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第7章 かけ違えるボタン〈ⅻ〉

 気持ちがそわそわと落ち着かない。 駅前のスーパーマーケットで買い物をして、灯里はボクシングジムの前を通った。この少し先で柊に助けられたのが、6年ぶりの再会だった。数ヵ月前のことなのに、もうずいぶん前のことのような気がする。 夜空には満月が少し欠けた秋の月が、ほんわりと浮かんでいる。冴え冴えとした春の月に漠然とした不安を感じて、自らの躰を抱きしめた記憶が蘇る。あのときは、柊とこんな関係になるなんて... <span style="font-size:large;"> 気持ちがそわそわと落ち着かない。<br /> 駅前のスーパーマーケットで買い物をして、灯里はボクシングジムの前を通った。この少し先で柊に助けられたのが、6年ぶりの再会だった。数ヵ月前のことなのに、もうずいぶん前のことのような気がする。<br /> 夜空には満月が少し欠けた秋の月が、ほんわりと浮かんでいる。冴え冴えとした春の月に漠然とした不安を感じて、自らの躰を抱きしめた記憶が蘇る。あのときは、柊とこんな関係になるなんて予想もしていなかった。<br /> 終着駅を自分で決めるしかない不埒な暴走列車から、降りるのはいまなのかもしれない。そのためには、確かめなければならないことがある。<br /> 知るのが怖いような、でも心のどこかにある確信は、それが平穏への道だと教えている。迷路に嵌まり込みそうになる思考を整理するように、灯里は深いため息を一つつくとまた月を見上げた。<br /><br />「綺麗な月だね」<br /> ふいに背後から声を掛けられて、深く考え込んでいた灯里は、思わず飛び上がりそうになった。そんな灯里を見て、柊は慌てて謝る。<br />「ごめん、灯里。僕だよ、驚かすつもりはなくて、ホントにごめん」<br />「もう、柊ちゃんたら」<br /> そう頬を膨らませて、灯里は並ぶように傍に来た柊を軽く睨んだ。<br />「ごめん。でも灯里、スーパーを出たところから僕がずっと後ろを歩いてるの、全然気づかないんだもの」<br /> そう柊に指摘されて、灯里はまた驚く。<br />「ずっと、つけてたの?」<br />「つけてたなんて、人聞き悪いな。でも、なんか考え事してた?」<br /> 図星だった。だから灯里は、反射的に首を振った。<br />「ううん、別に」<br />「そう」<br />「うん」<br /> 自分の顔を見ようとしない灯里に、柊は嘘だと気づいたが、それには触れずにスーパーの袋に手を伸ばした。<br />「重いだろ、持つよ」<br />「大丈夫よ」<br />「いいから」<br /> 少し強引に柊は灯里の手からスーパーの袋を取ると、灯里の横顔をそっと窺った。<br /><br /> やはり、何かあった。<br /> 昔から灯里に関するそういう勘だけは当たっていた、と柊は思う。仕事で嫌なことでもあったのだろうか。でもそれを正面から訊いても、灯里は話さない。とくに弱みを見せることを嫌うのは、自分が年上だと思っているからなんだろう。<br /> バカだな、灯里。素直に僕に頼って、なんでも話せば気が楽になるのに。<br /><br /> 頑張りすぎる幼なじみを心の中で労わりながら、柊は何も言わずに隣を歩く。<br /> やがてそれぞれの住む場所の前へ着いて、柊は灯里にスーパーの袋を無言で渡す。<br />「ありがと」<br /> と言った灯里が、そのまま何か迷っている。だから柊は黙って、灯里の次の言葉を待った。<br />「あのね、柊ちゃん」<br />「うん」<br /> 灯里が思い切ったように、柊の顔を見上げる。<br />「話が、ある、んだけど」<br />「うん」<br />「あとで、来てくれる?」<br />「いいよ、1時間後くらいでいい?」<br />「うん」<br /> <br /> 灯里から誘うなんて。<br /> 柊は踊り出しそうになる気持ちを抑えながら、シャワーを浴びた。清潔なシャツとチノパンに着替えると、冷蔵庫からペットボトルのお茶を出して飲んだ。<br /> ちゃんと話を訊いてあげよう。頼られたことが、心底嬉しかった。<br /> 灯里、キミの力になりたい。僕はキミのどんな相談にも乗れる、頼もしい男になりたい。そして心と心をゆっくりと通わせて、いつか必要とされる、離れがたい存在になりたい。灯里、僕はキミに価値を認めてほしいんだ。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /> <br /> 1時間後、柊は灯里の部屋のインターホンを鳴らした。合鍵は持っていても必要がないときは使わない、それが灯里との約束だから。<br /> ドアはすぐに開いて、少し青い顔の灯里が顔を覗かせた。<br />「灯里、来たよ」<br />「うん、入って」<br /> 部屋に入り、大きめのクッションの上に胡坐をかく。<br />「なにか、飲む?」<br />「いや、いいよ」<br /> 柊がそう断ると、灯里は柊の向かいを避けて、ベッドの端にそっと腰かけた。<br /> 何から話そうかと、灯里はまだ迷っていた。迷いながら口をついた言葉を、まるで自分の声でないような気持ちで訊いた。<br />「柊ちゃん、傘を貸した?」<br /> 傘? 少し考えて、柊はすぐにピンときた。<br />「ああ、新しく教務課にはいった娘(こ)のこと?」<br /> 何でもないことのように言いながら、それがいったい何だというのだろうと柊は訝しく思う。<br />「彼女、仁科由紀子さんて言うの、知ってた?」<br />「ああ、確かそんな名前だったね」<br /> 柊の熱のない返事に、灯里は少し苛立ちながら言う。<br />「カップケーキをもらった?」<br />「もらったけど?でも、それお礼だっていうから。院のみんなで食べたけど?」<br />「和食が好きだって、言った?」<br />「言ったけど…訊かれたから」<br /> 今度は柊が軽く苛立つ。<br /><br /> いったい何なんだ。彼女とはなんの関係もない。でも、もしかしたら灯里は妬いてるの?そうだとしたら、キミも少しは僕のこと…。<br /> <br /> 柊が都合のいい解釈をして、もう少し灯里を妬かせてみたいと思ったところに、爆弾はいきなり落とされた。<br />「終わりにしよう、柊ちゃん」<br /> 話の飛躍に柊は驚いた。なんで突然、そうなる?<br />「え、灯里。終わりって何を?」<br />「何って、あたしたちのこの関係」<br />「ちょっと待って。彼女とは何もないよ?灯里、嫉妬してるの?」<br /> 間違った方向へ流れそうになる話を、灯里は残酷に元に戻した。<br />「嫉妬なんてしない。だって、あたしたち嫉妬なんかするような関係じゃないもの、最初から」<br /> 側頭部を殴られたような衝撃を、柊は感じた。わかっていても、灯里の言い方は冷たすぎた。<br />「じゃあ、じゃあ、最初から僕らはどんな関係だったんだって言うんだ」<br /> 灯里は一瞬眼を閉じて息を整えると、柊の顔を見ずに言い放った。<br />「わかっているでしょ?激しく抱きあって傷つけ合う関係、獣のように快楽を貪る躰だけの関係よ」<br /><br /><br /> 灯里。<br /> あの音はなんだろう。<br /> たったいま、僕の脳天でした何かが爆発するような音。<br /> 聞こえただろう?聞えなかったかい?<br /> じゃあ、教えてあげる。<br /> それはね、こういう音だった。<br /><br /><br />「ぐおぉおぉおお~」<br /> まさに獣のように、慟哭とも咆哮ともつかない声を上げて、柊は灯里に襲い掛かった。<br /></span><br /><br /><span style="color:#00CC99">★トップの〈NEW!更新情報〉にも書きましたが、<br />第7章はこれで終了となります。<br />第8章 秋色吐息 に入る前に、夏休みをいただきます。<br />いつもmikazukiの拙作を読んで下さる皆様、ありがとうございますm(__)m<br /></span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第7章 かけ違えるボタン〈ⅺ〉

 その日の昼、灯里は自分の顔色を窺うようにして開けた由紀子のお弁当の中身を何気なく見て、驚いた。「え?…どうしたの、今日は」 思わずそう言ってしまってから、顔を赤くする由紀子を見て、余計なことを言ったと後悔した。 けれども、その日の由紀子のお弁当は、これまで灯里が眼にしてきたものとは180度違っていたのだ。 見事な栗を使ったご飯と、海老のあられ揚げ、綺麗に面取りされた里芋や飾り切りされた野菜の炊き合わ... <span style="font-size:large;"> その日の昼、灯里は自分の顔色を窺うようにして開けた由紀子のお弁当の中身を何気なく見て、驚いた。<br />「え?…どうしたの、今日は」<br /> 思わずそう言ってしまってから、顔を赤くする由紀子を見て、余計なことを言ったと後悔した。<br /> けれども、その日の由紀子のお弁当は、これまで灯里が眼にしてきたものとは180度違っていたのだ。<br /> 見事な栗を使ったご飯と、海老のあられ揚げ、綺麗に面取りされた里芋や飾り切りされた野菜の炊き合わせ、鱸の西京焼きなどの中に、ちょっと焦げた不格好な卵焼きだけが異質だ。その卵焼きだけ除けば、どこの料亭弁当かと見紛うほどの豪華さだ。<br />「変でしょうか?」<br /> おずおずと訊く由紀子に、高校時代に板前がつくったお弁当を開けたときのことを再び思い出しながら、灯里は努めて冗談ぽく言った。<br />「今度は和食の料理人、雇ったとか?」<br />「はい…」<br /> え、まじか? と灯里はシャレにならなかったことに、軽く焦った。