう?勝哉さん。だって、勝哉さんは『北賀楼』の立派な花板。そして、そして、もうすぐお父さんになるんだよ」<br /> 勝哉がはじかれたように顔を上げて、繭里を見た。<br />「いま、なんて?」<br />「3か月だって。お父さんになるんだよ、勝哉さんは」<br /><br /><br /> そして。<br /> 気がついたとき、灯里の姿はなかった。<br /> 灯里は、再び消えた。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「柊、大丈夫?」<br /> アパートに心配したアレンと星奈が訊ねてきた。<br />「星奈、院の方は大丈夫か?」<br />「うん。ちょうど春休みだし、柊の研究はみんなでサポートできる。できる、けど」<br /> 困ったような顔で、星奈がアレンを見上げた。<br />「そうか、じゃあ、頑張ってお前たちは柊の穴を埋めといてくれ」<br />「うん」<br /> アレンは、無精ひげを生やしたままベッドでじっと丸くなっている柊の肩に手を置いた。<br />「柊、しょうがない。いまは苦しめ。きっと、それしかこの闇を抜ける方法はない。だがな、苦しんで苦しんで苦しみつくしたら、戻って来いよ。絶対に、いいな」<br /><br /><br /> 柊は、自分を責めずいいられなかった。 <br /> 6年ぶりに再開した灯里が言った言葉。<br /> 「激しく抱いて傷つけて」というのは、<br /> 灯里のトラウマだったのだとやっと気づいた。<br /> 最初に無理やり知らされた男と女の交わりがそれ。<br /> だからあんなにも、灯里は震えてぎこちなかったのだ。<br /> 最初にそんな体験をして、<br /> 男に抱かれるのが怖くないはずはない。<br /> <br /><br /> どんな想いで、灯里はあの言葉を言ったのだろう。<br /> そんなキミを僕は救ってやれたかい?<br /> いや。<br /> 何の役にも立たなかったからこそ、キミは再び消えたんだ。<br /> 僕はバカだ、大バカ者だ。<br /> だけど灯里、それでも僕はこんなにもキミを求めているんだ。<br />  <br /><br /> そして、柊が埒のあかない堂々巡りをしていた間に、<br /> 灯里の部屋から荷物は運びだされ、部屋のカギは取り替えられた。<br /><br /> キミは消えたのか、永遠に?<br /> それこそ、僕は正真正銘の救いようがないほどの愚か者だ。<br /><br /> いつまで続くかわからない闇の中で、柊は不甲斐なさすぎる自分をぶん殴ってやりたいほど嫌悪した。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
399

第10章 別 離〈ⅳ〉

「行ってらっしゃい」 春休みだというのに、実験が佳境とかで毎日のように大学院の研究室に通う柊を、灯里は玄関で見送った。「なんだか…」 一度ドアを開けた柊が、灯里の方を振り返る。「なに?」「いや…」 少し照れたように言葉を濁すと、柊は灯里の方へ戻ってきて、軽く口づけをした。「…柊ちゃん」 灯里の少し驚いたような顔に、柊は微笑んで言った。「じゃ、行ってきます。今日は早めに帰るよ」 そう言ってドアを閉めた... <span style="font-size:large;">「行ってらっしゃい」<br /> 春休みだというのに、実験が佳境とかで毎日のように大学院の研究室に通う柊を、灯里は玄関で見送った。<br />「なんだか…」<br /> 一度ドアを開けた柊が、灯里の方を振り返る。<br />「なに?」<br />「いや…」<br /> 少し照れたように言葉を濁すと、柊は灯里の方へ戻ってきて、軽く口づけをした。<br />「…柊ちゃん」<br /> 灯里の少し驚いたような顔に、柊は微笑んで言った。<br />「じゃ、行ってきます。今日は早めに帰るよ」<br /> そう言ってドアを閉めた柊に、なんだかくすぐったい幸福を灯里は覚えた。<br /><br /> いってらっしゃい、今日は早めに帰るよ、か。<br /> エレベータに乗り込みながら、柊は思わずそう呟いた。<br /> なんだか新婚カップルみたいで照れるな。<br /> 幸せな気分になりながらマンションの外に出ると、柊はマフラーを巻き直した。<br /><br /> 朝食の食器を洗ったり、部屋の掃除をしてひと段落すると、灯里は自分のために香りのよい紅茶を入れた。<br /> そろそろ、新しい仕事を探しはじめた方がいいかもしれない。柊には、大学の契約を打ち切られたことはまだ話していなかった。だけど、4月になればわかってしまうこと。その前に就職を決めたかったが、そう思うようにいくだろうか。<br /> でも今日の灯里の気分は、これまでにないくらい前向きで明るかった。<br /><br /> くよくよしたって、しょうがないじゃない。前に進もう。<br /> そうだ、今日は久しぶりにショッピングにでも行って、帰りに食材を買ってきて何か柊の好きなものでもつくろう。だって、今日は早く帰るって言ったから。<br /><br /> そう思い立ち、灯里は化粧をすると着替えた。シンプルなウールコートとロングブーツという格好で、灯里はマンションを出た。駅へ向かって歩き出し、すぐ傍の小さな公園を通りかかったとき、灯里はこちらに向かって歩いてくる男の姿を認めた。<br /> あれは…。それが誰かがわかって、灯里の足は前に進むことができなくなった。男の方も灯里に気がついて、小走りに近づいてくる。はっとして、灯里は踵を返すといま来た道を駆け戻ろうとした。<br />「灯里お嬢さん!」<br /> 男の叫ぶような声が、再び灯里の足を動けなくした。<br /><br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 実験研究室でデータをチェックしていた柊に、星奈が声を掛けた。<br />「お疲れ、柊。コーヒー、できたよ」<br />「おお、ありがと」<br /> 春休みの実験研究室は、出てきている院生も半分くらいだ。いつもより静かで、のんびりとした雰囲気の中、柊は予想通りの実験データにほっとしながら、星奈の入れてくれたコーヒーを飲もうと休憩室へ向かった。<br /> コーヒーメーカーから淹れ立てのコーヒーを、コップに注ぐ。香ばしい香りが立ち上って、思わず眼を閉じる。柊は、いつもブラックだ。特別に高価な豆でなくとも、淹れ立てのコーヒーはやはりおいしい。<br /> 香りとまろやかな苦みを楽しみながら、今朝の灯里とのやり取りを思い出して微笑んだところに、携帯が着信を知らせた。<br /><br />「ん、繭里?」<br /> 昨年の夏に交換した繭里の電話番号が、表示されていた。でも、繭里からメールはおろか電話がかかってきたのもこれが初めてだ。怪訝に思いながらも、柊は電話に出た。<br />「もしもし、繭里?久しぶ…」<br /> 柊の言葉は、繭里の切羽詰ったような声で遮られた。<br />「え、なんだって?」<br />「お願い、柊ちゃん。お姉ちゃんのマンションに一緒に行って!」<br />「いきなり、どうして?」<br />「勝哉さんが、勝哉さんが…」<br /> 繭里の声が、泣き声に変わる。<br />「勝哉さんが、どうしたって言うんだ! 繭里っ、繭里!」<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 小さな公園で、灯里は勝哉と向かい合っていた。昼過ぎの冬の小さな公園は、遊んでいる子供も、犬を散歩させている人もいない。<br /> 「話がある」と勝哉に言われて、灯里は自分の部屋はもちろん喫茶店すら屋内で勝哉とふたりきり向き合うのは嫌だった。いや、むしろ恐怖と嫌悪を感じた。<br /> そのために「公園でもいいか」と訊いた灯里に、勝哉は黙って頷いたのだった。<br /> 相手の顔が見られずに、下を向いたままの灯里と、勝哉はしばしの間ただ向き合っているだけだったが、やがて唐突にこう言った。<br />「私は、『北賀楼』を辞めてきました」<br /> えっ?<br /> 突然のことに、灯里は言葉を失い、思わず勝哉を見てしまう。そんな灯里を、勝哉はじっと見つめていた。<br />「辞めた?」<br /> 勝哉は頷くと、一歩前に出た。その気配に、灯里がさっと後ずさる。<br />「やはり、灯里お嬢さんはまだ、私が怖いですか?」<br /> 唇を震わせたまま、灯里は何も言わずに勝哉を凝視した。<br />「当然です。あんなことをしたんですから。怖がられて、いや許されなくて、当然です」<br /> 勝哉はそう言うと、表情を歪めて笑った。<br />「辞めたって…どうして…」<br /> やっとの思いで、灯里は口を開いた。<br /><br />「申し訳…ありませんでしたっ」<br /> 勝哉はそう言うと、突然、地面に両膝と両手をつき頭を深く垂れた。<br />「今更、今更、謝ったって、取り返しがつかないことはわかっています。でも、でも、お、俺はこうでもしないと…女将さんの葬儀でお嬢さんを見てから、やっぱり俺は…俺なりのけじめを…」<br /> 勝哉の肩が震えている。そしてその口から、やがて嗚咽が零れはじめた。<br />「繭里を、繭を愛してしまったから…。俺はアイツの姉を犯した男なのに。灯里お嬢さんを犯しておいて、その妹と…俺は…。もう、耐えられないんだ。耐えられないからっ」<br /> 灯里は目の前で跪き、見栄も矜持もかなぐり捨てたように咽び泣く男を見下ろした。<br /><br /><br /> それなら、それなら、あたしだって同罪。<br /> 姉を犯した男に「妹には言わないで」と言ったのは<br /> 誰でもない、あたしなのだから。<br /> そして何も知らない妹と、その男の結婚を黙って遠くから見ていた。<br /><br /> 無邪気に「勝哉さんが好き」と言った繭里。<br /> その思いを叶えてあげるつもりで、父に繭里の気持ちを伝え、<br /> ふたりの結婚を進言した。<br /> 自分が東京へ進学するために、勝哉との結婚を避けるために。<br /><br /> 初めは了承した勝哉は、あたしが東京へ行く前日の夜、母屋へ訪ねてきた。<br /> そして、無理やり犯したのだ。<br /><br />「俺の気持ちを、なんだと思ってるんだ。俺は、俺はっ、灯里お嬢さんがずっと好きだったのに。『北賀楼』の花板を眼の前にぶら下げられたら…、女将さんへの恩を…っ、卑怯だ、お嬢さんは卑怯だっ」<br /><br /> そう、あたしは卑怯者、そして裏切り者。<br /> 昔も、今も。<br /> お祖母様、繭里、お父さん、勝哉さん、ごめんなさい。<br /> 悪いのは、あたし。<br /> 決して、幸せになってはいけない。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
398

第10章 別 離〈ⅲ〉

この記事を閲覧するにはパスワードが必要です<br /> ⇒<a href="http://otonaasabi.blog.fc2.com/blog-entry-398.html?entrypass">パスワード入力</a><br />
397

第10章 別 離〈ⅱ〉

 短い冬休みが終わって、大学がまたはじまった。「明けましておめでとうございます」「今年もよろしくお願いします」 新しい年は、事務職員同士のそんな挨拶からはじまった。「仁科さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくね」「はい、よろしくお願いします」 灯里の挨拶に、由紀子はそうぶっきらぼうに返した。眼を合わせようともしない、表情の強張った由紀子に、灯里は戸惑った。 どうしたんだろう、新年早々... <span style="font-size:large;"> 短い冬休みが終わって、大学がまたはじまった。<br />「明けましておめでとうございます」<br />「今年もよろしくお願いします」<br /> 新しい年は、事務職員同士のそんな挨拶からはじまった。<br />「仁科さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくね」<br />「はい、よろしくお願いします」<br /> 灯里の挨拶に、由紀子はそうぶっきらぼうに返した。眼を合わせようともしない、表情の強張った由紀子に、灯里は戸惑った。<br /> どうしたんだろう、新年早々、なにか嫌なことでもあったんだろうか?<br /> そう思いながら由紀子を見ていると、彼女はほかの職員には朗らかに新年の挨拶をしている。ますます訳がわからなくなったが、灯里は気にせず仕事をすることにした。<br /> もうすぐ後期試験期間がはじまる。4年生にとっては卒業がかかる大事な試験だ。教職員もその準備や監督補助、風邪や急病で試験を受けられない学生のケア、追試受け付け、採点登録などで慌ただしくなる。<br /> 同時に入試や卒業式の準備、それが済めば入学式、ガイダンスとやらなければいけないことが山ほどある。<br /> <br /> そして昼になって、久しぶりにいっしょにお弁当を食べようと思って由紀子に声を掛けようとした灯里は、彼女の睨むような視線とぶつかって、一瞬息を飲んだ。<br /> 由紀子は、驚いて固まった灯里からゆっくりと視線を外すと、すくっと席を立った。<br />「須藤さぁ~ん、お昼一緒に行きませんかぁ?」<br /> 由紀子が学生課の方へ行って、そう声を掛けているのが聞えた。そう言えば、灯里が食欲がなくて独りで昼ご飯を食べている間、由紀子は須藤と昼休みを過ごしていたのだろう。なんだか、悪かったなと考えている灯里に、須藤と由紀子の話し声が聞えた。<br />「北川さん、誘わなくていいの?」<br />「え~、いいんじゃないですかぁ。最近、独りがいいみたいだし」<br />「でも、そろそろ…」<br />「行きましょうよ、須藤さん。あ、それから私、ナイショの相談があるんですよぉ」<br /> 須藤と由紀子が出ていってから、灯里はゆっくりとお弁当を持つと席を立った。<br /><br /> 由紀子のそんな態度がずっと続くと思っていなかった灯里は、自分の甘さを日に日に思い知るようになった。<br /> さらに由紀子だけでなく、教務課や学生課など事務フロアにいる人たち全員の態度が、自分を避けていると感じはじめるのに、そう時間はかからなかった。<br /> わずか1週間ほどで、灯里は針の筵(むしろ)にいるような居心地の悪さを痛感するようになった。なにが原因か全くわからない。<br />胃が痛くなるような毎日を過ごす灯里を、ある日、次長が呼んだ。<br />「そこ、座って」<br /> 応接室に入ると、簡素な応接セットを指し示された。<br />「はい」<br /> 次長自身も灯里の眼の前の椅子に腰かけると、しばらく思案顔をしていたが、やがてゆっくりと口を開いた。<br />「来年度の契約のことなんだけれど…」<br />「はい」<br /> 約1年前、灯里は契約社員扱いで採用された。灯里にこの仕事を紹介し、おそらく後押ししてくれたであろう夏目老人は「2年務めて勤務態度が良ければ、正社員として採用してくれる」と言っていた。だから、来年度はまた契約社員契約ということになる。<br /> 契約のことだと思って耳を傾けている灯里に、次長は思わぬことを言った。<br />「…実は、よくない噂があってね」<br />「よくない噂、ですか?」<br />「うん、北川さんの素行についてなんだけれど…」<br /> 素行、と言われてまず、脳裏に浮かんだのは柊のことだ。柊ちゃんに迷惑を変えることだけは避けなければ、と灯里は咄嗟に身構えた。<br /> そんな灯里に、次長は言いにくそうな顔をして続ける。<br />「キミが、その…男性関係が派手だというような…まぁ、噂なんだけれどね」<br /> 男性関係が派手?<br />「前の会社の上司と不倫関係にあるだとか、うちの男性事務員の気を引くような態度をしているとか…」<br /> 灯里は唖然とした。<br />「男性職員の気を引くって…次長、毎日の勤務態度をご覧になっていますよね?そんな風に見えますか?」<br />「い、いや。僕は四六時中、見ているわけじゃないからね」<br /> でも、同じフロアにいるのだからわかりそうなものだと灯里は思った。それに、前の会社の上司と言えば三宅さんのことだろうけど、それは誤解だといくらでも申し開きができる。<br />「それだけじゃなくて、ね」<br />「え?」<br />「一番問題なのは、キミがうちの大学院の学生を…その、つまり」<br /> 灯里は、そこで初めてはっと息を飲んだ。<br />「誑(たぶら)かしている、と言うんだけど。身に覚えがある?」<br /> 誑かしている…灯里は、自分が青ざめていくのを感じた。<br /> 柊との関係は、少なくとも普通の恋人同士ではないからだ。とくに最初は、そう言われても仕方ないほど身勝手だったと、灯里は嫌と言うほどわかっている。<br />「まあ、すべては噂だから、キミにも言い分はあるだろう。ただね、マズイことに…」<br /> 灯里は息をつめて、次長の次の言葉を待った。<br />「その噂が、大学の理事の一人の耳に入っていてね。違うというのなら、事実関係を明らかにして証明しろというんだ」<br /> 理事…話はそこまで大きくなっているのか、と灯里は思った。三宅や同僚、おそらく高橋のことだと思うが、そのふたりのことだったら、灯里はいくらでも申し開きができる。けれども柊ちゃんは、その将来のことを考えても、巻き込むわけにはいかない。<br />「わかりました」<br /> そう言った灯里に、次長が探るような眼で問うてきた。<br />「証明できるということ?」<br />「証明しなければ、どうなるのでしょう?」<br /> わかりきったことだと思いながらも、灯里は訊ねた。<br />「もし異論があるのなら、理事は当事者全員からの話を訊けと言っているんだけど。それ、可能なのかな?」<br /> 追い込むように言われて、灯里はこれはもう決定事項なのだと漠然と思った。<br />「つまり、来年度の契約はないということですね?」<br />「まあキミだけでなく、この大学に関係のない人や、同僚や、ましてや学生までも巻き込むというのはねぇ…。それに、理事の耳に入ったというのはねぇ、簡単には済まされないことだし…」<br /> 次長が感情をなくした顔でそう言った。<br />「わかりました。ご迷惑をおかけしました」<br /> 灯里は観念した。灯里としても、周りに迷惑をかけるのは本意ではない。なにより、柊を守りたかった。<br />「ああ、そうだ。キミの次の就職先を探さないといけないだろうから、春休みに入ったらもう大学に出てこなくていいから。もちろん今年度の契約は3月31日までだから、その分の給料はきちんと払うと理事も言ってくれているから」<br /> その言葉で、初めから申し開きなど訊くつもりはなかったのだと、灯里は悟った。<br /><br /> 春休み前、灯里は誰にも退職の挨拶をせずに、大学を後にした。<br />「皆さんには、来年度になってから、辞めたことを伝えてもらえますか?」<br /> 灯里が次長に最期したお願いは、それだった。<br /> 事務職員の誰もが、まるで腫れ物に触るように灯里を見ているこの状況で、送別会や退職のなにやかやの余計な気遣いをさせたくなかった。そして、おそらく誰もしたくはないだろうと思えたし。<br />「そうだね、それがいいかもしれない」<br /> 次長は明らかにほっとした表情で、灯里の願いに答えた。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
396

第10章 別 離〈ⅰ〉

 あと数日で今年も終わろうとする頃、灯里はカオルを見送るために、空港へ来ていた。「カオルったら。なんで、こんな暮れも押し迫った時期に…」「だって、アレンが…」「?」 そう、カオルの背中を押したのはアレンだった。 ✵ ✵ ✵ 約2か月前。「元気ないな」「そ?」「今夜も独りなんだろ?飲みすぎないように」「そ、今夜も独り」「相棒はどうしたんだよ?」「どっちの?」「どっちのって…」 相棒の一人、ダンサーの方はい... <span style="font-size:large;"> あと数日で今年も終わろうとする頃、灯里はカオルを見送るために、空港へ来ていた。<br />「カオルったら。なんで、こんな暮れも押し迫った時期に…」<br />「だって、アレンが…」<br />「?」<br /> そう、カオルの背中を押したのはアレンだった。<br /> <br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 約2か月前。<br />「元気ないな」<br />「そ?」<br />「今夜も独りなんだろ?飲みすぎないように」<br />「そ、今夜も独り」<br />「相棒はどうしたんだよ?」<br />「どっちの?」<br />「どっちのって…」<br /> 相棒の一人、ダンサーの方はいまニューヨークだろ。ってことは、彼女の方に決まってるだろ。アレンはそう思ったが、あえて言葉にはせずに首を竦めただけだった。<br /> そんなアレンの言いたいことがわかったみたいに、カオルはちょっと拗ねた表情でシンガポールスリングを啜る。<br />「灯里も、いろいろあるから。最近レッスンも休みがちだし、元気ないし」<br /> つまらなそうしているカオルに、きのこのコキールを出しながらアレンは言った。<br />「俺さ、今年いっぱいでここ、辞めるから」<br />「え~っ」<br /> 眼を真ん丸にして「なんで」と訊くカオルに、アレンは微笑みながら言った。<br />「もう一つの仕事の方が、忙しくなっちゃってさ」<br />「あ¨~」<br /> そう小さく叫ぶなり、カオルはカウンターに突っ伏した。<br />「おいおい」<br />「もうっ…」<br /> 両腕に顔を埋めたままで、カオルがぶつぶつ言っている。<br /> アレンがそんなカオルを呆れ笑いで眺めていると、今度はいきなりガバ、と顔を上げる。<br />「おっ」<br /> 驚いたアレンに、カオルは盛大に口を尖らせている。<br />「もう、もう、もうっ。なんで、みんないなくなるの?なんか、あたし悪いことした?これ、なんの罰?」<br />「キミは、なんにも悪くないよ」<br />「淋しいよっ」<br />「しょうがないだろ」<br /> まだ納得できない様子で、カオルは見る見る落ち込みはじめる。<br />「そんな時期なんだよ。それぞれ、旅立ちの時期?」<br />「あたしだけ、いつも置いてきぼり」<br /><br />「な、俺も飲んでいいか?」<br /> そう言うとアレンは、自分用につくったドリンクを持ってくると、カオルのグラスにかちりと合わせた。<br />「なんで、思い切って追っかけないんだよ」<br />「だって、シンジが…」<br />「来るなって言われて、素直に従ってるなんてキミらしくない」<br />「だって、邪魔だって言われた。迷惑だって」<br /> ふ~ん、とアレンは考え込む様子を見せた。<br />「キミ自身はどうなの?」<br />「どうって?」<br />「ニューヨークに、ダンスの本場でのレッスンに興味ないのか?」<br /> そう訊かれて、カオルの眼が輝きだした。<br />「そんなことないよぉ。憧れだよ、ダンスが大好きな人種なら、誰だって憧れる。行ってみたいよ、世界のレベルがどんなんか知りたい。ハイレベルの人たちの中で、思いっきり揉まれて踊ってみたい」<br /> 顔を上気させて一気に夢を語ったカオルに、アレンは言った。<br />「じゃあ、問題ないじゃん。行けよ」<br />「え、だって」<br />「キミ自身の夢のために行けよ」<br /> カオルが少し、躊躇っている。その表情を注意深く見ながら、アレンはカオルの本心からの答えを待った。<br />「でも、ホントは怖いんだ」<br />「うん」<br />「シンジみたいに圧倒的な才能なんて、自分にはない気がするし」<br /> それからカオルは、アレンが今まで見たこともないような真剣な眼をして言った。<br />「あたしね、実は一度挫折してるの。バレエで、クラシックバレエで。自分は器用なだけだって、実は自分が一番よくわかってるの。才能ある人間て、わかるの。知ってる?アレン、ホントの才能って光みたいに見えるものなんだよ」<br />「キミに、その光はないって言うのか?」<br />「わからない、自分自身のは見えないもの」<br /><br /> わからないか。だからこそ賭けてみろと言うこともできるし、安易に背中を押すのもためらわれる。やっかいだからな、才能ってやつは。<br /> アレンは正直、かける言葉がここでなくなった。<br /> そんなアレンに、カオルは言う。<br />「だからシンジには、思いっきり自分の才能を開花させてほしい。邪魔したくないんだ」<br />「あいつは、才能あると思うのか?」<br />「うんっ。でもダンスの才能だけじゃ、成功しない世界でもあるんだよね」<br />「そうなのか?」<br />「うん、振り付けのセンスとか、自己プロデュース力とか、売り込みの上手さとか…。あと、運」<br /> ふ~ん、とアレンは考え込んだ。そして、ふと顔を上げると言った。<br />「だけどさ、そうしたらどんな夢だって同じじゃないのか?俺の仕事だって、いまはなんとなく上手くいってるけど、この先はわからない。極端なこと言えば、一流会社に入ったって、潰れないとは限らない。いい大学出てて、そこそこの会社は入ったって、人間関係のストレスでハゲた先輩だって俺知ってるぞ」<br />「マジ?」<br />「ああ、マジだ」<br /> カオルが、おかわりと言ってクラスを差し出す。「OK!」とアレンは言って、またシンガポールスリングをつくって、カオルの前に置いた。<br /><br />「ねぇ、アレンはモデルの仕事、ずっと続けてくつもりなの?」<br />「いや、時期が来たら辞めるつもりだ」<br />「そうなの?」<br />「ああ、漠然とだけど、やりたいことのシッポみたいなのが見えてきた」<br />「へぇ」<br />「だから、そのためにいまは資金を稼げるだけ稼ぐよ」<br /> カオルがちょっと意外そうな顔をしてアレンを見る。<br />「俺、20代はいくらでもやり直しがきくと思ってるんだ。だから、やりたいこととか、できることをまずやってみる。本当に自分がやりたいことを見つけるためにさ」<br />「ふうん」<br /> カオルがシンガポールスリングを啜って、ちょっと考え込む。<br />「ねぇ、もしダンサーの夢が破れたとしても、あたし、やり直し聞くかな?」<br /> アレンはにっこりして言った。<br />「大丈夫だよ。だってキミの場合、歯科技工士って資格があるんだろ?この資格、ダンサーの夢追っかけたら、消滅しちゃうものなのか?」<br /><br /> そっか、とカオルは思った。ダメもとでやってみたらいい、ダメならまた歯科技工士に戻ればいい。戻れるものも場所も、あたしにはあるんだ。怖がることはない。<br /> 退路を断って頑張ってるシンジには申し訳ないけど、あたしまで退路を断つことはないんだ。それに戻れる場所がある方が、いざとなったときシンジを応援できる。<br /> カオルはアレンを見て、言った。<br />「なんかさ、考え方次第だね。うじうじ悩んでるなんて、やっぱ、あたしらしくないや」<br />「そうだな、一番大事なのは自分の気持ちに嘘つかないこと。周りの眼とかどうでもいいじゃん、自分の人生なんだからさ。あとはシンプルに考えればいんじゃないの?俺はそう思ってるよ」<br /><br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「だから、それはわかったけど。でも、なんでこの時期なのよ」<br /> アレンとのやり取りを訊いた灯里が、カオルに訊く。<br />「だって。賑やかなクリスマスが過ぎたら、年末年始は急に淋しく感じるだろってアレンが言うんだもの。とくに日本人は正月独りって、堪(こた)えないかって」<br /> まったくあの金髪は。いいこと言うじゃんと見直した途端に、ろくでもない入れ知恵つけるんだから、と灯里は思った。<br />「なるほどね。で、あのろくでなしの金髪のアドバイスに従って、淋しいシンジを籠絡しに行くわけだ」<br />「うふ。そーだよぉ。見てて、絶対チャンスをものにして見せるから」<br /> まったくカオルまで、と思ったけれど、灯里は久しぶりに明るい気分になった。<br />「じゃ、頑張ってきて。カオルがいなくなったら、今度はあたしが淋しいけど」<br />「うん。灯里、愛してるよ、シンジと同じくらい。あたしの大切な相棒!」<br /> そう言って、ふたりは笑顔で別れのハグをした。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
395