<br />「す、凄いね。でも一流の料理人に指導してもらえるなんて、きっとすぐに上手くなるね」<br /> そう言う灯里の弁当と自身のそれを見比べながら、由紀子はしきりに首を捻っている。<br />「あの…これ、和食ですよね?」<br />「?」<br /> どこからどう見ても和食だ、しかもプロがつくった一流の。<br /> 由紀子は怪訝そうにする灯里にかまわず、まだしきりに見比べている。<br />「でも、なんか違う…」<br />「違うって何が?」<br />「北川さんのお弁当と、なんか…全然違う」<br /> そう言う由紀子に、灯里は思わず吹き出してしまった。<br />「そりゃそうだよ。だって仁科さんのは一流の日本料理、あたしのはただの家庭料理だもん」<br />「家庭料理…」<br /> 由紀子は雷に打たれたようにびくりと顔を上げ、灯里をまじまじと見つめた。<br />「え…今度はどうしたの?」<br />「家庭料理と日本料理は違うんですか?じゃあ、和食は?」<br /> ふぅ、と灯里は心の中でため息をついた。まず、そこからか…。<br />「あ、あのっ」<br />「な、なに?」<br />「北川さんのと、これ交換してくださいっ」<br />「えっ」<br /> もの凄く真剣な眼でそう言われて、灯里は面食らった。<br />「い、いや、あたしのは…ほら、安い材料でつくったただの家庭料理だし。そんな高級なお弁当と交換なんて、恥ずかしいよ」<br /> 本心からそう言う灯里に、由紀子はすっかり悄気かえった。<br />「あ、あの。仁科さん、食べよ?」<br /> 今度は素直に頷いて、由紀子は箸を取った。<br /><br />「仁科さんの好きな人は、和食が好きだって言ったの?」<br /> そう訊く灯里に、由紀子がまたわかりやすく反応した。<br />「どうして、わかるんですか?」<br /> だって、わからない方がおかしい。それくらい由紀子の態度は正直で、「交換してください」とまで言った眼は真剣そのものだったからだ。<br /><br /><br /> いいな、彼女は私がなくしてしまったものを持っている。<br /> 純粋で真っ直ぐに人を想える気持ち、清らかで一点の染みもない心と躰。そして、きっと初めての恋、それが実れば初めてのおつきあい。<br /> きらきらとその不器用さまで眩しく思える由紀子を、灯里は心の底から羨ましく思った。きっと、柊ちゃんに似合うのはこんな無垢な娘(こ)。<br /><br /><br />「だって、仁科さんが和食のお弁当なんて、初めてだもの」<br /> 由紀子はぽっと頬を赤らめ、自分がつくったであろう卵焼きを口に入れ、ちょっと顔をしかめると鱸の西京焼きに箸を伸ばした。<br />「おいしい…よね?」<br />「はい、卵焼き以外は」<br /> そう由紀子は元気なく言う。<br />「大丈夫、すぐに上手になるよ。だって一流の料理人が先生なんだもの」<br /> 灯里は努めて明るくそう言って、由紀子に微笑んだ。<br />「でも、でもこれじゃダメなんです」<br />「だめって、何が?」<br />「これ、家庭料理じゃないですよね?肉じゃがは家庭料理ですよね?」<br /> 由紀子のお母さんが料理はあまり好きではないと言っていたのを思い出して、灯里はう~んと考え込んだ。家庭料理は、だいたいが母から子へ受け継がれるものだからだ。<br /> でも、と灯里は思う。そういう意味では、灯里は由紀子の相談に乗れるかもしれない。<br />「ねぇ、仁科さん。まず『お弁当』ていうタイトルのお料理の本を何冊か買ってみたら?あたしも高校時代、そういう本を参考にしながらお弁当づくりが楽しくなったの」<br /> 由紀子の顔がぱっと明るくなる。<br />「ほんとですか?それには、家庭料理も載っていますか?」<br />「ごく普通のお弁当の本を買えば、大概は家庭料理の範疇だと思うよ。なんなら、『料理の基本』的な本も買えば、よりわかりやすいかも」<br />「ありがとうございますっ」<br /> 本当に嬉しそうに頭を下げる由紀子に、こんなに可愛い恋心を抱く娘に想われる相手は幸せだなと思った。<br /><br /><br /> それから数週間、由紀子のお弁当づくりは灯里が思ったほど上達はしなかったが、その悪戦苦闘ぶりがかえって彼女の想いの真剣さを伝えているようで、灯里は微笑ましかった。<br />「北川さん、お料理教えてもらえませんか?」<br /> 灯里のお弁当から、野菜の春巻きを試食した由紀子がそう言った。<br />「無理無理、あたし素人だもの」<br />「でも」<br /> と由紀子は、半分に齧った春巻きの残りをゆっくり味わうようにしてから言った。<br />「北川さんのお弁当って毎日中身が違うし、試食させてもらうと絶対おいしいし、本当にお料理上手なんだなって思うから」<br />「好きなだけだよ。だからお料理教室へも行ってるし」<br />「お料理教室へ行ってるんですか?」<br /> 由紀子の眼がきらきらと輝いた。<br />「それ、私も行けるでしょうか?」<br />「もちろん。いろんなコースがあるから、今度案内パンフレットもらってきてあげる」<br />「嬉しいっ」<br /> 由紀子はそう言って、えくぼを見せて笑った。<br /><br /> お弁当を食べ終わり、コーヒーを飲みながら寛いでいると、由紀子が少し恥ずかしそうに言った。<br />「実は、私の好きな人、この大学の院生なんです」<br /> 院生?と訊いて、灯里はどきりとした。まさか、まさかね。そんな偶然…。<br />「雨の日に、傘を貸してもらって…」<br /> 思い出すように眼を潤ませた由紀子に、「片思いだけど」と告白した遠い日の繭里を灯里はなぜか重ね合わせた。<br />「素敵な出会いだね」<br /> 灯里にそう言われて、由紀子は嬉しそうに微笑む。<br />「はい。それで、傘を返しに行って、お礼にカップケーキを届けて…」<br />「どんな人なの?」<br /> 優しく訊く灯里に、由紀子は恋する乙女の眼差しで言った。<br />「白衣がとても似合う、背の高い、優しい眼をした人です」<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br /><br />
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第7章 かけ違えるボタン〈ⅹ〉

「これ、自分でつくってみたんです」 そう言いながら、由紀子がお弁当の中身を灯里に見せる。いつものように彩りよく並んだ由紀子のお弁当の今日の中身は、シャンピニオンのサラダ、クネル(洋風すり身団子)のベーコン巻、アスパラガスのグラタン、そしてクロワッサンだ。「凄い、よくできてる」 初めてとは思えない出来に、灯里は素直にそう褒めた。「でも」 と由紀子が言う。「シャンピニオンのサラダは用意されたものを和え... <span style="font-size:large;">「これ、自分でつくってみたんです」<br /> そう言いながら、由紀子がお弁当の中身を灯里に見せる。いつものように彩りよく並んだ由紀子のお弁当の今日の中身は、シャンピニオンのサラダ、クネル(洋風すり身団子)のベーコン巻、アスパラガスのグラタン、そしてクロワッサンだ。<br />「凄い、よくできてる」<br /> 初めてとは思えない出来に、灯里は素直にそう褒めた。<br />「でも」<br /> と由紀子が言う。<br />「シャンピニオンのサラダは用意されたものを和えただけだし、クネルは缶詰から出してシェフが言う通りにベーコンで巻いたら焼いてくれたし、アスパラガスのグラタンは時間がなくてシェフがつくってくれました」<br /> 正直にそう申告する由紀子に好感を抱きながら、灯里は言った。<br />「初めてだもの、十分頑張ってる。少しずつでいいと思うよ」<br /> 灯里の励ましに由紀子はえくぼを浮かべて嬉しそうに笑い、それがまた繭里を思い出させる。<br /><br />「でも」<br /> と灯里は少し可笑しそうに続けた。<br />「仁科さん家のシェフは、何料理が専門なの?」<br />「フランス料理が専門で、イタリアンもできるみたいです」<br />「じゃあ、お家ではいつも洋食?」<br />「はぁ、母が好きなので」<br />「仁科さんは?」<br />「私も好きです」<br />「それ、小さい頃から?」<br />「そう…ですけど」<br /> 味覚は記憶だと灯里は思う。幼い頃から食べ親しんできた味が、おいしいと思う基準をつくりあげる。<br />「中華とか、日本料理は食べないの?」<br />「そんなことないです。中華も日本料理も、よく行くお店があります」<br /> そう答えて、由紀子はあらためて灯里のお弁当をまじまじと覗き込んだ。<br />「やだ、あまり見ないで。仁科さんのに比べたら、庶民で恥ずかしいから」<br /> しかし由紀子は、まるでめずらしいものでも見るように訊ねてきた。<br />「それ、なんですか?」<br />「炒り豆腐」<br />「へー、じゃ、こっちは?」<br />「もやしとほうれん草のおかか和え」<br />「それは?」<br />「ナスの豚肉巻」<br /> 答えながら灯里は、なんだか恥ずかしく、可笑しくなった。<br />「超和風でしょ?それに安上がり」<br />「そうなんですか?」<br />「うん。独り暮らしだから、やりくりしないと」<br />「やりくり?」<br />「そう、節約できるところは節約しないと、ね」<br /> やりくりとか、節約とか、由紀子が生きてきた世界にはない発想だろうなと思いながらも灯里は言った。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> お弁当を食べ終わると、由紀子は灯里に「ちょっと売店に」と言って席を立った。