第9章 逆 流〈ⅸ〉

「クリスマスは、何か予定があるんですか?」 海へのドライブ以来、仲良く話すようになった星奈に、由紀子は訊ねた。 ぱっと、星奈の頬に赤みが差す。「あのね、アレンと…」 それだけで由紀子にはわかった、自分でなんとかするしかないと。「いいですねぇ、恋人と一緒のクリスマス」「そ、そんなこと…ある、かな?」 どこまでも正直で飾らない星奈は、本当にいい人だと由紀子は思う。「じゃあ、野々村さんは独り?」 由紀子は... <span style="font-size:large;">「クリスマスは、何か予定があるんですか?」<br /> 海へのドライブ以来、仲良く話すようになった星奈に、由紀子は訊ねた。<br /> ぱっと、星奈の頬に赤みが差す。<br />「あのね、アレンと…」<br /> それだけで由紀子にはわかった、自分でなんとかするしかないと。<br />「いいですねぇ、恋人と一緒のクリスマス」<br />「そ、そんなこと…ある、かな?」<br /> どこまでも正直で飾らない星奈は、本当にいい人だと由紀子は思う。<br />「じゃあ、野々村さんは独り?」<br /> 由紀子は少しカマをかけてみた。<br />「柊は…どうかな?」<br /> いつもははっきり言う星奈が、めずらしく言い淀む。<br />「そう…ですか」<br /> やはり恋人がいるのだろうか、と思うのに、それを確かめるのはやはり由紀子は怖い。<br /><br /> いくら鈍い星奈でも、由紀子の気持ちには薄々気づいている。でもアレンから訊いたところによると、柊とMiss幼なじみの関係はもの凄くビミョーらしい。<br />「ビミョーって、どういうこと?」<br />「俺にもよくわかんないんだよ、もう」<br />「つきあってないの?あのふたりは」<br />「柊は120%本気だ。だけど、Miss幼なじみの方はどうだか…」<br />「それって…」<br /> <br /> 曖昧な情報を、一途に思っているらしい由紀子に伝えられないと星奈は思うのだ。<br />「誘ってみたら?思い切って」<br />「でも…」<br /> 星奈に背中を押されても、由紀子にはそんな勇気はない。断られたら恥ずかしくて、もう顔を合わせられないと思う。<br /><br /> うじうじと悩んだ由紀子が結局出した答えは、クリスマスが終わった週末、プレゼントを持って柊のアパートを訪ねるという、消極的なのか大胆なのかわからないものだった。<br />「お友達として、プレゼントをあげたかったって言えばいいわ。クリスマス当日じゃなきゃ、そんなに重くもないだろうし。優しいから、きっと受け取ってくれる」<br /> そう自分に言い訳しながら、柊がイブだけでなくクリスマスの夜も、実験研究室に比較的遅くまで残っていたことを確認していた。同じように残っている院生の一人が、男同志みんなで食べるケーキを買いに行ったのも目撃していた。<br /> その日の柊は、服装もいつもと変わらずだった。その後でデートの予定があるなら、男の人でも多少はおしゃれをするんじゃないかと由紀子は思った。だから、きっと、特定の彼女はいない…。<br /><br /> ちょうど大学が冬休みに入る27日の土曜日、由紀子は柊のアパートがある駅に降り立った。住所は、学生名簿でこっそり調べた。それをメモした地図を手に、由紀子は夕方の商店街を通り抜けた。<br /> あまり遅い時間では失礼だし、でもうまくいけば夕食でもと誘ってもらえるかもしれない時間…。淡い期待に、知らず知らずのうちに頬が緩む。<br />「ここだわ」<br /> 地図と見比べながら、2階建てのアパートを由紀子は見上げた。階段を上がると、一番奥の柊の部屋の前に立った。<br /> 深呼吸をした。胸の鼓動が早くなっているのがわかった。インターホンを押そうと伸ばした手を、一度引っ込める。<br /> ずうずうしい女だって、思われないだろうか。今更、いきなり訪ねてきたことを後悔する。<br /> でも、と由紀子は思う。<br />「優しい人だもの、大丈夫」<br /> 自分にそう言い聞かせるように小さく呟くと、今度は思い切ってインターホンを押した。 <br /> 数秒待っても、何も起こらない。もう一度インターホンを押して、ドアに耳をつけ物音がしないかを待つ。しかし、人の気配を感じさせる音は、何も聞えてこなかった。<br />「留守…」<br /> 近くへ買い物にでも行ったのだろうか、それとも週末だからデート?イブもクリスマスも大学に遅くまで残っていて、院生の男子とケーキを食べていたのに?<br />「ちょっとだけ、待ってみようかな」<br /> 由紀子はそう言って、階段を降りるとあたりを見回した。少し周辺を歩いてみる。また戻って、アパートの前まで行こうとしたそのときだった。<br />「ああ、よかった、乾いてるよ、シーツ」<br /> 聞き覚えのある声が、ふいに予想もしなかった場所から聞えてきた。<br /> 由紀子は慌てて近くにあった自動販売機の陰に隠れると、声のする方を見上げた。<br /> 隣のマンションのベランダに、柊がいた。そして、シーツや洗濯物を取り込んでいる。その洗濯物が女物であることに、由紀子は気づいた。<br />「え…」<br /> 柊は何の頓着もなく、女性用の下着すら取り込んでいる。そして次に聞いた言葉に、由紀子は自分の耳を疑った。<br />「いいよ、灯里、僕がやるから。キミは、休んでて」<br /> 灯里…灯里? まさか…<br /><br /> 由紀子は、さっと踵を返すと早足で駅に向かった。<br /> うそ、うそ、うそ、うそ、うそ。<br /> 向かった先は、大学だった。<br />「あれ?どうしたの、仁科さん」<br /> 今日の日直の中田が、怪訝そうに声をかけた。<br />「あ、ちょっと忘れ物があって」<br /> そう言うと、由紀子は自分の机に座るとコンピュータを起動させた。学生課の方を窺うと、中田はもう由紀子を気にすることなく、自分も何やらコンピュータを覗き込んでいる。<br /> コンピュータが起動した。由紀子は震える手でマウスを動かす。<br /> 職員名簿が出てきた。目的の名前を探し当てると、住所欄を確かめた。さらに震えが増す手で、くしゃくしゃになってしまった地図をバッグから取り出す。そこにメモした住所と、コンピュータの画面を食い入るように見比べた。<br />「そんなっ…」<br /> 北川灯里と野々村柊の住所は、最期の番地と建物名以外は、ぴたりと一緒だったのだ。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「灯里、見てごらん。雪だ」<br /> 柊に言われて窓辺へ行った灯里は、今年初めての雪を見た。<br /> 注意深く眼を凝らさないとわからないほどの微かな雪が、暗い空から舞い降りてくる。<br />「寒いわけだよ」<br /> 柊は傍に来た灯里の肩を抱いた。<br />「綺麗…」<br />「うん、静かで清らかな夜だ」<br />「清らか?」<br /> 灯里が柊の顔を、不思議そうに窺う。<br />「うん、灯里には雪が似合うね」<br /> 頭を自分の肩に預けさせるように抱くと、柊は言った。<br />「灯里には、清らかな雪がとてもよく似合う」<br /><br /> どんなに激しく傷つけても、淫らに抱き合っても、快楽を貪り合っても。<br /> 僕にとって、キミは何があっても穢すことのできない清らかな存在なんだ。<br /> あの可憐に新体操の演技をしていた頃と同じように。<br /> 灯里、僕の中のキミは、いっだって真っ白だ。<br /><br /> 自分を温かな眼で見つめる柊に、灯里はふわりと微笑んだ。<br /> そしてつかの間の安寧を確かめるように、しんと凍えた夜空をふたりはいつまでも眺め続けた。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
394

第9章 逆 流〈ⅷ〉

この記事を閲覧するにはパスワードが必要です<br /> ⇒<a href="http://otonaasabi.blog.fc2.com/blog-entry-394.html?entrypass">パスワード入力</a><br />
393

第9章 逆 流〈ⅶ〉

「この度は、どうも御愁傷さまでした」「大変だったね、大丈夫?」 大学の事務の人々は、そう言って灯里を迎えてくれた。「ご迷惑をおかけしました」 灯里もそう言葉少なく言って、久しぶりに自分の席に着く。 心配する柊に「独りで大丈夫」と言って出勤してきたが、灯里には周りの世界が薄いベールをかけたように隔離して見えた。 満員電車も街の喧騒も、どこか他人事で別世界のように感じられる。時間や空間の感覚すらなんだ... <span style="font-size:large;">「この度は、どうも御愁傷さまでした」<br />「大変だったね、大丈夫?」<br /> 大学の事務の人々は、そう言って灯里を迎えてくれた。<br />「ご迷惑をおかけしました」<br /> 灯里もそう言葉少なく言って、久しぶりに自分の席に着く。<br /> 心配する柊に「独りで大丈夫」と言って出勤してきたが、灯里には周りの世界が薄いベールをかけたように隔離して見えた。<br /> 満員電車も街の喧騒も、どこか他人事で別世界のように感じられる。時間や空間の感覚すらなんだか希薄で、それが自分の精神を守るための無意識の防護壁だと、灯里は気づかなかった。<br /> そんな状態で、傍目にはいつも通りに仕事をこなしているように見えたのは、奇跡に近い。<br /><br />「北川さん、お昼行きます?」<br /> そう由紀子に声を掛けられて、灯里は今日自分がお弁当を持ってこなかったことを思い出した。<br />「あまり食欲なくて…。かまわず、お昼行ってください」<br /> 灯里はかすかに笑って、そう由紀子に告げた。<br />「大丈夫ですか?なんだか痩せたみたいだし」<br /> 由紀子が心配そうな顔をする。<br />「大丈夫」<br /> そう言う灯里に、由紀子は頷くと席を立った。<br /><br /> 事務職員がお昼に行って、残っている人が少なくなった部屋で、灯里はほっとため息をつくと眼を閉じた。<br /> いつも通りに仕事をすることに、意外なほど苦労した。ともすれば現実から逃避しそうになる思考をなんとか留め、仕事のことだけに集中しなければこなすことができなかった。午前中だけで疲れ果てた神経を少し休めなければ、午後が持ちそうになかった。<br /> 灯里は立ち上がってコートを羽織ると事務棟を出た。売店でサンドイッチと温かいお茶を買って中庭へ向かう。お天気はいいけれど、12月の屋外はやはり寒い。<br /> コートの襟を掻き合わせ、ベンチに座ると、灯里は温かなお茶を飲んだ。ぱさぱさとしたサンドイッチはおいしく感じられなかったが、無理して飲み込んだ。<br /> 冷えてきたので長居はできず、灯里はまた事務棟へ戻った。<br /> 午後も午前と同じように、乖離してしまいそうになる心を無理やり繋ぎとめるようにして、灯里はなんとか業務をこなした。<br /><br /> どうやって帰って来たか覚えていないほど、習慣のままに道を歩き電車に乗り、改札を抜けていつものようにスーパーに寄ることもなく、気づいたら部屋の中にコートも脱がず座っていた。<br /> 部屋の寒さに、思い出したように暖房をつけるとコートを脱いだ。<br />「灯里」<br /> どのくらいたったのか、やっと帰って来た柊の声がした。<br />「柊ちゃん」<br /> 部屋に入って来た柊に抱きつく。<br />「灯里、晩御飯買ってきたよ。一緒に食べよう」<br /> 抱き付いたまま離れようとしない灯里の両腕をゆっくり剥がすと、柊は顔を覗き込んだ。<br />「ちゃんと、仕事はできたの?」<br /> 灯里が子供のように頷く。その頭をよしよしという風に撫でて、柊はキッチンに向かった。追いかけるようにキッチンへ入って来た灯里に呆れたように笑いながら、柊はビニール袋から買って来たものを出した。<br />「なに?」<br />「鍋焼きうどん。寒いからあったまるものの方がいいでしょ?」<br /> アルミの鍋に入った温めるだけのそれを、柊は二つの五徳の上に置いた。<br /> キッチンの小さなテーブルで、出来上がった鍋焼きうどんをふたりは食べた。温かい、それだけでご馳走のような気がした。<br />  <br /> それからまた、ふたりでお風呂に入り、それぞれパジャマを着てベッドに入った。<br /> ベッドに入ると灯里がしがみついてくる。それももう、ずっと前からのことのように柊は感じた。<br /> 温かくて、切なくて、幸福で、悲しくて、甘くて、苦しい。<br /> なぜそんな想いになるのか、ごちゃ混ぜの心の中を覗くけれど答えがない。答えは腕の中にあるはずだと、柊は灯里の躰を強く抱きしめる。<br /><br /> 抱きしめられても、どんなに躰中を密着させても、淋しくて怖い。だから、灯里は柊の胸から顔を上げると言った。<br />「淋しいの。もっとくっつきたいの」<br />「これ以上は…」<br /> 無理だと言いかけて、柊ははたと気がついた。<br />「そうだね、もっともっと、くっつこう」<br /> 柊は灯里に微笑むと、パジャマを脱ぎはじめた。一瞬、怪訝な顔をした灯里だったが、すぐににっこりと微笑むと、自分も同じようにパジャマを脱ぎはじめる。<br /> すべてを脱ぎ捨てて、もう一度ふたりは抱き合った。<br /> 手も足も絡められるだけ絡めあって、素肌と素肌を溶け合えとばかりに密着し合って。<br />「…安心する」<br /> 灯里の眼から、綺麗な涙がはらりと落ちた。<br />「うん」<br /> 本当に肌が溶け合うような気がした。柊はさらに強く灯里を抱きしめると、頭を撫でた。灯里が子猫のように、頬を摺り寄せてくる。<br /><br /> これでいい、ずっとこのままでも、僕はいい。<br /> 安心したように眠りに落ちていく灯里の横顔に、柊は自分の欲望を無理やり押さえつけた。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 翌朝、教務課や学生課があるフロアに入っていくと、何事か賑やかに話している人の輪が眼に入った。<br />「おはようございます」<br /> と言った灯里に気づいた由紀子が、手招きする。<br />「北川さん、北川さん」<br /> 呼ばれて、ふらりと近づくと、その輪の中心に高橋がいた。<br />「凄いんですよ、高橋さんの写真、賞取ったんです」<br /> 興奮気味に由紀子がそう言った。<br />「いやあ、佳作だから」<br /> 照れながらも、高橋が嬉しそうにそう言った。<br />「でも、モデルが北川さんだなんて。ふたりで、いつ撮ったんだよ」<br /> 学生課の中田がそう冷やかす。<br />「まさか、つきあってないよね?」<br /> そう言って近藤は、高橋の受賞作が掲載されている雑誌を灯里に見せた。<br />「つきあってなんかいないよ。近藤、俺なんかダメだから。ねえ、北川さん」<br /> 高橋がそう言っている声が、不意に遠く感じられる。<br /> 目の前にまたベールが一枚、降りたような気がした。<br /> この写真に写っているのは誰?本当に、あたし?他人の自分が、木漏れ陽の中で遠くを見ている。<br /> 写真から遠くへ、同じように眼を泳がせた灯里の視界に、笑顔を歪ませた須藤の顔がぼんやりと入って来た。彼女は灯里を見て笑った、なんでもないように。いや、傷ついた心を懸命に笑顔で隠すように。<br /><br /> どうして?<br /> どうして、あたしの周りで人が傷つくの?<br /> 誰も傷つけたくなんかないのに。<br /> 傷つけられるのは、あたし独りで十分なのに。<br /> わからない、わからないよ、何もかも。<br /> 柊ちゃん、助けて。お願い。<br /><br />「あ…」<br /> 何かがパリリと剥がれ落ちた気がした。灯里の中で、それは音もなく落ちて砕け散った。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
392