売店は学食に併設されていて、文房具からテッシュや歯ブラシセットなどの日用品、菓子、弁当、飲み物などが買える小規模なコンビニエンスストアのようなものだ。<br /> そこでのど飴を買って、由紀子は学食の中をゆっくりと巡り、メニューをあらためてよく見た。<br /> 日替わりのAランチにBランチ、うどんやラーメン、カレーなどの定番メニュー…。由紀子の大学の学食にも同じようなメニューはあったが、女子大だっただけにもう少し見た目が可愛らしかったように思う。それに大学入試で入学してきた学生たちと違って、由紀子たちエスカレーター式の友人たちはあまり学食を利用せず、近くの洒落たカフェやレストランで食事するのが常だった。<br /><br /> 今日のAランチのサンプルをまじまじと見ていると、後ろから声を掛けられた。<br />「どうしたの?お昼、これから?」<br /> 驚いて振り向くと、食べ終わったトレイを持つ星奈だった。そしてその横に、今日も柊の姿。<br />「あ、いえっ。お昼はお弁当で…。もう、終わって…」<br /> しどろもどろに言う由紀子に、星奈らしい質問が飛ぶ。<br />「お弁当足りなかったの?今日のAランチは、おいしいよ」<br />「今日の、じゃなくて、今日もだろ。それに、お弁当足りないからってAランチも食べようなんて発想は、星奈くらいだよ」<br /> 柊が可笑しそうにそう言う。その笑顔が、由紀子には眩しい。<br />「え~、そんなことないよねぇ?」<br /> と問われても「はい」とは言えず、由紀子はもじもじする。<br /> さらに柊は可笑しそうに笑うと、由紀子に言った。<br />「職員の人たちはあまり学食利用しないと思うけど、ここ安くておいしいから一度食べてみるといいよ」<br /><br /> 確かに、ご飯にお味噌汁、ほうれん草のお浸しに中華風肉だんごがセットになったAランチが、ワンコイン以下というのは由紀子にとっては驚きを通り越して衝撃である。<br /> 明らかにAランチとわかる星奈と並ぶ柊が持っているトレイをそっと覗くと、今日はカレーを食べたようだ。<br />「カレー、お好きなんですか?」<br /> 思わずそう訊いていた。<br />「うん?あぁ、好きだよ」<br /> そう答える柊に、星奈が言う。<br />「柊ったら、週に一度はカレーだよね。あとはお蕎麦とか、そんなんでお腹空かないの?」<br />「そう言う星奈は、ほぼ毎日Aランチだろ。肉食獣かよ、今日はもうおにぎり買うの止めとけよ」<br />「え~、だって夕方になると小腹が空くんだもの」<br /> 仲がよさそうなふたりの会話を羨ましく思いながら、由紀子はさらに訊いた。<br />「カ、カレーのほかに…好きなものは?」<br /> 星奈と柊がちょっと驚いたような眼で見たので、すぐに由紀子は自分の愚かな勇気を後悔した。<br />「あ、す、すみません。…私、じゃ、行きます」<br /> そう逃げるようにして、由紀子は学食を小走りで後にした。<br /><br /> <br /> そして。<br /> その日の帰りに再び遠回りして大学院の研究棟を通った由紀子は、偶然にも再び柊に会った。<br />「いま帰り?お疲れさまです」<br /> と言う柊に、昼間の失態を思い出して顔を赤くした由紀子は訊き取れないほどの声で「お疲れさまです」と言うと、顔も合わせられないまま通り過ぎた。<br /> そしてその背中に、明るい柊の声を訊いた。<br />「和食、て言うか普通の家庭料理かな、好きなもの」<br /> 思わず由紀子は立ち止まった。<br /> 教えてくれたんだ、好きなもの。なんて優しい人なんだろう。<br /> 感動で思わず涙ぐみそうになりながら振り向いた先に、もう柊の姿はなかった。…なかったけれど、由紀子は幸せだった。<br /><br /> 和食…家庭料理…つくったことがないもの。<br />家庭料理って、やっぱり肉じゃがとか?<br /> それと、あの仲の良い、いつも一緒の星奈と言う女性は、まさか彼女じゃないよね?<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第7章 かけ違えるボタン〈ⅸ〉

 あの夜、ニューヨークへ行くといったシンジにショックを受けて、べろんべろんになるまで酔ってしまったカオルを思い出しながら、灯里は保護者用の短期留学説明会の資料をまとめていた。 想う相手が眼の前からいなくなる、その空洞のような喪失感を灯里はよく知っている。あの無邪気で正直で真っ直ぐなカオルは、それに耐えられるんだろうか。 独りでダンサーとして成長しようとするシンジの決意も応援したいし、カオルの純な想... <span style="font-size:large;"> あの夜、ニューヨークへ行くといったシンジにショックを受けて、べろんべろんになるまで酔ってしまったカオルを思い出しながら、灯里は保護者用の短期留学説明会の資料をまとめていた。<br /> 想う相手が眼の前からいなくなる、その空洞のような喪失感を灯里はよく知っている。あの無邪気で正直で真っ直ぐなカオルは、それに耐えられるんだろうか。<br /> 独りでダンサーとして成長しようとするシンジの決意も応援したいし、カオルの純な想いも叶ってほしい。<br /> 生き方と気持ちに真摯という意味において、ふたりはとてもお似合いだ。狡くて穢れた自分とは大違いだと、灯里はいまさらながらに思う。<br /><br />「あの、北川さん。お昼行きませんか?」<br /> 斜め向かいの席から、控え目に由紀子がそう声をかけてきた。<br /> もうそんな時間かと、壁に掛かった時計を見ると、確かに12時を15分ほど過ぎていた。<br />「行きましょうか」<br /> 由紀子にそう微笑むと、灯里はお弁当の入った手提げ袋を持った。<br /> カフェテリアで向かい合って、いつものようにお弁当を広げる。由紀子のそれは相変わらず手が込んでいておいしそうで、毎日シェフの手づくりお弁当だなんて、本当にかなりのお嬢様だ。<br /> 職場にも灯里にも慣れてきたらしい由紀子は、最初の頃のように無口ではなくなって、こうしてふたりのときはそれなりに話をするようになっていた。仕事の方は元来あまり器用ではないらしく、まだまだ慣れなくて眼が離せないのだが。<br /><br />「北川さんは、毎日、お弁当自分でつくるんですか?」<br /> 由紀子と比べるとかなり質素なお弁当の中身を見て、そう訊ねられた。<br />「うん。だって独り暮らしだから」<br /> 自分でつくらなければ、お弁当も夕食も出てこない。<br />「私も、自分でつくってみようかな」<br /> 突然、由紀子がそんなことを言いだすので、灯里はちょっと驚いた。<br />「どうしたの?突然」<br /> だって、と由紀子は赤くなりながらこう続けた。<br />「お料理ができない女って、やっぱりダメですよね?」<br /> もしかしたら、と灯里は思った疑問を由紀子にぶつけてみた。<br />「好きな人とか、できた?」<br /> 由紀子が驚いたように眼を見張って、真っ赤になった。わかりやす過ぎる。<br />「ごめんね、余計なこと言っちゃった」<br /> 謝る灯里に、由紀子は首を振るとキッシュを口に運んだ。<br />「母は…母はときどきつくるんです。父のために。でも、もともとお料理があまり好きではないらしくて」<br />「そう」<br />「それに父も忙しくて、家で食事をするのは朝と日曜くらいで…」<br />「でもいつもプロのお料理なんて、羨ましいよ。あたし、庶民だから」<br /> そう言って笑う灯里に、由紀子は訊ねる。<br /><br />「男の人って、肉じゃがとかつくれる女がいいですよね?」<br /> どこの雑誌やネット情報だ、と思いながら灯里は言う。<br />「肉じゃが好きな人もいれば、カレーが好きな人もいるだろうし。人それぞれでしょ」<br />「北川さんの彼氏は、何が好きなんですか?」<br /> いきなりそう訊かれて、灯里は戸惑った。<br />「え、あたしの彼氏って…」<br />「いますよね、だって…いないわけなさそうだし」<br />「なんで?そんなことないよ」<br /> 灯里はそう曖昧に言いつくろって、逆に訊ねた。<br />「仁科さんは、どうなの?」<br /> 由紀子はまたはにかんで俯き加減になりながら、ライ麦パンを食べた。<br />「私、男の人とおつき合いしたことないんです」<br />「そうなの?」<br />「はい。中学から大学まで、ずっとエスカレーター式の女子校だったので」<br /> これは正真正銘のお嬢様だ、と灯里は確信した。<br /><br />「お弁当から、はじめてみたら?」<br />「え?」<br />「お料理。あたしも料理に興味を持ったのは、高校時代のお弁当づくりだったの」<br />「そうなんですか」<br />「うん。でもお弁当って、意外に難しいの。全体の彩りとか、冷めてもおいしいものとか、水分が出たり味が移るものとかはダメだし…」<br />「できるかな…」<br />「最初は教えてもらいながらがいいよ。だって、プロが身近にいるんだもの。大丈夫、きっとすぐに上手になると思うよ」<br />「そうでしょうか」<br /> 嬉しそうに、本当に嬉しそうにえくぼを浮かべた由紀子を見て、灯里は彼女の恋が上手くいくといいなと思った。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> その日も残業ない由紀子は、大学院の研究室がある棟の前にいた。少しくらい遠回りになっても、帰り際にそこを通るのが日課になっていた。<br /> 偶然に会える確率なんてどれだけあるんだろう、と思ってもかすかな期待に胸をときめかせて、由紀子はその棟の前をゆっくりと通る。<br /> 学食でランチする姿を遠くから眺めることはあっても、カップケーキを渡したあの日から、まだ一度も柊と間近に会えてはいなかった。<br /> <br />「いま帰り?お疲れさま」<br /> 不意に後ろから声を掛けられて、由紀子は思わず飛び跳ねそうになった。廊下を窺うように覗いて、何度か行き来していた姿を見られたかと思うと、恥ずかしさですぐに後ろを振り向けない。<br /> そんな由紀子にかまわず、柊は由紀子に向かい合うように立つと、優しい笑顔で言った。<br />「この間のカップケーキ、おいしかったです。どうもご馳走さまでした」<br /> そう礼儀正しく頭を下げられて、おずおずと顔を上げた由紀子は、柊の爽やかな笑顔に頬を染めた。<br />「あ、いえ…」<br />「今日は、どうしたの?」<br /> そう訊ねられて、咄嗟に言い訳が思いつかない。<br />「あ、なんでも…」<br />「?そう。じゃ、お疲れさまでした」<br /> 柊はそんな由紀子の不自然さをとくに詮索することもなく、そのまま研究室の方へ歩き出す。その背中を、由紀子は思わず呼び止めていた。<br /><br />「あ、あのっ」<br /> 柊が振り返って、怪訝そうな表情を見せる。眉根を少し寄せたその顔が、繊細で賢そうでとても素敵だと由紀子は思った。<br />「なに?」<br /> 呼び止めたくせに、ぽかんと見つめたままの由紀子に柊は訊ねた。<br />「あ、いえ…」<br /> 由紀子はそう言い淀んでいったん俯いたが、やがて意を決したように言った。<br />「お名前は…」<br />「僕?」<br />「はい」<br /> 眼を合わせられずに俯いたままの由紀子に、柊は言った。<br />「野々村柊です。よろしく」<br /> 野々村柊…素敵な響きだ、と由紀子の鼓動はますます速くなる。<br />「で、あなたは?」<br /> 名前を訊かれている…それだけで舞い上がるほど嬉しくなった由紀子は、上気した顔で訊かれてもいないことまで答えてしまった。<br />「仁科由紀子です。24歳です」<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第7章 かけ違えるボタン〈ⅷ〉

 ダイニングバーのドアが開く音に、入口の方を見たアレンは、久しぶりに見る男の顔を認めた。「いらっしゃい」 そう言うアレンに、「よぉ」と答えて、シンジはカウンターに座った。「久しぶりじゃないか」「この夏、1か月くらいニューヨークに行ってたんだ」「本場のレッスンてやつか?」「まあな」 さらにシャープになった顔つきと肉体のダンサーに、アレンは訊ねた。「で、何飲む?」「シンガポールスリング」「お前が居ない... <span style="font-size:large;"> ダイニングバーのドアが開く音に、入口の方を見たアレンは、久しぶりに見る男の顔を認めた。<br />「いらっしゃい」<br /> そう言うアレンに、「よぉ」と答えて、シンジはカウンターに座った。<br />「久しぶりじゃないか」<br />「この夏、1か月くらいニューヨークに行ってたんだ」<br />「本場のレッスンてやつか?」<br />「まあな」<br /> さらにシャープになった顔つきと肉体のダンサーに、アレンは訊ねた。<br />「で、何飲む?」<br />「シンガポールスリング」<br />「お前が居ない間、あの娘(こ)、そればかり飲んでたぞ」<br /> そうアレンが言うと、シンジは苦笑いをしながら言った。<br />「カオルか?」<br />「ああ」<br /> と言って-オーダーされたものをシンジの眼の前に置きながら、やはりこいつはあの娘の気持ちがわかっているんじゃないか、とアレンは思った。灯里かと言わずに、迷わずカオルかと訊ねたのがその証拠だ。<br />「今日は、来ないのか?」<br />「後で来るよ、ふたりとも」<br /><br /> そのとき再びバーのドアが開いて、数人の女の子たちが入ってきた。<br />「きゃあ、やっぱり!」<br />「うそ、ホントに居た!」<br /> 女の子たちがアレンを見て、黄色い歓声を上げている。<br />「いらっしゃいませ。ね、キミたち、他にお客さんがいるから…」<br /> アレンは唇に人差し指を充てると、賑やかな女の子たちにウインクして見せた。<br /> それは驚くほど効果てきめんで、女の子たちが口々に「しー」「しー」と言いだし、さっきとは真逆の態度で大人しくなる。そんな彼女たちを、最奥のテーブル席に案内すると、アレンはしばらくサービス・トークをしはじめた。<br /><br /> やがて遅れてやってきたカオルと灯里に、シンジはアレンたちの方を見て言う。<br />「なんだろうな?あれ」<br />「あ~あ」<br /> と意味深長に頷いたカオルは事情がわかっているらしい。<br />「シンジは1か月以上も日本にいなかったからね、軽く浦島太郎状態ってこと」<br /> と可笑しそうに灯里も言う。<br />「ちぇ、教えろよ」<br />「待って、あたしたちもオーダーするから。それから、あっちのテーブル移ろっ」<br /> カオルと灯里がふたりとも、ジントニックをオーダーして、3人はアレンを囲む女子たちと反対側のテーブルに移動した。<br />「アレンさ、有名雑誌の専属モデルになったの。先月号なんて、いきなり表紙だよ」<br /> カオルが早速、種明かしをしてくれた。<br />「まじ?」<br />「うん。それがもう、もの凄ぉーく、カッコよかったんだから」<br />「で、それ以来、このバーにもああいう女子たちが来るようになったんだ」<br /> 灯里もそう続ける。<br />「へー、あ、また来た」<br /> そうシンジが言うったとおり、ダイビングバーにはアレン目当てとわかる女性たちの集団がまた賑やかに入ってきた。<br /><br />「すみませんね、うるさくて」<br /> とオーダーしたドリンクや料理を運んできた新顔のバーテンダーが、灯里たちに言う。<br />「いや。でも、儲かっていいでしょ?」<br /> シンジが気にしていないという意味でそう冗談を言うと、バーテンダーは首を振った。<br />「いままでのお客さんが逆に離れていくんで、迷惑ですよ。ああいう一時(いっとき)のお客は」<br /> まあ、それはそうだろうと灯里たちは、アレンを逆に気の毒に思った。有名になるのもいいことばかりではなく、大変だ。<br />「アレン、辞めないといいなぁ、ここ」<br /> 心配そうに言うカオルを、慰めるようにシンジが言う。<br />「まあ、なるべく速やかにブームが去ることを祈るしかないな。それより、土産があるんだけど」<br /><br />「え、本当ぉ?なになに?」<br /> カオルがぱっと嬉しそうな顔になって、シンジの腕に手を回す。<br />「スタジオで仲良くなったダンサー仲間に教えてもらった、いま人気らしいショップのTシャツ」<br /> そう言ってシンジは、ビニール袋から個性的なイラストとロゴマークの白いTシャツを2枚出した。<br />「うわ、カッコいい。灯里、どっちにする?」<br /> 同じアーティストの作らしいイラストの2枚はデザインが少しずつ違っていて、灯里はシンジに言った。<br />「シンジ、選んでよ」<br /> う~ん、とシンジは考えると、赤を基調にしたイラストのTシャツをカオルに、グリーンを基調にしたイラストのそれを灯里にそれぞれ差し出した。<br />「うゎ~い、嬉しいっ」<br /> シンジに選んでもらって、余計に嬉しそうなカオルが胸の前にTシャツを充ててポーズを取った。<br />「どう、似合う?」<br />「おお、似合うよ」<br /> シンジがそう言って、握った手の親指を立てた。<br />「今度のレッスンで一緒に着ようよ、灯里ぃ」<br /> そう甘えるカオルに、「いいよ」と灯里は言ってシンジにあらためてお礼を伝えた。<br /><br />「ねぇ、シンジ。お土産話も訊かせてよ。どうだった、久々の本場でのレッスンは?」<br /> 眼を輝かせて訊くカオルに、シンジの表情も思い出したように生き生きと変わる。<br />「やっぱ、いいよ、ニューヨーク。インストラクターもいいけど、レッスン受けに来る連中の本気度が違う。なんか、俺、忘れてたなぁ、この熱気って思ったよ」<br />「ふぅん、そんなに違うのかぁ。いいなぁ、あたしも行ってみたいな」<br /> カオルが羨ましそうに、頬杖をつく。<br />「なんか、今日のシンジの振付け、凄く新鮮だったのも、そのせい?」<br /> そう訊ねる灯里に、シンジの眼に熱が籠る。<br />「ステップとか、振りとか、もう2年前と全然違うんだ。ダンスの流行の変化とかスピードが速くて、俺も最初は面食らったよ」<br />「いいなぁ、なんか刺激的」<br />「うん、最高に刺激的だったぜ、カオル。わずか1か月の間に、俺のダンサーとしての細胞が入れ替わったんじゃないかってくらい影響を受けた」<br />「そっかぁ、じゃあこれからも行くの?ニューヨーク」<br /> そう無邪気に訊ねたカオルに、シンジがちょっと口ごもった。<br />「ん?」<br /> ちょっとマジになったシンジの表情に、カオルが小首を傾げる。<br />「…実はさ、俺」<br /> <br />「なんで、なんで?」<br /> 本格的にニューヨークでまたレッスンを受けたいと言ったシンジに、カオルが悲痛な声を上げる。<br />「また、ときどき行けばいいじゃん。なにも、ずっと行かなくたって」<br />「カオル…それじゃダメなんだ。いま行かないと、俺ダンサーとしてこれ以上変わらない気がするんだ」<br />「やだ、やだよ、シンジ」<br /> 子供のように駄々をこねる、でもとても正直なカオルを可愛く思いながら灯里はシンジに訊ねた。<br />「どれくらい行くつもりなの、今度は?」<br />「決めてない」<br />「決めてないって…」<br /> もう、カオルはショックで泣きそうだ。<br />「1年以上になると思う。だけど、それがどれくらいの期間になるかは、俺自身も予想がつかないんだ」<br />「そんな…」<br /> カオルの眼はいまにも涙が溢れそうで、唇が小刻みに震えている。<br />「あたしも、あたしも行くっ」<br /> カオルはそう言うと、涙が零れそうになるのを手の甲で拭って、そうシンジに宣言した。<br />「カオル…悪いけど、ついてこられるのは迷惑だ」<br /> 今度もシンジは、そうきっぱり言った。<br />「じゃあ、じゃあ、あたしもダンサーになるためにニューヨークに行く」<br /> ばかだな、とシンジはカオルのおでこを人差し指で突く。<br />「お前には、歯科技工士という技術があるだろ。安定した仕事だってあんだろ」<br />「そんなの、そんなの、何の意味があるの?」<br /> シンジがいなくなるのに…小さく呟いたカオルの言葉が、悲しいほど灯里の胸を打った。おそらくシンジの気持ちも。<br />「遊びに来ればいいだろ?」<br /> そう慰めるように言ったシンジに、もう涙を隠そうともしないカオルが頑なに首を振った。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第7章 かけ違えるボタン〈ⅶ〉