第9章 逆 流〈ⅵ〉

 だけど、気づくのが遅かった。 灯里は、もうとっくのとうに壊れていたんだ。 それが、いつからなのかわからないけど。 もしかしたら、出会ったときにはもう壊れていたのかもしれないね。 緩やかに、でもそれは確実に加速して、 もうキミが壊れるのを誰も止められない。 なにが正気で、なにが狂気だ。 そんなもの、いまの僕らにどんな意味があるというんだ。  ✵ ✵ ✵  東京に戻って、灯里は数日の忌引休暇があったが... <span style="font-size:large;"> だけど、気づくのが遅かった。<br /> 灯里は、もうとっくのとうに壊れていたんだ。<br /> それが、いつからなのかわからないけど。<br /> もしかしたら、出会ったときにはもう壊れていたのかもしれないね。<br /> 緩やかに、でもそれは確実に加速して、<br /> もうキミが壊れるのを誰も止められない。<br /> なにが正気で、なにが狂気だ。<br /> そんなもの、いまの僕らにどんな意味があるというんだ。<br /> <br /> <br />✵ ✵ ✵<br /> <br /> 東京に戻って、灯里は数日の忌引休暇があったが、柊はこれ以上、大学院を休むわけにはいかなかった。<br /> 灯里を独り、部屋へ残していくことは不安だったが、そんな柊に彼女は力なく微笑んだ。<br />「大丈夫、心配しないで」<br />「灯里、部屋にいるんだよ。食べ物は冷蔵庫に入れてあるから」<br />「ありがとう」<br /> それでも心配な柊は大学から何度か電話やメールを入れたが、灯里はいつも夢現の声で、メールには「大丈夫」としか返信してこない。<br /><br /> 研究や実験を可能な限り早く終えて、灯里のマンションへ直行する。そんな柊の眼に、出かけるときとほとんど同じの様子の灯里と、部屋の中が眼に映る。<br /> 灯里が変わらずいることに安心し、ほとんど動きもせず恐らく何も食べていないのだろうとわかることに心配が募る。<br />「灯里、何か食べたの?」<br /> 灯里はいま気づいたとでもいうように柊を見ると、それでも嬉しそうに言った。<br />「柊ちゃん、おかえりなさい。もう、そんな時間?」<br /> 冷蔵庫を開けると、案の定、柊が入れたときのままになっていた。<br /><br />「灯里、僕が料理くらいできたらよかったんだけど」<br /> 考えてみれば、柊ができるのはカレーくらいで、いまの灯里には刺激が強いと思うからつくってあげられない。<br /> 仕方なく買って冷蔵庫に入れておいたコンビニ弁当をレンジで温めて、ベッドサイドのローテーブルに置く。<br /> ベッドから降りて大きなクッションに座った灯里に、箸を渡す。灯里の隣に座って、柊も弁当を食べはじめた。<br />「ほら、灯里、しっかり食べて」<br /> 箸で弁当をつつくだけの灯里に柊はそう言ったが、まるで早々に飽きてしまった子供のように灯里の食は進まない。<br />「しょうがないなぁ」<br /> それでも柊は何とか食べさせようと、卵焼きを箸で挟んで灯里の口元に持っていった。すると灯里は、それをぱく、と口に入れた。ゆっくり咀嚼する灯里にほっとしながらも、今度はご飯を同じように口元まで持っていく。また、灯里がぱくりと食べたので、柊は笑ってしまった。<br />「こら、灯里。甘えてるだろ?」<br /> 灯里は子供のように首を横に振るけれど、相変わらず柊が口元に持っていくと素直に食べるのだ。呆れながらも、柊はそんな灯里が可愛くてしょうがない。<br /> 時間はかかったけれど灯里が完食したのが、柊はとても嬉しかった。<br />「少し休んで、お風呂に入る?」<br /> 灯里がこく、と頷いて柊の肩に頭を乗せた。<br /><br /> 一緒にお風呂に入っても、ベッドで抱きしめながら眠りについても、あれから柊と灯里は躰を重ねることはなかった。<br />灯里の白い肌を眼の当たりにしながら洗い、一回り細くなっても柔らかな肢体を抱きしめるだけというのは、柊には軽い拷問だったけれど、それでも満たされていた。<br /> 灯里がいま自分の腕の中にいて、自分だけを頼ってくれている。この広い世界の中で、灯里が孤独であればあるほど、柊は自分の存在意義を確かめられる。それは皮肉なことだったが、これ以上ないくらい確かなことだった。<br /><br /> そんな幾つかの夜を過ごし、とうとう明日は灯里が出勤する日になった。<br />「灯里、大丈夫?ちゃんと行ける?」<br /> 灯里がこく、と頷く。<br />「柊ちゃんが、今夜も抱きしめていてくれるなら」<br />「そんなの…もちろんだよ。今夜だけじゃなくて、ずっと…」<br /> 灯里の素直で無邪気な要求に、身震いするほど嬉しく思いながら、いつまで聖人君子でいられるか柊は心もとなく思った。<br /><br /> 本心を言えば、抱きたい。また、前のようにキミを。<br /> だけど、子供のように無垢な笑顔を向けられれば、<br /> そんな欲望を抱いていることすら知られたくないと思ってしまう。<br /> 灯里、キミはどうなんだ?<br /> もう僕は、キミを癒す、守る家族みたいな存在なだけなの?<br /> 男として、頼られる存在でもあるんだよね?<br /> それなら、いつかはまた、キミを…。<br /><br /> ベッドに入って、今夜も身を寄せ合う。それはもう当たり前の幸福で、でも儚い夢のような気がして、柊は灯里の躰を確かめるように強く抱きしめた。<br />「痛いよ…」<br /> 灯里は可愛く笑って、そう不満を漏らした。<br />「ごめん」<br />「ううん、あったかい」<br /> 柊の胸に顔を埋(うず)めるように縋った灯里が、そう呟いた。<br />「灯里…」<br /> なに?という風に、灯里は顔を上げて柊を見る。<br />「いや…」<br /> 訊けなかった。<br /><br /> キミは僕のものだよね?<br /> もう、僕たちは離れられない存在なんだよね? <br /> お互いにとって。<br /> 灯里、こんなに近くにいる、抱きしめているキミの心が見えない。<br /> ぬくもりをこんなに感じているのに、心が不安でたまらない。<br /> なぜだろう? <br /> 灯里、教えてくれよ。<br /><br />「灯里、もう寝ちゃった?」<br /> 灯里がぱっちりと眼を開けて、微笑む。<br /> それがあまりにも穢れなくて、美しくて、柊はいっそうドキリとしてしまう。<br />「灯里、キスしていい?」<br />「キス?」<br /> 怪訝そうに訊き返す灯里があどけなくて、柊は苦笑いをした。<br />「いや、いいんだ。こうしているだけで」<br /> そう言ってまた強く抱きしめた柊に、灯里はさわりと動くと躰を伸ばして口づけした。<br />「感謝のキス」<br /> 感謝の? 恋人のではなくて?<br /> おそらく無意識なのだろうけれど、柊にとってはまるで小悪魔にも思える笑顔を最後に見せて灯里は言った。<br />「おやすみなさい」</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
391

第9章 逆 流〈ⅴ〉

 喪服姿の灯里が通夜の会場に入っていくと、早めに集まっていた人々の眼が、一瞬釘づけになった。 瞳が着付け、髪をまとめ上げた着物姿の灯里は、周りの空気を一変させるほど凛と美しく静謐な気品を漂わせていた。 その姿を一足先に自宅の和室で目にした柊は、さすがリツが見込んで育てただけはあるとしみじみ思った。それがこうした祭儀場であれば、尚更で。 喪服姿の灯里には、なにか踏み込んではいけない聖域のようなものす... <span style="font-size:large;"> 喪服姿の灯里が通夜の会場に入っていくと、早めに集まっていた人々の眼が、一瞬釘づけになった。<br /> 瞳が着付け、髪をまとめ上げた着物姿の灯里は、周りの空気を一変させるほど凛と美しく静謐な気品を漂わせていた。<br /> その姿を一足先に自宅の和室で目にした柊は、さすがリツが見込んで育てただけはあるとしみじみ思った。それがこうした祭儀場であれば、尚更で。<br /> 喪服姿の灯里には、なにか踏み込んではいけない聖域のようなものすら感じた。それは柊以外の人々にもわかるのだろう、しんと静止した空間を灯里がスローモーションのように歩み進んでいく。<br /> やがて、それが灯里だと気づいた『北賀楼』に縁(ゆかり)の深い人々の口から、次第にさざ波のようなひそひそ話が漏れはじめる。<br /> その居心地の悪い空気の中を、灯里はまっすぐ前を見て、白磁のような表情を少しも変えずに進んでいく。<br /> 見事だ、と柊は感動すら覚えた。灯里、キミは凄いよ。やはりお祖母様の孫だ。<br /><br /> やがて灯里は、最前列の席周辺で歩みを止める。そこには父親の一史と、義母に当たる万祐子、繭里と勝哉が揃っていた。家族でもあるその人たちに、灯里は静かに頭(こうべ)を垂れる。<br /> しかし父も義母も繭里も、灯里からすぅと眼を逸らした。勝哉にいたっては両手をぎゅぅと握り締めると、さっと眼を逸らし、それから慌てたように深々とお辞儀をした。灯里の堂々とした佇まいに比べ、彼等のそれは滑稽なほど不自然だった。<br /><br /> あなたたちは灯里の家族だろ、と思って、柊は唖然とした。<br /> 灯里をまるで招かれざる客のように、腫れ物を扱うかのように、眼を逸らすその人たち。<br /> 違う、この人たちは灯里の家族なんかじゃなかったんだ。<br /> 灯里の家族はお祖母様ただ一人、いままでも、これからも。<br /> 柊は灯里の「淋しい」と言った訳がわかった気がした。<br /> 灯里はきっと無意識のうちに、自分がこの世でただ独りになったことを察したのだろう。<br /> だけど、灯里。僕はキミを独りになんかさせやしないよ、この命にかけても。<br /><br /> そう固く決心して灯里を見た柊は、彼女が決して毅然としているわけではなく、蒼白になるほどの葛藤を心の奥でしていることが手に取るようにわかった。<br /> 灯里、苦しいだろ? でも頑張れ、僕が傍にいるから。<br /> その想いを込めて、柊は灯里の背中にそっと温かな手を添えた。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「柊ちゃん、お願い…」<br /> 通夜の席とは打って変わって、ホテルに帰った灯里の心はヒビだらけに思えた。もういつ壊れてもおかしくないそれを、壊すまいと柊も必死で抱きしめた。<br /> あの会場で終始、一滴の涙も流さなかった灯里は、いま涙が枯れるほどに泣き続けていた。<br />「灯里、そんなに泣いたら、明日、眼が腫れてしまう」<br /> 柊は冷たい水に入れて絞ったタオルを灯里の眼に当ててやった。そのタオルを両手で押さえながらも、灯里は柊に震える躰を押しつけてくる。<br />「灯里、明日、大丈夫?」<br /> 灯里は明日も、今日と同じように毅然とふるまうだろうと柊にはわかっていたが、それをできればさせたくないほど、いま眼の前の灯里はぼろぼろだ。<br />「体調が悪い、ということにしないか?」<br /> そう言う柊に、灯里は激しく頭(かぶり)を振った。<br />「お祖母様に、お祖母様に叱られる。…ちゃんとしないと…」<br />「もう、十分だよ。お祖母様もわかってくれる」<br /> 柊のその言葉に、灯里がまた激しく咽び泣いた。<br />「ちがっ…お祖母様は…あたしは…あたしが全部台無しにした…」<br />「灯里、台無しってなにを?」<br />「あたしが…一番っ、不幸に…ならなければ…許されないっ、ことなの」<br />「不幸?」<br /> 柊は、あの夏の日、繭里が言ったことを唐突に思い出した。<br /> <br /> あたしは幸せにならなければいけないの。<br /> みんなのために、幸せでいなければならないのよ。<br /><br /> いったい何があったというのだ、灯里、繭里。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵ <br /><br /> 翌日の告別式も、灯里は同じようにまっすぐ前を見て、不躾な視線や心無いひそひそ話の中に清らかな一輪の花のように咲いていた。その喪服の背中がたった一晩でさらに細く小さくなったようで、柊は涙が零れそうになる。<br /> 告別式が終わり出棺になったタイミングで、柊は傍に来た母の瞳にそっと耳打ちをした。<br />「お母さん、僕はこれで灯里を連れて帰るから。おそらく、もう灯里が持たない」<br />「家で着替えて、一晩くらい泊まってゆっくり休んだ方が灯里ちゃんにとっていいんじゃないの?なにか、灯里ちゃんが好きなものでもつくるから」<br /> 柊は静かに、でも厳然と首を振った。<br /> もう、灯里はいつ崩れてもおかしくない、そして夜の灯里は誰にも見せられない。<br />「いや、帰った方がいいと思う」<br />「そう…」<br /> 瞳はそれ以上強くは言わず、家へ帰ると黙って灯里の喪服を解いてくれた。<br /> それから「新幹線の中で食べなさい」と言って、ふたり分の弁当を持たせてくれた。柊はそんな母に、何の説明もしてやれないことが申し訳ない。なにしろ柊は、灯里の傍らを片時も離れることができないのだから。灯里の心を乱すかもしれない話は、極力避けたいのだ。<br />「お母さん、ごめん。落ち着いたら、ちゃんと説明するから」<br /> 瞳はそんな息子に諦めたように微笑むと、灯里にそっと触れながら言った。<br />「灯里ちゃん。柊は昔から、灯里ちゃんのナイトみたいなものだから。遠慮なくこき使ってやんなさい」<br /> そのとき故郷に帰って来てから、初めて灯里が薄く笑った。<br />「おばさん…そうしようか、な?」<br />「そうよ」<br /> そして今度は灯里から、瞳に抱きついた。<br />「おばさん、ありがとう。本当に、ありがとうございました」<br /> その灯里の頬に光るものを、柊はここ数日の夜以外に初めて眼にした。<br /><br />「さあ、灯里、帰ろう。僕たちの居場所へ。一緒に」</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
390