 ストレッチで躰をほぐし終えた柊が、縄跳びを開始したところで、アレンがジムに入ってきた。「おう」 と、互いにいつものように片手を上げて挨拶する。 トレーニングしやすいウェアに着替えてきたアレンが、柊のすぐ傍でストレッチをしはじめる。それが済むとアレンは、柊に声をかけた。「ランニングマシーン、行かないか?」「OK」 柊とアレンは、並んでランニングマシーンの上を走る。「忙しいんじゃないのか?仕事」 そう... <span style="font-size:large;"> ストレッチで躰をほぐし終えた柊が、縄跳びを開始したところで、アレンがジムに入ってきた。<br />「おう」<br /> と、互いにいつものように片手を上げて挨拶する。<br /> トレーニングしやすいウェアに着替えてきたアレンが、柊のすぐ傍でストレッチをしはじめる。それが済むとアレンは、柊に声をかけた。<br />「ランニングマシーン、行かないか?」<br />「OK」<br /> 柊とアレンは、並んでランニングマシーンの上を走る。<br />「忙しいんじゃないのか?仕事」<br /> そう訊ねた柊に、アレンは首を竦めて見せる。<br />「まぁ、なんだか知らないけど、次々入ってくるよ」<br />「大学、ちゃんと出席できるのか?星奈が心配してたぞ」<br />「あと1年あるから、大丈夫だろ」<br />「お前、まさか、今年も卒業しないつもり?」<br /> アレンは笑って余裕を見せる。<br />「まあ、ここまできたらあと1年も2年も一緒だろ」<br /><br /> そんなアレンに、柊は以前から思っていた疑問をぶつける。<br />「それ、星奈のためか?」<br /> アレンはちょっと驚いたように柊を見たが、すぐに苦笑して正面を向く。<br />「まさか。それだけで留年するほど、俺はロマンチストでも感傷的でもないさ」<br />「じゃあ、なんでだよ」<br />「卒業して、就職するってイメージがどうしてもわかなかったからかな。まあ、お前や星奈とまだ学生をしていたいというのもあったけど」<br /> 少し息が切れてきた柊は、ホルダーに差していたスポーツドリンクのペットボトルを取ると一口飲んだ。<br />「いまの仕事は、どうなんだ?」<br />「まだ、わからないけど続けてみてもいいかなとは思っている」<br />「そうか」<br />「取りあえず、お前らが卒業して、母親がもう少し良くなるまでは続けてみるよ」<br /> やはりアレンは本人が言うほどドライじゃないな、と柊は思った。<br /><br />「それより、お前の方はどうなんだ?」<br /> 今度は、アレンが水分補給しながら訊く。<br />「灯里は、何かに苦しんでる」<br />「苦しんでる?」<br />「うん」<br /> アレンがしばし考えて、わからないなという風に頭を振る。<br />「お前はそれを救ってやりたいのか?」<br /> 今度は、柊がアレンを驚いたように見る番だった。<br />「他人が救えることなんて、タカが知れてる。それは、アレンが一番よくわかってるじゃないか」<br />「じゃあ、どうするつもりなんだ」<br />「アレンと同じだよ」<br />「俺と同じ?」<br />「ああ、とことんつき合う。ただ、傍にいる。僕にできることはそれくらいだ」<br />「口で言うほど、簡単じゃないぞ」<br />「わかってるよ」 <br /> それからしばらく、ふたりは無言でランニングを続けた。<br /> ほどなくしてランニングマシーンを止めると、アレンは言った。<br />「お前、本気で好きなんだな。Miss幼なじみのこと」<br /> <br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> もし、灯里を救えるとしたら、それは時間だと柊は思う。<br /> 傷ついた分だけ、苦しんだ分だけ、その何倍かの時間を人は必要とする。<br /> どんな慰めも、気晴らしも、気休めでしかなくて。結局、アレンの言う通り、人は自分自身で救われたいと願わない限り、その暗闇から踏み出すことはできないのだ。<br /> だから周りの人間にできることは、その苦しみを共有しながら待つことだ。<br /> 愛しいもののために待つことしかできない、何もできないというのは、予想以上に苦しいものだと柊は知った。<br /> でも、だからこそ。愛は時間だと、いまの柊は思うのだ。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> その頃、星奈は自宅の自室で、表紙を飾るアレンをまじまじと眺めていた。<br /> 少し長めのウェーブを描く金髪、同じように金色のまつ毛から覗く碧眼、彫りの深い整った顔は約5年もの間、見慣れてきた悪友のものだ。<br /> シャリッと仕立ての良さそうな水色のシャツを着てモデル然とポーズを決めている以外は、特別驚くこともない。<br /> <br /> なのに…。何かが違う。いや、違うのは自分の方だと星奈はやっと自覚した。<br />「なんだか、ドキドキしてんだけど。やだ、動悸がするってことは不整脈かな?そ、それとも心臓病の兆候?」<br /> 鏡を見ると、顔も心なしか赤い。<br />「うちの家系で心筋梗塞とかいたっけ?突然死とか、やだなぁ」<br /> 誰かが訊いていたら、「そんなわけないやろ!気にすんのそこかいっ」と突っ込むこと必須な呟きも、幸か不幸か独りのゆえに放置状態だ。<br /> <br /> やがて星奈はもう一度、鏡に映った自分の顔をまじまじと確認する。<br /> 化粧っ気のない顔、髪は無造作に後ろで一つにゴムでまとめただけで、髪飾りをつけたことすらない。<br />「だって、勉強以外、あんまり興味なかったし」<br /> でも、と星奈は思う。<br /> 化粧くらいしてみようかな。…て、化粧の仕方、知らないや。<br /> 院の連中は男ばかり。兄妹は兄ばかりで相談もできない。母に訊いたら、驚いて卒倒しそうだ。<br />「う~ん、どうしよう」<br /> 女性誌ではときどきメイク特集をしていることも、デパートなどの化粧品コーナーで体験メイクをしてもらえることも、星奈の辞書には、いや人生にはない知識なのだ。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第7章 かけ違えるボタン〈ⅵ〉

「お休み、灯里。僕、今夜は帰るね。泊まるとまた何度も、キミを抱きたくなってしまいそうだから」 全身から充足の疲労感を漂わせて眠る灯里に、柊はそう告げると名残惜しげに額へキスした。 それから灯里の部屋のドアを閉めると、合鍵で施錠し、ちゃんと閉まっているかを何度か確認した。  翌朝、灯里はカーテンの隙間から差し込む朝陽に目覚めた。「柊ちゃん?」 そう呼んだけれど愛しい人の気配はなくて、夕べ自分の躰を冷... <span style="font-size:large;">「お休み、灯里。僕、今夜は帰るね。泊まるとまた何度も、キミを抱きたくなってしまいそうだから」<br /> 全身から充足の疲労感を漂わせて眠る灯里に、柊はそう告げると名残惜しげに額へキスした。<br /> それから灯里の部屋のドアを閉めると、合鍵で施錠し、ちゃんと閉まっているかを何度か確認した。<br /><br /> <br /> 翌朝、灯里はカーテンの隙間から差し込む朝陽に目覚めた。<br />「柊ちゃん?」<br /> そう呼んだけれど愛しい人の気配はなくて、夕べ自分の躰を冷たいタオルで拭いてくれたのは夢だったんだろうかと思う。<br />「ううん、確かに現実だった」<br /> そして夕べの快楽は凄まじかったと思い出して、灯里は人知れず赤くなる。柊が使ったローターの初めての感触、その強弱の巧みさに翻弄された。欲望と快感の炎がもう消せないほどになったとき、今度は柊の分身が灯里を快楽の高みへと突き上げた。<br /> 信じられないほど、乱れてしまったと思う。そして思う、これが恋人同士だったら、と。<br /> いまの私たちは、じゃあ、どんな関係だというの?そう考えて、灯里の心は冷たく沈んだ。<br /> 躰だけの関係…きっと、そう言うのだ。快楽だけを求め合う、獣のような関係だ。自分はともかく、それを柊ちゃんに押しつけていいのだろうか。<br /> 愛しい人との時間が幸福であればあるほど、その後の後悔が暗く救いようがないものであることを、灯里はもう嫌と言うほどわかっていた。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「仁科さん、今日はお弁当なんですね」<br /> カフェテリアで灯里は、由紀子と向かい合ってお弁当を広げた。<br />「はい」<br /> と小さく答えた由紀子が開けたお弁当箱の中身を何の気なしに見た灯里は、思わずこう言ってしまった。<br />「凄い、綺麗…って言うか豪華、ですね」<br /> 由紀子が照れたように、自分のお弁当と灯里のそれを見比べる。<br />「あ、ごめんなさい。失礼ですよね」<br /> 灯里はすぐにそう謝ったけれど、実際、由紀子のお弁当は彩りも内容も素人の域を超えていた。<br />「これ、うちのシェフがつくったから」<br />「シェ、シェフ?」<br /> 思わずそうオウム返しに訊いてしまった灯里に、由紀子はちょっとバツの悪そうな顔をする。<br />「変、ですか?」<br />「ううん、変どころか、凄く彩りも綺麗でおいしそう」<br /> 灯里は慌てて、そう言った。そして、由紀子の家が想像をはるかに超えたレベルであることを確信した。<br /> 同時に、高校時代に板前がつくった弁当をクラスメートに驚かれたことを懐かしく思い出す。<br />「きっと、仁科さんはお嬢さんなんですね」<br /> そう言って微笑む灯里に、由紀子はそんなことないという風に頭を振った。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> その日の夕方、由紀子は再び大学院の共同研究室がある棟へ向かっていた。胸には昨日と同じように、ビニール傘を大事そうに抱えて。そして今日は迷うことなく、昨日教えてもらった実験研究室の前に立った。<br /> ドアをノックしようとする手が震えて、由紀子は持っていた傘を握りしめ、呼吸を整える。でも胸のドキドキは一向に治まらなくて、なんだか顔がほてる。<br /> それでも意を決したように、由紀子はドアをノックした。<br /> 数分、何も起こらない。ノックが弱すぎたのかと思い、もう一度ドアの前へ手を伸ばしたところで、目の前の扉がいきなり開いた。<br /><br />「あっ」<br /> そこから顔を出したのは、紛れもなく由紀子がずっと会いたかった相手、柊だった。<br />「あれ、キミ…」<br />「こ、こんにちは」<br /> 慌てて由紀子は、ぺこりと頭を下げる。<br />「いまドア、ノックした?」<br />「は、はい」<br /> それを訊いて、柊があははと笑う。<br />「よかった、気づいて。なんか小さな音がした気がしたから開けてみたんだけど。あのね、この中、実験機器の音や僕らの話とかで結構ざわついているから、もっと強く叩かないと聞こえないんですよ」<br /> そうなんですか、と蚊の鳴くような声で言って、由紀子は真っ赤になって俯いた。<br /><br />「昨日も来てくれたんでしょ?いなくて、悪かったですね」<br /> い、いえ、と由紀子がますます小さな声になる。<br />「わざわざ、返しに来てくれてありがとう。あ、それとこの大学の事務員になんたんですよね?なに課?」<br /> 由紀子はありったけの勇気を振り絞ると、柊の顔を見て言った。<br />「教務課です」<br /> …教務課。てことは灯里の同僚になったのか、と柊は思った。<br />「そう、じゃあ、これからいろいろよろしく」<br /> 柊はそう言うと、由紀子の持っている傘の方へ手を差し出した。<br /> 由紀子は、その手に握りしめていた傘を名残惜し気に差し出す。傘を返してもらった柊は「じゃあ」と言って、部屋に入ろうとする。その横顔に、由紀子は縋るように言った。<br /><br />「あ、あのっ」<br />「?」<br /> 中に入りかけた柊が、振り向く。<br />「こ、これ…」<br /> 由紀子は、持っていた手提げの紙袋を勢いよく差し出した。<br />「ん?」<br /> 首をかしげる柊に、由紀子は小さな声で言った。<br />「お礼です。シェ、いえ、手づくりの…カップケーキ」<br /> なんとなく、シェフが、という言葉を由紀子は飲み込んでしまった。手づくりは嘘じゃない、でも、少し気まずいと思いながら。<br /> そんなことには気づかずに柊の顔がぱっと笑顔になって、思わず由紀子は素敵だなと見惚れてしまう。<br />「お礼なんていいのに。カップケーキって、キミがつくったの?」<br /> あ、と由紀子は返答に詰まった。<br /> どうしよう、このままだと誤解されてしまう…由紀子はそう思いながら、いまさら何と言ったらいいか思いつかない。<br /> 狼狽える由紀子に優しく微笑んで、柊はそれを受け取った。<br />「ありがとう。院のみんなで、遠慮なくいただきます」<br /> そう言って、深々と頭を下げると、またにこりと笑って今度こそ本当に部屋に入ってしまった。<br />「名前、訊けなかったな…」<br /> しまったドアを呆然と眺めながら、由紀子はそう呟いた。<br /><br /><br />「あ、あの娘(こ)、傘返しに来たんだ?」<br /> 柊が手にしている傘を見てそう言った星奈が、もう一つ持っているものに気づいた。<br />「で、それは何?」<br />「ああ、お礼だって。カップケーキらしいから、みんなで食べようよ」<br />「やった!」<br /> 星奈がそう言って、院生たちに声をかける。<br />「みんなー、差し入れだよぉ。休憩室でコーヒー飲もっ」<br /> それに「おー」とか「やったぜ」の声が答える。<br /> 柊は先に休憩室へ行って、手提げ袋から箱を出し開けてみた。<br />「え、これ、手づくり?」<br /> 中にはまるで専門店にディスプレイされているような、形もデコレーションも整ったカップケーキが12個並んでいた。<br /> それはそうだ、手づくりとはいえ、プロがつくったものなのだ。繭里が持ってきたカップケーキとはだいぶ違う、と柊は思い出し笑いをする。あれはあれで、可愛らしくおいしかった。<br /> コーヒーを淹れながら、柊の背中越しに箱を覗き込んだ星奈が言う。<br />「うわぁ~、凄い。おいしそう!」<br />「これ、手づくりらしいよ」<br />「まじ?じゃあ、あの娘、料理とかめっちゃ上手いんじゃないの?これ、お店の商品みたいじゃない」<br /> なんだか意外だな、と柊は大人しく不器用そうな印象の由紀子を思い浮かべた。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第7章 かけ違えるボタン〈ⅴ〉

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第7章 かけ違えるボタン〈ⅳ〉

 教授に頼まれた資料を産学共同プロジェクトの企業に届け、いったんアパートに帰った柊は、ボクシングの一式を持ってジムへ向かった。そこで1時間ほどいつものように汗を流し、シャワーを浴びると帰宅した。 帰りがけに買ってきたコンビニの弁当を食べながら、暑いのにも関わらず窓を開け、帰ってくる灯里を待った。 やがて街灯が、歩いてくる灯里の姿に長い影をつくった。「灯里」 柊は、思わずそう呼びかけていた。その声に... <span style="font-size:large;"> 教授に頼まれた資料を産学共同プロジェクトの企業に届け、いったんアパートに帰った柊は、ボクシングの一式を持ってジムへ向かった。そこで1時間ほどいつものように汗を流し、シャワーを浴びると帰宅した。<br /> 帰りがけに買ってきたコンビニの弁当を食べながら、暑いのにも関わらず窓を開け、帰ってくる灯里を待った。<br /> やがて街灯が、歩いてくる灯里の姿に長い影をつくった。<br />「灯里」<br /> 柊は、思わずそう呼びかけていた。その声に気づいて見上げた灯里の小さな顔が、街灯の光に照らされて月のように輝く。約2か月ぶりに見る愛おしい姿に、柊の心が熱く反応する。<br />「おかえり、灯里」<br />「柊ちゃん」<br />「晩御飯はこれから?」<br /> そう訊く柊の手に、コンビニ弁当らしきものを認めて灯里はちょっと首を振る。<br />「柊ちゃんは、それ?」<br /> 柊は手にしていた弁当を見て、「いつものことだから」と照れくさそうに言う。<br />「灯里は?」<br />「これからよ」<br />「後で行っていい?」<br />「なんで?」<br /> なんでって…柊はもの凄く不満に思う。2か月も会えなかったのに、灯里は何ともないの?僕は恋しくて恋しくて、たまらなかったというのに。<br />「話があるんだ」<br />「どんな?」<br /> そう問われて、柊は嘘を瞬時に用意できなかった。<br />「今日は、初日で疲れてるの」<br /> 暗に来るな、と言った灯里が憎らしい。<br />「わかったよ」<br /> そう言いながら、柊は絶対に後で行こうと決めた。灯里が食事を終えて、シャワーでも浴びた頃に。<br /><br /> そして僕を避けようとしたことを後悔させてあげるね、灯里。後で、嫌というほどに。<br /> <br /><br /> 自分の部屋へ入ると、灯里はまずシャワーを浴びた。浴びながら、約2か月ぶりに見た柊のことを思い出す。<br /> 心なしか、少し痩せた?産学協同プロジェクトの3週間の泊まり込み実験は、ハードだったんだろうか?その間、ちゃんとした食事は摂っていたのかな。<br /> 今日もコンビニのお弁当らしいし。夕飯ぐらいちゃんとしたものを食べさせたいと思って、そんな自分を灯里は笑った。<br /> バカみたい、自分を柊ちゃんのなんだと思っているの?優しい幼なじみを都合よく利用する、最低の女のくせに。<br /><br /> シャワーを浴びてリラックスした部屋着に着替えると、灯里は冷蔵庫からつくり置いたものを出した。9月といってもまだ暑いから、今日は海老団子ときゅうりの冷製、蒸しささみとシソと茗荷のあえ物、朝お弁当をつくるときに一緒につくっておいたおにぎり。