第9章 逆 流〈ⅳ〉

「灯里ちゃん…」 高校生のとき以来、本当に久方ぶりに見る灯里に、母の瞳がそう言って絶句する。後の言葉が続かないのは、幼い頃から知っている灯里への様々な思いが渦巻いているからで、それを表現する言葉が見つからないのは柊にもよくわかった。「お母さん、いろいろごめん。でも灯里、本当は誰にも会いたくなかったんだ」 瞳は灯里の顔を切なげに見て、うんうんと頷いたが、柊には至極もっともな言葉を囁いた。「だって、通... <span style="font-size:large;">「灯里ちゃん…」<br /> 高校生のとき以来、本当に久方ぶりに見る灯里に、母の瞳がそう言って絶句する。後の言葉が続かないのは、幼い頃から知っている灯里への様々な思いが渦巻いているからで、それを表現する言葉が見つからないのは柊にもよくわかった。<br />「お母さん、いろいろごめん。でも灯里、本当は誰にも会いたくなかったんだ」<br /> 瞳は灯里の顔を切なげに見て、うんうんと頷いたが、柊には至極もっともな言葉を囁いた。<br />「だって、通夜と告別式なのよ。家族親戚はもちろん、近所の人も取引先の人も、お得意さまだって…」<br />「わかってる、だからそれまでは…」<br /> 心配そうに居間から様子を窺う父の健や、兄夫婦の眼を気にしながら柊は瞳にそう言った。<br /> そんな息子に大きく頷くと、瞳はひと際明るい声を上げた。<br />「まあまあ、灯里ちゃん。すっかり綺麗になって。私がリツさんの喪服を着せてあげるわ。髪もアップにしましょうね。えっと、奥の和室に行きましょうか。ね、灯里ちゃん、柊」<br /> 居間の父や兄夫婦に、不自然なほどの笑顔を向けると、瞳は灯里を隠すように庇って和室へ連れて行く。<br /> 和室に入ると、瞳は笑顔のままでふたりに訊ねた。<br />「昼ご飯は食べたの?」<br />「…」<br /> 昼ご飯どころか昨日の朝から、口にしたのはそれぞれ2杯のコーヒーだけだ。しかたがないので、柊は正直に母に答えた。<br />「ふたりとも食欲がなくて。昨日から…なにも」<br /> 途端に瞳の顔が険しくなる。<br />「そんなっ…。アンタはともかく、灯里ちゃんが倒れちゃうわ。こんな真っ青な顔して」<br /> それから瞳は、灯里を座卓の前の座布団に座らせると、再び優しい笑顔をつくって手を取った。<br />「ねえ、灯里ちゃん。にゅう麺、好きだったでしょ?それなら食べられるかしら?」<br />「おばさ…」<br /> 灯里が柊の家へ来て、初めて出した声は力なく掠れていた。<br />「あったかくて、消化にいいものつくるから、ちょっと待っててね」<br /> そう言って灯里の背中をぽんぽんと叩くと瞳は、早速支度をするために和室を出て行った。<br /><br />「灯里」<br /> 柊は灯里の隣に座ると、その頭を抱いた。<br /> 素直に柊の肩に頭を乗せて眼を閉じた灯里の髪から、今朝一緒に使ったシャンプーの匂いがする。同じ匂い、いまこうして躰を寄せ合えば、やがて同じ体温。<br /> もう灯里は自分の分身、いや自分の一部だと柊は思った。<br /> 灯里が苦しめば、同じくらい自分も苦しい。灯里が血を流せば、同じように自分の躰からも血液が失われていく。それが当然で、もうずっと前から定められていた事実のようだと柊は思う。灯里は誰にも会いたくないと言ったが、柊はこの世界にはもはやふたりしかいないような錯覚すら覚えた。<br /><br /> ふたり分のにゅう麺をお盆に乗せて和室の襖を開けた瞳は、この世の果てに辿り着いた旅人のように身を寄せ合うふたりの姿を見て、軽いショックを覚えた。<br /><br /> やはり灯里ちゃんが消えたのには理由があった、と瞳は今更ながらに思う。<br /> それは世間で噂されている興味本位の話通りなのか、それとももっと真相は別にあるのかはわからなかったが、父親である一史や異母姉妹とはいえあれほど仲の良かった繭里が、灯里の話をすると一様に顔を曇らせることも合点がいかなかった。<br /> そして、いきなり柊と、息子と帰ってくるなんて…。<br /><br /> 訊き正したいことは沢山あったが、ふたりの様子にそれをぐっと堪えていまは時期ではないと、瞳は自分に言い訊かせる。<br />「さ、できたわよー」<br /> 殊更に明るい声でそう言うと、瞳はお盆を座卓の上に置いた。<br /> <br /> ふぅふぅと熱いにゅう麺を冷ましながら食べる灯里の横顔は、瞳が幼い頃から知るもので、訳がわからないままに胸に込み上げてくるものがある。<br /> 結局、灯里は半分ほどしかにゅう麺を食べられなかったけれど、頬に少し精気が宿った様子に瞳はほっとした。息子の方はきっちり食べきって、ふぅと人ごこち着いた様子で安心した。<br />「通夜に出かけるまでにまだ時間があるから、ゆっくり休みなさい。柊、お布団敷いた方がいいかしら?」<br />「うん、一応。僕がやるよ」<br /> そう言って和室を出ようとする柊に、灯里が急に不安そうな視線を向けている。<br />「いいわ、お母さんが運んでくる」<br /> <br /> 一組の蒲団を和室に運び入れた瞳は、灯里に優しく声をかけた。<br />「あと2時間くらいしたら、喪服を着つけてあげるわね」<br />「ありがとうございます、おばさん」<br /> 三つ指をついて頭を下げる灯里を見て、瞳はたまらなくなってその華奢な躰を抱きしめた。<br />「なに言ってるの、そんなこと…。灯里ちゃん、もっと甘えなさい、甘えていいのよ。あなたは子供の頃からそうだった。甘えることが下手な子だった。それは灯里ちゃんのせいじゃないけど…。でも、でもね、これからは、おばさんにもっと甘えて?だって私はこれでも、灯里ちゃんのこと小さいときから娘みたいに思ってるんだからっ」<br /> 母の瞳の方が、泣いていた。その涙を右手の甲でぐぃと拭うと、瞳は再び強く灯里を抱きしめた。<br />「灯里、しっかりしなさい」<br /> 最後にそう言って、瞳は和室を出て行った。<br /><br />「柊ちゃんの家は、温かかった。昔から」<br /> 灯里がぽつり、とそんなことを言う。<br />「あの母親だからね」<br /> いいお母さん…灯里がそう呟いて、自分の両手の爪を見ている。もの思いに沈むときの灯里の癖、そんなことも柊はいつの頃からかよく知っていた。<br />「灯里、横になろうか」<br /> 柊は灯里の手遊びを止めさせて、布団の方へ誘う。そして静かに、灯里の躰をそこへ横たえた。大人しく、つぶらな瞳で天井を見上げる灯里の傍に腰を下ろすと、柊は言った。<br />「傍にいる、ずっと」<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
389

第9章 逆 流〈ⅲ〉

 駅前のグリーンホテルへチェックインしてカードキーを受け取ると、柊はまず灯里を部屋へ連れて入った。「灯里、少し休んだ方がいい」 そう言って灯里のマフラーを取り、コートを脱がすと、手を引いてベッドへ促した。そして靴も脱がせて灯里をベッドへ横たわらせると、傍にあった椅子を引いて腰かけ、灯里の手を握った。灯里の小さな手が、とても冷たいのが切ない。「灯里、何か食べる?」 ふたりとも新幹線の中でコーヒーを飲... <span style="font-size:large;"> 駅前のグリーンホテルへチェックインしてカードキーを受け取ると、柊はまず灯里を部屋へ連れて入った。<br />「灯里、少し休んだ方がいい」<br /> そう言って灯里のマフラーを取り、コートを脱がすと、手を引いてベッドへ促した。そして靴も脱がせて灯里をベッドへ横たわらせると、傍にあった椅子を引いて腰かけ、灯里の手を握った。灯里の小さな手が、とても冷たいのが切ない。<br />「灯里、何か食べる?」<br /> ふたりとも新幹線の中でコーヒーを飲んだきり、今日は何も口にしていない。空腹はあまり感じないが、疲労感は食事をしていないことも要因かもしれないと柊は考えた。<br /> しかし灯里は黙って首を振る。<br />「でも、夕食くらいは取らないと。僕、自分の部屋へ荷物を置いて、それから何か買ってくるよ」<br />「いや」<br /> 灯里が小さくそう言って、柊の手を強く握った。<br />「独りにしないで」<br />「大丈夫だよ、すぐに戻ってくる。灯里はこのまま待っていて」<br />「いやっ。独りにしないで。独りは怖いっ」<br /> 灯里がベッドから半身を起こし、縋るように柊の手を両手で掴む。<br /><br /><br /> 灯里、何が怖いの?<br /> ここはキミの生まれ故郷じゃないか。<br /> なのにキミは慣れ親しんだ母屋へ行くのを、あんなにも嫌がった。<br /> 怖がる理由も、そこにあるの?<br /> それに、誰にも会いたくないって…。<br /> 通夜や告別式では、沢山の知った顔に会うんだよ。<br /> それをわかっていても、キミは帰って来ないわけにはいかなかった。<br /> お祖母様のために、最期の別れのために。<br /> でも、本当に大丈夫なのか? <br /> 灯里。<br /><br /><br />「柊ちゃん、お願い」<br /> 怯えきった表情の灯里が、可哀想でならない。灯里に手を引かれるままに、柊がその横に寝ると、震える華奢な躰がしがみついてきた。<br />「灯里…」<br />「柊ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい」<br />「灯里…」<br /> 力の限り抱きしめても、抱きしめても、灯里の不安と悲しみが消えない。なぜだかわからぬままに、でも柊はだからこそいっそう強く、灯里を抱きしめた。<br /> リツの前で一粒の涙すら見せなかった灯里が、いま迷子のように途方に暮れて泣き縋っている。その姿に、柊の胸は激しく抉られ痛みを覚えた。<br />「灯里、大丈夫だよ。独りになんかしない。僕がいるから、僕が傍にいるから」<br /> その言葉に灯里はいっそう躰を震わせ、懸命にしがみついてくる。躰中をこわばらせ、見えない恐怖や孤独と戦うように、得体のしれない悪夢から逃れようとするように。<br />「お祖母様、ごめんなさい。ごめんなさい、あたしが悪いの、全部あたしのせいなの」<br /> <br /> いったい何が?<br /> キミが料亭を継がなかったこと?<br /> だけどそれは繭里が、ちゃんと継いでるじゃないか。<br /> キミたちのお父さんだって、了承したことなんだろ?<br /> それなのに何故、キミが、こんなにも苦しむんだ。<br /><br /> 心が崩れ落ちてしまいそうなその夜の灯里を、柊は抱き続けた。幼子にするように頭を撫で、背中をさすり「大丈夫だよ、安心して、いい子だ」と何度も呼びかけながら。<br /> 明け方近くになって、泣き疲れてやっと眠りについた灯里の頬に残る涙を、柊は指でそっと拭った。<br /><br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「やっぱり、ちょっと狭いね」<br /> ビジネスホテルのユニットバスに湯を張り、柊は灯里を後ろから抱きながらそこに身を沈めた。お湯がちょっと零れて、狭い床を濡らす。<br /> 少しぬるめのお湯で時間をかけて温まりながら、柊は灯里の肩に顎を乗せる。昨晩よりはだいぶ落ち着いたように見える灯里が、眼を閉じてじっとしている。震えは、もう感じられない。<br />「あったかい?灯里」<br /> 灯里が小さくこく、と頷く。それが心もとないほど可愛らしくて、灯里を抱く柊の両腕に力が入る。<br />「もう、怖くない?」<br /> 灯里はまた頷くと、自分を抱きしめる柊の腕にそっと触れながら言う。<br />「でも、淋しい…」<br /> 柊は思わず灯里の肩から顎を離して、灯里の顔を覗き込むようにして訊いた。<br />「淋しい?どうして」<br /> 灯里が頭を振る。<br />「わからない」<br /><br /> 僕がこんなに傍で、抱きしめているというのに。<br /> 僕はキミの心を温めることすらできないのか。<br /> だとしたら、なんてちっぽけで情けない存在なんだ。<br /><br />「灯里、さあ、髪を洗ってあげる。狭いけど、ちょっと立って」<br /> 柊は灯里を立ち上がらせると、シャンプーを取り灯里の髪にたらした。灯里は大人しく洗われるままになっている。洗い終わるとコンディショナーをつけて、ゴムで髪を一つにまとめ上げた。<br /> それから石鹸を手に取り、スポンジも浴用タオルもなかったので、灯里の躰にそのまま白い塊を擦りつける。それから灯里の躰を撫でながら、泡を立てる。胸や秘処にも手を当てて洗うのに、灯里はひっそりと立ったまま抵抗も反応もしない。<br /> こんなとき反応する自分を柊は恥ずかしく思いながらも、灯里を洗う手を休めない。<br /> それから浴槽の栓を引き抜き、灯里の躰についた泡をシャワーで流した。最後に髪のコンディショナーを軽く流すと、柊は言った。<br />「さ、終わった。僕も洗うから、灯里は先に出ていて」<br /> そう言ったのに、灯里は心細げな表情で動こうとしない。<br /><br />「じゃあ、今度は灯里が僕を洗う?」<br /> 灯里はこくんと頷くと、シャンプーをその小さな手に落とした。<br />「せっかくあったまったのに、冷えるといけない」<br /> 柊は灯里の躰にシャワーをかけながら、灯里の背に合わせて身をかがませる。灯里の細い指が自分の髪の間に入るだけで、柊は胸が高鳴る。<br />「あ」<br /> 髪を洗い終わって、柊の躰に石鹸を這わせようとした灯里が、そう小さく言って手を止めた。<br />「しょうがないよ、これが僕の気持ちだから」<br />「気持ち?」<br />「うん、いつだって僕は灯里を強く求めている。躰は心より正直さ」<br /> それを訊いた灯里が一瞬、呆けたようになって、それから顔を真っ赤に染めた。<br />「もう、わかってるだろ?灯里、僕はキミがたとえ嫌がったとしても、ずっとキミの傍にいるよ。遠くからでもいい、でもできれば寄り添いながら、僕はキミだけを見つめ続けるよ。これまでも、これからも」<br /> 灯里が真っ赤な顔のまま、少し俯いて考え込んでいる。<br />「ほら、洗って、灯里。キミが冷えてしまう」<br /> そう言って、また柊は灯里の躰全体にシャワーのお湯をかける。<br />「柊ちゃん…」<br />「ほら」<br /> うん、と頷いた灯里は、今度は迷うことなく柊の全身を泡立て洗った。柊の想いの証も、丁寧に包み込むように。<br /> それからふたりは、そっと口づけし抱き合うと、無言でユニットバスを出た。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
388

第9章 逆 流〈ⅱ〉

 故郷の駅に着いた灯里の表情が、緊張したのを柊は見逃さなかった。「大丈夫?灯里」 頷く代わりに灯里は、柊の左腕を縋るように握った。  再び青ざめた灯里を安心させるように一度抱きしめてから、柊は言った。「灯里、僕がいる、キミの傍にいつも」「ほんと?」 灯里が心細げに柊を見る。「うん、そう言ったろ?だから、心配しないで」 ✵ ✵ ✵ 震える灯里の肩を抱きながら、タクシーを降りた。 通夜と告別式が行われる... <span style="font-size:large;"> 故郷の駅に着いた灯里の表情が、緊張したのを柊は見逃さなかった。<br />「大丈夫?灯里」<br /> 頷く代わりに灯里は、柊の左腕を縋るように握った。 <br /> 再び青ざめた灯里を安心させるように一度抱きしめてから、柊は言った。<br />「灯里、僕がいる、キミの傍にいつも」<br />「ほんと?」<br /> 灯里が心細げに柊を見る。<br />「うん、そう言ったろ?だから、心配しないで」<br /> <br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 震える灯里の肩を抱きながら、タクシーを降りた。<br /> 通夜と告別式が行われる祭儀場の霊安室に桐の柩がひっそりと置かれ、その傍に灯里の父と繭里がいた。<br />「お姉ちゃん」<br /> 灯里の姿を認めてそう言った繭里が、隣に寄り添うように立つ柊の姿を見て少し驚いた様子になった。当然だろう、東京で柊と灯里が会っていることなど、故郷の人々は誰も知らないのだから。<br />「柊ちゃん…も」<br /> 訝しげに呟かれる言葉に、いまは詳しく説明している場合ではない。<br /> そして、ふらふらと無言で柩に近寄る灯里に父の一史が言った。<br />「さっき、湯灌が済んだところだ」<br /> 灯里はそれにも無言で頷くと、柩に横たわるリツの顔を覗き込んだ。唇が「お祖母様」と動くが、ひゅーと掠れた空気音が出るだけで声にならない。<br />「お母さんや勝哉さん、板さんや仲居さんたちは先に帰ったの。明日の準備や葬儀と休業の連絡なんかもあるし」<br /> 繭里は、柩の前で涙も流さず蒼白になっている灯里の後ろ姿を見つめながら、柊にそう言った。<br />「繭里たちは?」<br /> そう訊ねる柊に、一史が言った。<br />「これから花が来るから、母を飾ってやろうと思って。でも灯里が間に合ってよかった。灯里にきれいに飾ってもらえたら、母も喜ぶはず…」<br /> そう言うと、一史は感極まったように咽(むせ)び泣きはじめた。<br /> 繭里もはらはらと涙をこぼしながら、柊に言う。<br />「柊ちゃんも、いっしょにお祖母様を飾ってあげて?」<br />「うん」<br /> 柊はそう答えたが、いまだ涙も流さずに呆然としている灯里が気がかりだった。<br /><br /> やがて、白一色の数種類の花が大きな篭で2つ届けられた。<br /> 繭里は、その篭の1つを灯里に差し出して言った。<br />「お姉ちゃんが、最初に」<br /> そう言った繭里の方を魂が抜けたような表情で見ると、灯里は篭にふらふらと手を伸ばそうとした。不安を感じた柊が篭を受け取り、柩の傍の台に置いてやった。<br /> 灯里が最初に手にしたのは、白く凛としたカラーの花だった。灯里はそれを、リツの胸元にそっと置いた。それから白バラで、リツの顔の周りを飾りはじめた。<br />「お父さん。さ、柊ちゃんも」<br /> 長い闘病でやつれ、枯れ枝のようになったリツは、それでも美しく化粧を施されるとかつての威厳を取り戻していた。真っ白な絹の装束も着物が好きだったリツによく似合っていて、それがかえって悲しみを誘う。<br /> そんなリツの周りを、4人は無言で、清らかな白い花で埋め尽くしていく。<br /> 最後に灯里が、白ユリをリツの右耳の傍に置くと、リツはまるで花嫁のように華やいだ。思わず繭里が「お祖母様、きれい」と呟いた。<br /><br />「灯里、いったん帰るか?」<br /> そう訊く父の一史に、灯里は強く頭を振った。<br />「お姉ちゃん、私たちは帰るわね。明日もあるし、少し休んでおいたほうが…」<br /> 繭里はそう言って柊の方を見た。<br />「柊ちゃんは、どうするの?」<br />「僕は、灯里の傍にいる」<br />「でも、おばさんに…」<br />「電話するから」<br />「わかった」<br /> そう言うと繭里は、いまだリツを見つめ続けたままの灯里に再び声を掛けた。<br />「霊安室(ここ)は夜通しはいられないから。お姉ちゃん、母屋にお布団準備しておくね」<br /> そう繭里が言った瞬間、灯里がギョッとしたように眼を見開き、唇を戦慄(わなな)かせながら掠れた叫びをあげた。<br />「お、母屋はイヤっ!」<br /> 途端に一史の表情が曇り、繭里がはっとしたように表情をこわばらせた。<br />「母屋は、母屋はイヤなの…。それに誰にも…誰にも会いたくない」<br /> 繰り返し言う灯里の肩を抱いて、柊は言った。<br />「わかった、灯里。わかった」<br /> 困ったような顔の一史と眼が合い、柊は言った。<br />「ビジネスホテルとか、駅前の、当日予約は無理でしょうか?」<br />「いや、そんなことはないと思うけど。でも…」<br />「僕が、僕も一緒に泊まりますから」<br /> そう言う柊に、今度は繭里が困り顔になる。<br />「でも、柊ちゃんはお家に帰らないと」<br />「いいんだ、そうしたいんだ。母なら、父も、わかってくれる。いや、わかってくれなくても、灯里を独りになんてできない」<br /> 灯里を独りにできないというのは、父も繭里も同感だったらしく、ふたりは思案顔で顔を見合わせる。<br />「シングルを2つ、それならいいでしょう?」<br /> そう言う柊に、とうとう一史が言った。<br />「駅前のグリーンホテル、つき合いもあるから訊いてみる」<br /> そう言って、一史は携帯で電話をかけはじめた。<br />「柊ちゃん、おばさんに…」<br />「ああ、そうだね」<br /> 柊は、履歴から実家のナンバーを探して押した。<br /><br />「そう、わかった」<br /> 柊の説明を無言で訊いていた母の瞳が、そう言った。<br />「ごめん、お母さん。お父さんにも伝えておいて」<br /> しばしの無言の後、瞳は言った。<br />「柊、でも明日の通夜の前にはいったん顔を見せて?灯里ちゃんも連れてきて。リツさんの着物を、喪服を灯里ちゃんに着せてあげたいの。私に母親代わりとして、灯里ちゃんの支度をさせてほしいと一史さんに頼んでおいたのよ」<br />「…おかあさん、ありがとう。本当にありがとう」<br /> 涙を滲ませながら電話を切った柊に、一史が言った。<br />「柊くん、とれたよ、シングル2つ」<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
387

第9章 逆 流〈ⅰ〉

 12月最初の金曜の朝、通勤の身支度を整えた灯里は、燃えるゴミの袋を持ってマンションの1階へと降りた。自転車置き場の隣にある住民専用のゴミ集積場へそれを出すと、首に巻いたマフラーを顎と唇が隠れるまで引き上げた。 どんよりと曇った日で、カレンダーが残り1枚になってから寒さもひと際厳しくなった気がした。「おはよう、寒いね」 声がする方を、はっと見やると、柊が同じように自分のアパートの集積場にゴミの袋を置い... <span style="font-size:large;"> 12月最初の金曜の朝、通勤の身支度を整えた灯里は、燃えるゴミの袋を持ってマンションの1階へと降りた。自転車置き場の隣にある住民専用のゴミ集積場へそれを出すと、首に巻いたマフラーを顎と唇が隠れるまで引き上げた。<br /> どんよりと曇った日で、カレンダーが残り1枚になってから寒さもひと際厳しくなった気がした。<br />「おはよう、寒いね」<br /> 声がする方を、はっと見やると、柊が同じように自分のアパートの集積場にゴミの袋を置いたところだった。<br />「おはよう」<br /> 伏せ眼がちにそう言って、足早に通り過ぎようとする灯里に、柊はさらに言葉を続けた。<br />「いつまで逃げるつもり?」<br /> 互いに腫れ物に触るような雰囲気になって数か月、その距離は縮まらないままに、微妙で嘘っぱちな平和を保っていた。<br />「逃げてなんか…」<br /> そう言葉を濁す灯里に、柊は言った。<br />「ちょっと待ってて。今日は僕も早く行くから。たまには一緒に行こう」<br />「なんで、そんなこと」<br />「いいから。1分で支度してくるから、絶対待ってて」<br /> めずらしく強引に言った柊の、階段を駆け上がっていく背中を見ながら灯里は、コートのポケットで携帯が鳴っていることに気がついた。<br />着信は、父の一史からだった。こんな朝早くからなんだろうと、怪訝に思いながら灯里は着信を受けた。<br />「はい」<br />「灯里、お父さんだ…」<br /><br /> <br /> 大学へ行く支度をして階段を降りた柊は、携帯を耳に当てたまま、茫然とした様子の灯里の姿を見た。<br />「灯里?どうしたの」<br /> その声にゆっくりと柊の方を見た灯里の唇が震えていて、顔は蒼白だった。<br />「柊ちゃん…。お、お祖母様が…」<br /> その言葉に打たれたように、柊は灯里の両肩を掴んだ。<br /> それとほぼ同時に灯里の躰から力が抜けて、崩れ落ちそうになるのを柊は両腕と胸で支えた。<br />「灯里っ。お祖母様が、どうしたんだっ」<br /> 胸に抱きとめた灯里が、小さく震えながら譫言(うわごと)のように言うのが聞えた。<br />「亡くなったって…たったいま…亡くなっちゃった…お祖母様が…亡くなっ…」<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 故郷へ向かう新幹線の中で、柊は横に座る灯里の躰を抱き続けていた。ときどき顔を覗き込みながら、安心させるように「灯里、灯里?」と呼びかけながら。<br /> 真っ青な顔でうつろな眼を正面に向けながら、その実(じつ)なにも見えていないような女を、最初こそ周りの乗客は好奇の眼で見ていたが、やがて無関心を装うようになってくれた。<br /><br /> <br /><br /> 呆然と立ちすくむ灯里の肩を強く揺すり、慌ただしく帰郷の準備をさせ、柊自身もそれを整えながら母親の瞳に電話を入れたのがすいぶん前の気がする。<br />「ああ、柊?お母さんもいま訊いたの。 …? でも、なんでアンタ、それ知っているの?」<br />「詳しい話は後で。うん、明日の土曜がお通夜、告別式は日曜なんだね?わかった、僕、いまから帰るよ」<br />「え、柊。大学院は?帰るのは明日でも、間に合…」<br /> そう言いかけた母の電話を途中で切ると、柊は星奈に電話した。<br />「ごめん、星奈。急なことで、でも大切な人が亡くなったんだ。これから実家へ帰らないといけない」<br />「わかった。こっちはみんなでフォローするから。うん、じゃあ、気をつけて」<br /> それから灯里の部屋へ行き、まだふわふわと漂うように荷造りしている灯里に訊いた。<br />「大学へは電話したの?」<br /> 灯里が無言で首を振る。<br />「灯里、しっかりして。ほら、電話するんだ。祖母が亡くなったので急いで帰郷しなければならなくなりましたって言うんだ」<br /> 灯里に携帯を押し付けるように握らせて、柊はもう一度伝えるべき言葉を言い、灯里にそれを繰り返させた。<br />「大丈夫だね?言えるね、灯里」<br /> 少し瞳に光が戻って灯里が頷いたので、柊は教務課の電話番号を探してコールすると、また灯里に携帯を渡した。<br /> なんとか灯里が緊急の件を伝え、電話に出た相手が「ちゃんと事務処理して置くので気をつけて帰ってください」と言ったのが柊の耳にも聞えた。<br />「さあ、灯里、行こう」<br /> 柊は灯里の腕を掴んで立たせると、自分のディバッグを背負い、灯里のスーツケースを引いた。<br /><br /><br />「灯里、なんか飲む?」<br /> 自分たちの車両に車内販売のワゴンが来たのを目にして、柊は灯里に訊ねる。灯里は無言で首を振ったけれど、柊はふたり分のコーヒーを注文した。<br /> 灯里がいつもはブラックだと知っていたが、砂糖もミルクも入れたそれを、柊は口許まで持っていってやった。<br />「温まるから。灯里、ほら飲もう?」<br /> こくりと頷いた灯里が、紙コップを両手で包み込むように持つと、そっと唇を寄せた。<br />「熱いから気をつけて」<br /> ゆっくりとひと口、そしてもう一口、灯里の喉はその甘くて温かな液体を受け入れた。<br /> 灯里の眼に少し精気が戻ったのを確認して、柊も自分のコーヒーを飲む。灯里が柊の方を向いて、照れたように笑った。<br />「ありがとう、柊ちゃん」<br />「僕がいるから。灯里の傍に、だから心配しないで」<br />「ずっと?」<br /> 心細げな眼で、小さくそう訊ねられて、柊の胸は様々な想いで潰れそうになる。<br /><br /> ずっとって、灯里、キミはどういう意味でそう言っているの?<br /> この帰省の間ってこと、それとも…<br /><br />「うん、ずっと」<br /> 柊はきっぱりとそう告げると、安心させるように灯里の頭を自分の方に寄せ、優しく撫でた。<br /> 灯里が眼をつむって、ほぅとため息をつく。<br /> <br /> 灯里。<br /> この細い肩で、強がってばかりの折れそうな心で、<br /> キミはずっと何を背負ってきたんだ。<br /> だけど、もう大丈夫だよ。<br /> 何かを背負ったキミごと、僕が引き受けるから。<br /> あの秋の海を見て、僕は悟ったんだ。<br /> キミに何かを求めたりしない。<br /> ただ、僕がキミに差し出すだけだ、僕のすべてを。<br /> そう、ただそれだけのことだったんだ。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
386