それを熱いほうじ茶とともに食べた。<br /> TVをつけると賑やかなお笑い番組をやっていた。暑いほうじ茶をもう一杯淹れて、大きめのクッションに胡坐をかくように座る。なんとなく、柊がやってくる気がした。<br /><br /> 待ってるの?どこか、期待してるの?<br /> お笑い番組を見ながら、自分の気持ちが少しもそれに向いていないことに灯里は気づいていた。<br /> 耳と神経は、玄関のチャイムに向いていて。柊が嘘でもいいから、「話がある」と強引に入ってきてくれることを本当は望んでいる。そして本当にそうなったら、自分は拒むことができるのだろうか?<br /> 胸が苦しい、柊ちゃん、どうしよう。このままではますます好きになってしまう。<br /><br /> やがて。<br /> 灯里の部屋のチャイムが鳴って。<br /> 気がついたら、ベッドで裸で抱き合っていた。会えなかったたった2か月が、2年もの隔たりに感じるほど、恋しくて。夢中で抱き合っても、躰中をふれあっても、まだ足りなくて。<br /> 何も考えられなくなって、ただ互いに「柊ちゃん」「灯里」と何度も呼び合いながら。<br /><br /><br /> これじゃあ、まるで恋人同士。<br /> 躰を重ね続けると、こんな錯覚を容易にしてしまうようになるの?<br /> だとしたら、なんて幸福で悲しい錯覚。<br /> 覚めることを自覚しながら見る夢のようなもの。<br /> せつなくて、苦しくて、ひりひりするほど愛おしい。<br /><br /><br /> 灯里、僕のためにいまだけ存在するキミ。<br /> この刹那が過ぎれば、すり抜けてしまう心。<br /> それならこの刹那を永遠に繋いでいくしかないよね。<br /> キミが嫌と言うまで、キミが嫌と言ったとしても。<br /> このまま快楽と絶望の海に溺れ続けよう。<br /> 僕は、キミのためなら卑怯で最低な男にだってなれるから。<br /><br /><br /> そして。<br /> 柊の胸に頬を預けながら、灯里は気怠い幸福感に包まれる。お互いの汗と熱がまだ引かないのを感じながら、見つめ合う。眼が合って微笑んでいると、もしかしたらと都合のいい期待を抱いてしまう。ふたりは互いにそんな自分自身を笑いながら、それでも優しいまなざしを交換し続ける。<br /> 柊の手が、胸に抱いている灯里の頭を撫でて、灯里はその満たされていく安心感に戸惑う。<br />「不思議…」<br />「ん?」<br />「あたし、頭を撫でられるの、柊ちゃんが初めてかもしれない」<br />「…灯里」<br /> そう言う灯里に、柊はせつなさと愛おしさが満ち潮のように押し寄せてくる。<br /> そうか、灯里は母を知らない。父と娘の愛情交換も、普通とは違う世界で育ってきたんだ。<br />「撫でられるの、好き?」<br />「…安心する」<br /> そう言ってさらに頬を摺り寄せてくる灯里が可愛くて、柊はまた頭を撫でてやった。<br /><br />「ねぇ、柊ちゃん。泊まり込みの実験、大変だった?」<br />「どうして?」<br />「だって、痩せたから」<br />「そう?」<br />「うん」<br /> 心配そうに見つめる灯里に、柊は温かな気持ちになりながら、思い出したように苦笑いした。<br />「ずっとデータを記録し続けなきゃいけないから、何人かで交代で寝るんだけど、仮眠室のベッドが硬くて狭くてちっとも寝た気がしないんだ」<br />「そう」<br />「僕は男だからいいけど、星奈は…ほらあの背の高い女の子、彼女は大変だったと思うよ」<br />「女性でも、仮眠室なの?」<br />「うん。彼女は、それを最初から納得して参加表明したからね」<br />「頑張り屋さんなのね」<br />「うん、星奈は頑張り屋で優秀でもある」<br /> そう言って柊は、灯里の頭を再び撫でる。灯里が猫のように伸びをしてから、柊の体に手足を巻きつけた、とても自然に当然のように。<br /> だから柊は、灯里の額に優しくキスしながら訊ねた。<br /><br />「灯里は、どうしてたの?この夏」<br />「いつもと変わらない。でもこんなに長いお休みは初めてだったから、お買い物に行ったり、模様替えしたり楽しかった」<br /> そう言えばソファのカバーが新しくなって、お揃いの柄のクッションがふえたな、と柊は微笑ましく思う。<br />「旅行は?旅行は行ったの?」<br /> さりげない風を装って、柊が訊きたかったことを口にする。<br />「うん」<br /> さりげない風を装って、灯里も答える。<br /> ………。<br /> 少しの沈黙の後、再び柊が訊く。<br />「どう…だった?」<br />「どうって…楽しかったよ、それなりに」<br />「それなりに?」<br /> そう繰り返した柊が、安心したように笑った。<br />「なによ?」<br />「いや」<br /> また柊は灯里の頭を撫でて、優しく囁く。<br />「もう、行くなよ。同僚との旅行なんて」<br />「どうして?」<br />「どうしてって…」<br /> 汗と熱が、少し引いたのを感じた。<br />「行きたくなったら、行くと思う」<br />「灯里…」<br />「そりゃ、僕に行くなよ、なんて言う権利はないと思うけど」<br /> 柊が優しさで言った言葉が、灯里の胸に小さな棘のように刺さった。<br /> ………。<br /> また僅かな沈黙が過ぎた後、灯里はぽつんと言った。<br />「写真のモデルになってくれないかって言われた」<br />「誰に?」<br />「高橋さん…て、わかる?」<br /><br /> ああ、わかるさ。灯里をじっとりした眼で見ていた、あの大柄な男だろ。写真のモデルだって、冗談じゃない。それはふたりきりになる口実ゃないか!<br /> キミはバカか、そんな簡単なことがわからないなんて。無防備にも程がある、灯里、僕は許さない。<br /> 僕の灯里を…いや、僕のものではないからこそ、絶対に奪われてはならない。誰かに灯里を独占されるくらいなら、いっそ…。<br /><br />「断ったんだろ?」<br />「…まだ…」<br />「断れよ!」<br /> 急に声を荒げた柊に驚いて、その胸から頬を離すと灯里は柊の顔をまじまじと見た。<br />「それこそ、そんな権利なんて…」<br />「断われ、灯里!」<br /> 柊ちゃん?どうしたの、いきなり。<br />「灯里、両手を出して」<br />「?」<br />「早く、言うことを訊くんだ」<br /> そう言った柊の眼がこれまでとうって変わって、怒りを含んでいる。灯里は、怖いと感じた。</span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
  • Date : 2014-07-16 (Wed)
  • Category : 未分類
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第7章 かけ違えるボタン〈ⅲ〉

「北川さん」 残業時間になって、秋学期からの履修登録名簿のチェックをしていた灯里に、高橋が声を掛けた。「はい?」「忙しいのに、仁科さんのサポートも頼んでごめんね」 そう高橋が微笑む。「彼女、お勤めはこれが最初みたいです」 いろいろ大目に見てほしいという意味で言った灯里の言葉を、高橋は別な意味で取ったようだ。「そうか。じゃあ、余計に大変だね。島津さんはベテランだったから、その穴を埋めるには程遠いなぁ... <span style="font-size:large;">「北川さん」<br /> 残業時間になって、秋学期からの履修登録名簿のチェックをしていた灯里に、高橋が声を掛けた。<br />「はい?」<br />「忙しいのに、仁科さんのサポートも頼んでごめんね」<br /> そう高橋が微笑む。<br />「彼女、お勤めはこれが最初みたいです」<br /> いろいろ大目に見てほしいという意味で言った灯里の言葉を、高橋は別な意味で取ったようだ。<br />「そうか。じゃあ、余計に大変だね。島津さんはベテランだったから、その穴を埋めるには程遠いなぁ」<br />「で、でも。すぐに覚えますよ、きっと」<br /> 灯里は慌てて、そうフォローした。<br />「いや、でも申し訳なかったなぁ。教務課で女性はほら、北川さんだけだから。年齢も近いし、仁科さんも頼りやすいかなって思ったんだけど…。そうだ、お詫びに夕飯、ご馳走するよ」<br /> どうしてそうなるんだ、と思いながら、灯里はやんわり断ることにした。<br />「そんな、仕事ですからお気遣いなく」<br /> 高橋はちょっと残念そうな顔をしたが、周りを見回してから小声でさらに言った。<br />「ほら、写真のモデルの件も詳しく話したいから」<br /> 向かいの席から内緒話をするように顔を近づけてくる高橋に、灯里は正直困った。<br />「あの…。あたし、写真は苦手なんです」<br />「実は写真展に応募したくて。俺の夢なんだ。だからもう少し、考えてみてよ、ね」<br /> そう言われても答えは同じなのだが、無下に断ることもできず灯里は曖昧に言葉を濁した。<br />「はぁ…」<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> その頃、由紀子は大学院の研究室や共同実験室、ゼミ室などがある棟の前まで来ていた。が、来たはいいが各部屋に掲げられたプレートを見ても、どの部屋かわからない。<br />「どうしよう、あの人の名前も知らないんだった」<br /> 1階から3階まで各部屋の名前を確認しながら歩き、また1階へ降りてきたが、目的の人には会えない。すれ違った人たちに訊こうにも、名前がわからない。<br /> 白衣を着た背の高い男の人、そういう人はこの棟にはたくさんいそうだった。