第8章 秋色吐息〈ⅸ〉

 お弁当を食べ終わって、アレンと星奈は広い芝生の公園でバドミントンをしはじめた。 その仲睦まじい、楽しそうな様子を眼で追いながら、柊は由紀子と傍らのベンチに腰かけていた。「あの…」 由紀子が、おずおずと口を開く。「なに?」「野々村さんと、北川さんて、幼なじみなんですよね?」「ああ、星奈に訊いたんだね。うん、そうだよ」 柊があまりにも自然に認めたので、由紀子は自分がいったい何を訊きたかったのかわから... <span style="font-size:large;"> お弁当を食べ終わって、アレンと星奈は広い芝生の公園でバドミントンをしはじめた。<br /> その仲睦まじい、楽しそうな様子を眼で追いながら、柊は由紀子と傍らのベンチに腰かけていた。<br />「あの…」<br /> 由紀子が、おずおずと口を開く。<br />「なに?」<br />「野々村さんと、北川さんて、幼なじみなんですよね?」<br />「ああ、星奈に訊いたんだね。うん、そうだよ」<br /> 柊があまりにも自然に認めたので、由紀子は自分がいったい何を訊きたかったのかわからなくなった。<br /> だから、思ってもいなかったことが口からこぼれ出てしまったのはそのせいなのだ、と由紀子は思った。<br />「北川さんて、昔からモテたんですか?」<br />「昔から?」<br /> 柊が少し躰の向きを自分の方へ変えたのが、由紀子にはわかった。<br />「はい。いまも教務課の高橋さんとか、お料理教室の三宅さんとか…」<br /> 三宅?訊いたことのない名前が出て、柊の心がざわつく。それを気取られないように、柊は由紀子に訊ねた。<br />「料理教室って、北川さんと同じとこに通ってるの?」<br />「はい、北川さんの紹介で習いはじめたんです」<br />「そう。その、三宅さんて女性も?」<br /> 柊のかけたカマに、由紀子は生真面目に引っかかった。<br />「女性じゃないです、前の会社の上司みたいで。36歳だったかな、奥様がご病気で長いこと入院してるみたいで…」<br /> そう言いながら、由紀子は柊の横顔を窺った。<br />「奥様がずっと入院してるなんて、それで男の人なのにお料理習って…まさか…」<br />「まさか?」<br />「ふ、不倫とか、じゃないですよね?」<br /> 思い切ってそう言いながら、由紀子は柊の顔が見られなかった。<br />「さあ、僕にはわからないな」<br /> その声に何の動揺も感じられなくて、由紀子は密かにほっと息を吐いた。<br />「高橋さんも、北川さんに写真のモデル頼んだみたいで。やっぱり綺麗な人の方が、写真も撮りがいありますよね」<br /> やはり断れなかったんだ、モデル。そしてそれはもう、周知の事実にされているんだ、と柊は唇を噛んだ。<br />「よく知ってるんだね、北川さんのこと」<br /> その声音に少し皮肉が込められているような気がして、由紀子ははっとした。<br />「私、私、ごめんなさい、くだらない話をして」<br /> そっと盗むように窺った柊の横顔は、睫毛が長くて男の人なのに美しい憂いがあった。それにぼぉっと見とれていると、その横顔が小さく笑った。<br /><br />「海はいいね、いろんなことを忘れられる。そして大事なことだけが、波に洗われたようにくっきりと浮かび上がる。来てよかったな、今日」<br /> その意味を勘違いした由紀子が、顔を赤らめて柊をじっと見つめる。見つめ返した柊の眼は、由紀子への憐憫と無関心に満ちていた。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「今日も東京から?ご苦労様だねぇ」<br /> 6年もの間通っているせいか、この療養病院のスタッフにも顔見知りがふえたと灯里は思う。<br />「こんにちは、いつもお世話になっています」<br /> 白髪が目立ちはじめた初老の男性職員に、灯里はそう挨拶した。<br /> いつものように来院名簿に名前を書き終え、階段の方へ向かおうとした灯里に職員が言う。<br />「そういえばこの間、若い男性が面会に来てたけど、ご兄弟?親戚の方かな?」<br /> 若い男性? 心当たりがない、父ではないとすれば勝哉だが、もう30代半ばの男性を若いと言うだろうか。<br />「いつ頃ですか?」<br />「夏、だったな。酷く暑い日だったのを覚えているから」<br />「そうですか。誰だろう、心当たりがなくて…」<br />「そう、じゃあ帰る頃までに、名簿確認しておくよ」<br /> お願いします、と頭を下げて灯里はリツの病室へ向かった。<br /><br /> 小1時間ほど病室で過ごし、帰り際の灯里に、あの事務員がまた声を掛ける。<br />「ああ、北川さん。見つけたよ、野々村柊という人だ」<br /> そう言って名簿のその箇所を示されて、灯里は確かに柊の筆跡をそこに認めた。<br /> 柊ちゃん…どうして…。<br />「? どうしたの、知り合いじゃなかった?」<br /> 表情が固まってしまった灯里を、怪訝そうに事務員が覗き見る。<br />「あ、いえ。懐かしいなと思って。幼なじみです」<br />「そう」<br /> 事務員はいつものようににこりと笑うと、「ご苦労様」と言った。<br /><br /> 日付は、8月のお盆過ぎになっていた。<br /> 柊は、そのことに何も触れなかった。お祖母様のお見舞いに来てくれてたなんて。<br /> どこまで優しいのだ、と灯里は目頭が熱くなる。<br /> いや、優しいだけではない。もしかしたら、柊の気持ちは…。<br /> 眼を背け続けていた一つの疑問に、向き合うには遅すぎた。<br /> 柊ちゃん、もしもそうだったとしたら…<br /> 私は、自分がやったことを、なおさら許せない。<br /><br /> 見上げる空が高い。<br /> 急に風が強くなって、療養病院の駐車場を囲むように植えられている樹々の葉がざわざわと不穏に揺れた。<br /> 頼りなげに枝にしがみついている木の葉が、いまにも風にさらわれてしまいそうだと灯里は思った。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
385

第8章 秋色吐息〈ⅷ〉

 小高い海浜公園からは遥かな対岸の岬までが見渡せ、一面に広がる緑の芝生には、穏やかな秋の陽が注いでいる。「ね、アレン。砂浜まで降りてみよう」 星奈が両手を上にあげて大きく伸びをすると、金髪の髪を風になびかせている恋人にそう言った。「OK」 アレンはそう言うと、星奈に手を差し出した。「え…」 戸惑う星奈の手を強引に握ると、アレンは砂浜へと続く途を軽快に降りはじめた。「柊、先行くぞ」「ああ」 背の高い、... <span style="font-size:large;"> 小高い海浜公園からは遥かな対岸の岬までが見渡せ、一面に広がる緑の芝生には、穏やかな秋の陽が注いでいる。<br />「ね、アレン。砂浜まで降りてみよう」<br /> 星奈が両手を上にあげて大きく伸びをすると、金髪の髪を風になびかせている恋人にそう言った。<br />「OK」<br /> アレンはそう言うと、星奈に手を差し出した。<br />「え…」<br /> 戸惑う星奈の手を強引に握ると、アレンは砂浜へと続く途を軽快に降りはじめた。<br />「柊、先行くぞ」<br />「ああ」<br /> 背の高い、足の長いふたりは、映画のワンシーンのように絵になる。<br />「僕らも、降りてみる?」<br /> 柊はひっそりと後ろに佇んでいる由紀子を振り向いた。<br />「はい」<br /> 柊は由紀子を気遣いながら、ゆっくりと砂浜へ続く途を辿った。<br /> <br /> 先に砂浜に着いていたアレンと星奈は、無邪気に押し寄せる波と戯れたり、賑やかに追いかけっこをしている。<br /> それを眼で追いながら、柊は由紀子と並んで波打ち際を歩いた。<br />「わたし…」<br /> 秋風に消されそうな声で、由紀子が言った。<br />「ん?」<br />「初めてなんです」<br /> なにが?と柊は由紀子の横顔を覗く。<br />「こんな風に、男の人と海に来たの」<br />「そうなの?」<br />「はい」<br /> ふと立ち止まった由紀子が、小さな貝殻を拾う。<br />「私、ずっと女子高だったから。男の人とおつきあいしたこともなくて、だから…」<br /> 確かに奥手そうに見える由紀子の言葉を、遠くから星奈が呼ぶ声が遮った。<br />「柊~っ、仁科さぁ~ん」<br /> それにこたえるように柊は手を振ると、由紀子に言った。<br />「行こっか」<br /><br /> 今度は女子同士で話しつつ歩きはじめた背中を見ながら、柊はアレンに訊いた。<br />「ふたりで来ればよかったじゃないか。僕たちみたいなおまけなんて、いらないだろ」<br /> それを訊いたアレンが立ち止まって、柊をまじまじと見る。<br />「なんだよ?」<br />「お前、訊いてないの?」<br />「なにを?」<br />「彼女の方から、お前と海に行きたいって星奈に言ったみたいだぞ」<br /> え…。柊が訊いた話と違う。<br />「それは星奈の照れ隠しだろ。お弁当持って海へデートに行くのが夢だったって、恋する乙女のような顔で言ってたぞ」<br />「ほんとか?」<br /> アレンが嬉しそうに訊く。まったく、と柊は思う。この星奈にして、このアレンありだ。いつからこいつらは、周りなんか一切気にしないラブラブのカップルになったんだ。<br />「Miss幼なじみとは、その後どうなんだ?」<br /> 相変わらず直球のアレンに、柊はなんと答えていいかわからない。いや、いまの自分たちの状況が柊自身にもわからないのだ。僕はまだ…でも灯里は…。<br />「あのひどく奥手なお嬢さんに、星奈のやつ、お前とMiss幼なじみがそれこそ幼なじみだって教えたみたいだぞ」<br />「え」<br />「いいのか?」<br /> いいも悪いも、事実だからしょうがない。ただ、灯里の立場が悪くなりさえしなければ、柊はそれでいいのだ。<br />「事実、だしな」<br />「もし、奥手なお嬢さんがお前のことを好きだったとしたら、どうする?」<br />「ないだろ、それ」<br /> アレンは呆れたように、柊を見た。<br />「Miss幼なじみとお前がつき合ってるって、あの娘(こ)にそれとなくわからせようか?」<br />「いや…」<br />「?」<br /> 僕と灯里は、いまつき合っているんだろうか。いや、そもそもつき合っていたのだろうか。そう考えて、柊は頭を振った。<br /> 違う、灯里と僕は…。そうだな、マリオネットとそれに魅せられた哀れな道化だ。<br />「つき合っては、いない、んだ」<br />「お前、それ…」<br /> アレンの表情がめずらしくマジになる。<br />「だけど、僕には灯里しかいない。これまでも、これからも」<br />「柊、お前…」<br />アレンが唸るように言った言葉は、急に高くなった波の音が地平線へと運んで行った。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「うわぁ~、凄~い!」<br /> 昼になって、由紀子がつくってきてくれたお弁当を広げると、星奈がまず感嘆の声を上げた。つられるように覗いたアレンと柊も、思わず「おぉ」と驚いたほどだ。<br /> 大きめの黒塗りの3段重は、1段目がミルフィーユカツレツ、白身魚とポテトのチーズ焼、根菜とつみれの煮物、2段目がだし巻き卵、野菜の春巻き、海老とアスパラのガーリック炒め、温野菜サラダ、3段目がひと口稲荷と太巻きだった。そしてジャーポットには、温かなチキンブイヨンスープ。<br />「こ、これ、全部つくったの?」<br /> 思わず、柊はそう訊いてしまった。<br />「あ、あの、ちょっと手伝ってもらったりして…」<br />「お母さんに?凄い、お母さんもお料理上手なんだね」<br /> 星奈が元気にそう言って、由紀子はそれを修正することができなくなった。<br /> 本当は、和洋2人のシェフに手伝ってもらったのだけど…なるべく家庭料理らしいメニューにしたいと懇願して。<br />「何時に起きてつくったの?手伝ってもらうにしたって、これだけつくるのは相当早起きしたんじゃない?」<br /> 料理の心得があるアレンも、そう訊かずにはいられなかったようだ。<br />「い、いえ…。あの…食べてみてください」<br /> 由紀子が控え目にそう言いうのを合図に、星奈が豪快に言った。<br />「うわぁ~い!早速、い・た・だ・き・ま・す!」<br /> アレンと柊も「いただきます」とお皿と箸を手にしたが…。<br /> 驚いたことに、由紀子がつくったお弁当は見た目はいつもよりイベント性がある家庭料理、母親が運動会などにつくる愛情弁当といった感じなのに、口にすると玄人はだしの味だった。<br /> アレンと星奈もそれを感じたのか、頬張りながら眼を合わせている。<br />「おいしい…なんだかお店の味みたいだね」<br /> そう柊が呟くと、不自然なほど慌てた由紀子が言った。<br />「そうですか?でも、でも、これ家庭料理で…家庭料理なんです!」<br />「う、うん。でも味が凄く洗練されてるから」<br /> そう重ねて言うと、今度は由紀子が明らかに落胆した様子を見せる。不思議に思ったアレンが、助け舟を出した。<br />「誤解しちゃったのかな?柊は褒めたんだよ、キミが凄く料理上手だって」<br />「ほんとですか?」<br /> そう訊ねる由紀子の顔がなんだか切羽詰まった感じがして、柊は怪訝に思いながらもつけ加えた。<br />「そうだよ、とくにこの野菜の春巻きなんか、凄く好みの味」<br />「それ、先輩に…同じ課の北川さんに教えてもらったんです…」<br /> 由紀子が小さな声で言って、俯いた。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
384

第8章 秋色吐息〈ⅶ〉

 なぜこの3人で、この高級住宅街のひと際バカでかいお屋敷の前にいるのか、その経緯を柊は軽く諦めながら思い出していた。 発端は、星奈だ。「ねえ、ねえ、柊。海へ行こう」「海?」「うん、デートの定番コースだよっ」 そう言うと、星奈は柄にもなく「きゃ」と顔を赤らめた。「海って、デートって、誰が、誰と?」 不審に思いながら、柊は訊く。「うふ。私とアレンと、柊と仁科さん」 う、うふって星奈、びっくりさせるな、... <span style="font-size:large;"> なぜこの3人で、この高級住宅街のひと際バカでかいお屋敷の前にいるのか、その経緯を柊は軽く諦めながら思い出していた。<br /> 発端は、星奈だ。<br /><br />「ねえ、ねえ、柊。海へ行こう」<br />「海?」<br />「うん、デートの定番コースだよっ」<br /> そう言うと、星奈は柄にもなく「きゃ」と顔を赤らめた。<br />「海って、デートって、誰が、誰と?」<br /> 不審に思いながら、柊は訊く。<br />「うふ。私とアレンと、柊と仁科さん」<br /> う、うふって星奈、びっくりさせるな、似合わない。気持ち悪いくらいだ、友達だから言わないけど。<br /> そこに唖然としすぎたせいか、柊は大事なことをらしくなく聞き逃した。<br />「アレンと上手くいってるのか?」<br /> すると星奈が今度はモジモジしはじめる。<br />だから星奈、キミは恋する乙女かって、あ、そうだった。でも似合わないなぁ、恋する乙女な星奈って…という柊の気持ちなど知らない星奈はこう続けた。<br />「アレンは、いままた海外。忙しくってあんまり会えてないの。でもね、来週帰ってくるから」<br /> そう言って星奈がにっこり笑う。その笑顔が本当に嬉しそうだったから、柊は言った。<br />「それなら、ふたりでどっか行けよ」<br />「え~、だって私、お弁当つくれないもの」<br />「お弁当?」<br />「うん、お弁当持って海へドライブするの、夢だったんだぁ」<br /> そんな夢、この星奈が抱いていたなんて、ますますびっくりだ。いったい、いつからの夢だ、アレンとつき合いだしてからか?いや、待て、じゃあ、弁当をつくるのは…<br />「あのさ、星奈。弁当は誰がつくるの?」<br /> 星奈は一瞬きょとんとした顔になった。<br />「ん?仁科さん」<br />「なんで、彼女が?」<br />「お料理習ってるんだって」<br /> ああ、そう…。いやいや、だからって人が良すぎるだろ。<br />「彼女がキミとアレンのデートのために、わざわざ弁当つくって、参加までしてくれるって言ってるのか?」<br />「うんっ」<br /> よくわからない、まったく理解できない。<br />「だから、柊も一緒に来て。ね、お願い」<br /> 星奈に上目遣いで可愛くお願いされる日が来るとは、思わなかった。びっくりの連続で、柊の思考は知らず知らずのうちに軽く麻痺する。<br />「じゃあ、僕と仁科さんはおまけ?」<br />「違うよぉ。これはダブルデートだからっ」<br /> 嘘つけ、と思ったけれど、幸せそうな星奈を見ていたら、柊はなぜだか断れなくなってしまった。<br />「わかったよ、しょうがないなぁ」<br />「やった!あ、クルマもね、彼女が用意してくれるって」<br /><br /> という訳で、仁科家の前で待ち合わせになった。<br /> 休日の朝からハイテンションの星奈と、なぜだか柊をニヤニヤしながら見ているアレンと、3人で由紀子が出てくるのを待った。<br /> 彼女が玄関から出てくるのとほぼ当時に、ガレージのシャッターが開いた。<br />「おはようございます」<br /> と言った由紀子の後ろに、真っ赤なアウディが見えた。<br />「おお、アウディ!」<br /> そうアレンが言って、行きは彼が、帰りは柊は運転することがその場で決まった。<br /><br /> 大学生のとき免許を取ったお祝いに父親が買ってくれたというアウディは、あまり乗ることがないままに、これが2台目だという。<br />「私、ペーパードライバーに近いので。でも今日、このクルマが役に立ってよかったです」<br />「凄ーい、仁科さんてお嬢さんなんだね」<br /> そう言う星奈も、どちらかというと良家のお嬢さんだ。惜しいことに、そうは見えないが。<br /> 運転席にはアレン、助手席には柊、そして後部座席には星奈と由紀子が座り、女子2人の意外にも弾む会話に男2人は耳を傾けていた。<br />「晴れてよかったねぇ、デート日和っ!」<br />「でも星奈さんの彼って、こんなカッコいい方だったなんて…」<br />「カッコいい?やだぁ、そう?」<br /> これまで「えろタイガー」と言っていた星奈の恥ずかしそうな、嬉しそうな声が聞えてきて柊は苦笑しながらアレンを見る。当のアレンは首を竦めただけで、ドライブを楽しんでいる風情だ。<br />「ね、お弁当の中身、なに?」<br /> やはり星奈らしい質問に、アレンが吹き出した。<br />「こら、星奈。着いてからのお楽しみだろ」<br />「えー、そうだけど」<br />「だけど、なんだか申し訳なかったね。お弁当までつくらせて、人のデートのつきあいまでさせて」<br /> あまりにもあっけらかんとした星奈の代わりに、柊はそう由紀子に声をかけた。<br />「あ、いえ。そんな…」<br />「なによぉ、柊。それじゃ、私が無理やり誘ってお弁当つくらせたみたいじゃない」<br />「だって、そうだろ?」<br /> そう言う柊に、由紀子が小さな声で言った。<br />「違うんです、海を見たいって最初に言ったのは私なんです」<br />「そう、なの?」<br />「そしたら、星奈さんが一緒にって…」<br />「だって大勢の方が楽しいじゃない、外でお弁当食べるの」<br />「おいおい、そこかよ、ベイビー」<br /> 変わらないようでいて、少しずつ恋人らしくなっているアレンが、星奈にそう言ってまた楽しそうに笑った。<br /><br /> やがて両側に広がる海に吸い込まれるような波乗りロードを通って、展望台のある海辺の公園に着いた。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
383

第8章 秋色吐息〈ⅵ〉

 アレンと星奈の、文字通りビッグカップル誕生は、柊の心に陽だまりのあたたかさを運んだ。あんな風に、正直にシンプルに微笑ましく向き合えるふたりは幸せだ。 少しだけ希望を胸に、柊は自室の2階の窓から秋の夜空を見上げた。 あれから灯里とは話すどころか、眼も合わせていないけれど、今日は一つだけいいことがあった。仕事から帰って来た灯里が、柊の部屋を見上げて立ち止まったのだ。ほんの数秒。 たったそれだけで、柊... <span style="font-size:large;"> アレンと星奈の、文字通りビッグカップル誕生は、柊の心に陽だまりのあたたかさを運んだ。あんな風に、正直にシンプルに微笑ましく向き合えるふたりは幸せだ。<br /> 少しだけ希望を胸に、柊は自室の2階の窓から秋の夜空を見上げた。<br /> あれから灯里とは話すどころか、眼も合わせていないけれど、今日は一つだけいいことがあった。仕事から帰って来た灯里が、柊の部屋を見上げて立ち止まったのだ。ほんの数秒。<br /> たったそれだけで、柊の心に希望が灯った。毎日のように部屋の灯りも点けずに、窓を細く開けて灯里の帰りを待つ自分は、情けなくてやり切れない。でも、そうしてでも灯里の気配を感じていたい。部活で遅くなる灯里の帰りを待っていた、あの頃と同じように。<br /> それにしても、と柊は思う。自分はなんて進歩していないんだ。むしろ後退している。灯里を激しく傷つけておきながら、自分はまだ子供のように灯里を欲しがっている。手に入らないおもちゃを強請(ねだ)って泣き叫ぶ幼児のように、自分の心が暴れているのを柊は実感する。<br /> <br /> 僕は、聞き分けのいい子供だったのに…。<br /> それは7つ年上の兄の影響もあったかもしれない。<br />「いいか、柊。いま目の前にあるものがすべてじゃないんだ。たとえばいま欲しいと思っているゲームだってフィギアだって、直に新しいバージョンが出る。大事なのは本当に欲しいものを見極めることで、そのときに買えるように準備しておくことなんだ。だからな、柊。欲しいと泣き叫ぶ前に、お小遣いやお年玉を貯めておけよ。その方が、男としてカッコいいとお兄ちゃんは思うぞ」<br /> 堅実で生真面目な兄らしいアドバイスだった。同級生にはできない大人の意見に、小学生だった柊はもっともだと頷いた、そのときは。<br /> いまは思う、男としてたとえどんなに無様でもカッコ悪くても、欲しいものを手に入れたい。新しいバージョンなんていらないんだ、本当に欲しいものに出会ってしまったら。<br /> だけどそれが手に入らないおもちゃなら、僕は未練たらしく泣き叫ぶだろう。そして何としてでも手に入れようと思うだろう、無理やりにでも卑怯な方法を使ってでも。<br /> 灯里、キミはこんな僕を軽蔑するかい?<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> セックスは、怖いものだと思っていた。<br /> 生まれたてのヒナが初めて目にした動くものを親だと認識するように、知識すらまだほとんどなかった高校生の灯里にとって、セックスとは酷く暴力的で悲しく苦痛に満ちたものだった。<br /> 親にすら姉妹にすら見られたことも触れられたこともない、躰と心の深部に無遠慮に踏み込まれることの不快感、恐怖、怒り。他人の肌はどこまでいっても他人で、気持ち悪いことこの上ないものだった。<br /> だけど柊は違った。柊だけは、他の誰でもなく、世界でただ一人の柊というかけがえのない存在で。<br />眼と眼があった次の刹那、もう怖くても傷ついても、触れたい、触れあいたいと思った。<br /> そして最初の柊との体験は、覚悟していたほど残酷なものではなかった。緊張していたせいで、いまでは記憶が曖昧だけど、快感がなかったかわりに苦痛もなかった。ただ愛しい人のぬくもりが温かく甘く切なかった。<br /> そしてもうないと思っていた2度目は、1度目と全然違っていた。むしろ優しく、灯里の躰と心を探り、解きほぐそうとしていた。それはいっそう灯里を戸惑わせたけれど、セックスは怖いものではないかもしれないと一筋の光が見えた。<br /> 初めての快感を知ってからは、躰が勝手に柊を求めて啼いた。先走る心に、躰はゆっくりゆっくりと追いついてきて、やがて歩調を合わせはじめた。<br /> 心が濡れれば躰も濡れる、その実感は目の前にある手の届く幸福だった。<br /> 肌と肌が触れ合うすべてが、見つめ合う眼と眼が、求め合う唇と唇が、少しの狂いももなく流れるように一つの旋律を奏でた。<br /><br /> あのときまでは。<br /> 終わりにしようといった言葉が引き金になった、初めての不協和音。それは激しく手酷いものだった。なのに…。それすらも不協和音という、ふたりで奏でた旋律だといまは不思議なほど信じられる。 <br /> 同じようでいて、まったく違う暴力的なセックス。それを望み、相手が愛しい人ならば、浅ましいことに快感すら生まれた。<br /> それはあたかも書き換えのようで…そう灯里は思って、自分の中に棲む利己的で淫靡な獣を嫌悪した。<br /><br /> 自分のマンションがある駅で降り、柊のアパートの前まで来ると、灯里は立ち止まって灯りの点いていない彼の部屋を見上げた。<br /> あの頃のように。<br /> 柊の部屋の窓からスタンドの灯りが漏れていれば、受験勉強に頑張っているであろう柊に「がんばって」と心の中で声を掛けた。暗ければ、休憩だろうか、お風呂だろうかと思いながら通り過ぎたものだ。<br /> いまは。<br /> 柊にかける言葉が思いつかない。自分の進む道もはっきりと見えない。これが正しい道なのか、迷い道なのかわからないまま、灯里は夜の闇に足を踏み出した。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
    Return to Pagetop
    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。