<br /><br /> とうとう由紀子が諦めて、傘を置きに再び教務課へ戻ろうとしたそのとき、白衣の女性とすれ違った。<br />「あ」<br /> 思わずそう声を上げた由紀子に気づいて、その背の高い女性が彼女を見た。<br />「?」<br /> 怪訝そうな顔をする女性に、由紀子はぺこりと頭を下げた。<br />「ああ、あなた…」<br /> やっと気づいた星奈は、由紀子が大事そうに持っていたビニール傘にも同時に気づいた。<br />「わざわざ、返しに来たんですか?ビニ傘だからいいって、柊も言ってたのに」<br />「柊…柊さんて言うんですか?」<br /> 由紀子がさも大切そうに、その名を繰り返した。<br />「うん。いま、いるかな?一緒に、行きます?」<br /> こくっと勢いよく頷いて、由紀子は背の高い星奈を追った。<br /> <br /> 何か雑誌が入っているらしい書店の紙袋を小脇に抱え、大股で歩く星奈の後ろをついていきながら、由紀子は胸が高鳴るのを感じた。<br /> 星奈が『共同実験研究室A』とプレートが掲げられた部屋のドアを、勢いよく開ける。<br />「ちょっと待ってて?」<br /> そう由紀子を振り返ると、部屋の中に星奈は消えた。その待っている僅かの時間、由紀子の心臓は鼓動をどんどん速くしていく。<br /> ガチャリと再びドアが開く音がして、由紀子は軽く飛び上がりそうになった。ドアが開いて、星奈が顔を出すと言った。<br />「ごめんなさい。柊、いないの。今日は教授のお使いで企業に寄って、直帰ですって」<br /> そう申し訳なさそうに言う星奈に、緊張がマックスだった由紀子は、はぁとため息をついた。<br />「それ、渡しときますよ」<br /> 持っているビニール傘にそう手を伸ばした星奈に、由紀子は一歩後ずさりすると首を頑(かたく)なに振った。<br />「いえ、いえっ」<br /> 必死にそう言って首を振る様子に、星奈はちょっと驚きながらも言った。<br />「でも。また来るのは大変でしょう?」<br /> 星奈は由紀子がこの大学の職員として採用されたことを知らない。傘を返すために、わざわざ訪れたのだと思っていた。<br />「いえ。あの…」<br />「?」<br />「私、今日からこの大学の事務員になったんです」<br />「え~、そうだったの?」<br /> そして星奈がやっと合点がいったという表情になった。<br />「だから…だから、また来ますっ」<br /> 由紀子はそう言ってぺこりと頭を下げると、逃げるように実験研究室を後にした。<br /><br /> 再びそぉっと教務課へ入り、由紀子は自分のロッカーにビニール傘を仕舞った。<br />「柊さん…て言うんだ。苗字はなんて言うんだろう?」<br /> 優しくて素敵な人だった、と由紀子はあの日、傘を差し出してくれた柊の笑顔を思い出していた。<br /> あの女の人、恋人じゃないよね?そう思うたびに、胸の奥が苦しくなる。揃って背が高くて、白衣姿のふたりは、なんだかとてもお似合いに思えた。<br /> 中・高・大学までエスカレータ式の女子高だった由紀子は、男性とつきあった経験がなかった。<br /> 初めて感じたときめきは、自分でもどうしていいかわからないほど甘く苦しいものだった。これが恋というものなのかな…由紀子は夢見る乙女の眼で、人知れず頬を染めた。<br /><br /> 一方、実験研究室のロッカーの前では、星奈が買ってきた雑誌をこっそり自分のバッグに入れていた。入れる前にきょろきょろとらしくない仕草で周囲を確認すると、紙袋をそっと開けて表紙を確認した。<br /> 水色のシャツを着て、金髪を風になびかせている碧眼のイケメンは、なんだかいつも舌戦を繰り広げている悪友とは別人のようだ。<br /> プロのカメラマンが撮り、幾つものショットから選び抜かれた一枚は、文句のつけようがないほど爽やかで男の色気が漂っている。<br />「こうして見ると、えろタイガーもいっちょ前にカッコいいじゃない」<br /> 星奈ですら、そう呟かずにいられないほどに。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第7章 かけ違えるボタン〈ⅱ〉

 秋学期早々の学食は、ちょっとした騒ぎになっていた。 広い空間のあちこちで固まっている女子たちから、黄色い声が上がっている。「きゃー!アレン先輩ぃ~っ」「うわぁ~、やっぱカッコいい」「ああ、もう私、鼻血でそうぅっ」「ああぁ、これでますます手の届かない人になったぁ~。あ~~」「見て、このセクシーな胸元っ」「ああ、一度でいいから抱かれてみたいっ」「わ、私もっ」「きゃ~、何言ってんのぉ~~~。じゃ、じゃ... <span style="font-size:large;"> 秋学期早々の学食は、ちょっとした騒ぎになっていた。<br /> 広い空間のあちこちで固まっている女子たちから、黄色い声が上がっている。<br />「きゃー!アレン先輩ぃ~っ」<br />「うわぁ~、やっぱカッコいい」<br />「ああ、もう私、鼻血でそうぅっ」<br />「ああぁ、これでますます手の届かない人になったぁ~。あ~~」<br />「見て、このセクシーな胸元っ」<br />「ああ、一度でいいから抱かれてみたいっ」<br />「わ、私もっ」<br />「きゃ~、何言ってんのぉ~~~。じゃ、じゃあ、私もっ」<br /><br />「なんか、盛り上がってるね。あちこちで」<br />「あのえろタイガー、またなんかやらかしたのかな?」<br /> さっぱり事情のわからない柊と星奈は、嬌声が上がる女子たちを見ながらランチを食べていた。<br /> そこへ、噂の本人であるアレンが現れたのだから、学食内は騒然となった。アレンはあっという間に女子たちに囲まれ、背が高いおかげで、その凄まじい女子の壁からにこやかな笑顔が飛び出しているのが見える。<br />「ったく、どこのスターよ」<br /> 星奈が呆れたように言う。<br />「星奈、なんか、女の子たち雑誌持ってるけど?」<br />「へえ?」<br /> 柊と星奈が目を凝らすと、アレンは囲まれた女子たちに雑誌のようなものを渡され、サインしているようだ。<br /> なんなんだ?それじゃ、スターみたいじゃなくて、まさにスター扱いじゃないか。柊と星奈は、ますます訳がわからなくなって顔を見合わせる。<br /> やがて、女の子たちにごめんごめんという風に謝って、囲まれた輪から抜け出たアレンが柊と星奈を見つけて「よぉ!」と片手を上げた。<br /> 大股でこちらの方へ歩いてくるアレンを、まだ諦めきれない女子たちが追いかけてくる。そんな彼女たちに、アレンは振り向くともう一度「ごめん」と言ったようだ。<br /><br />「よぉ、久しぶり」 <br /> そう上機嫌の笑顔でやってきたアレンに、星奈が噛みつく。<br />「なによ、あれ?」<br />「なんだよ、2か月ぶりだってのに愛想ないな。ま、色気もないけど、相変わらず」<br />「るっさいわね。そっちこそ、相変わらず減らず口じゃない」<br /> いつもの調子のふたりを見ながら、柊はアレンに訊いた。<br />「アレン、なんかサインみたいなのしてなかった?」<br />「してたよ」<br />「なんで、あんたがサインなんかするのよっ!」<br />「それは俺がスターだから」<br />「なにか、事件でも起こした?」<br />「そっちかよ」<br /> アレンは呆れたように笑うと、近くにいた女子学生に声を掛けた。<br />「ちょっと、キミの持ってるの貸してくれる?」<br /> 声を掛けられた女子学生は弾かれたように反応すると、顔を真っ赤にして持っていた雑誌をアレンに差し出した。<br />「ほら、これだよ」<br /><br /> それはファッションにこれといった興味がない柊でも知っている、コンサバ&カジュアル系のメンズ雑誌だった。<br /> そして驚いたことに、本当に驚いたことにその表紙を飾っている人物、水色のシャツの胸をはだけ髪をかき上げたポーズで決めているのは紛れもなくアレンだった。はだけたシャツから金色の胸毛が覗いていて、こうして改めてみると、友人なのが信じられないくらいセクシーでカッコいい。<br />「こ、これ…」<br /> さすがの星奈も驚いて、口をパクパクさせている。そんな星奈を面白そうに見ながら、アレンが事もなげに言う。<br />「ん?新しいアルバイト」<br /> 新しいバイトってこれか、と柊は思った。星奈は相変わらず、驚きすぎて言葉が継げないらしい。<br />「なんだよ、金魚みたいに眼ぇ剥いて、口パクパクして。面白い顔だな、星奈」<br />「え、えろタイガー…」<br />「だから、なに?」<br /> はぁっ、と星奈が大きく息を吸った。どうやら呼吸するのを忘れていたらしい、それは苦しかっただろう。<br />「な、なんでアンタが…」<br /> 星奈はやっとそれだけ言うと、お茶をごくごく飲みはじめた。 <br />「いい金になるんだよ、このバイト。取りあえず、年間契約した」<br />「凄い…」<br /> 柊も驚いて、雑誌とアレンの顔を見比べる。<br />「これから忙しくなるなぁ。来月は、海外撮影だし」<br /> そう呑気に言うアレンに、星奈がやっと正気を取り戻したように言う。<br />「か、海外って…あんた、大学はどうするの?」<br />「あれ、淋しいか?星奈、いままでみたいに俺に会えないと」<br />「ば、バカっ。そうじゃなくて、卒業はっ?」<br />「まぁ、できなかったらもう一年いればいいし。お前らもまだいるだろうし」<br />「そういうことじゃなくてっ」<br />「大丈夫だよ、学費はこのバイトで十分払えるし。おつり来るくらいだし」<br />「学費払えればいいってわけじゃないでしょっ。しょ、将来のこととか…」<br />「あ、それは大丈夫。このバイトのおかげで、タレント事務所とも契約できそうだし。そうなればモデルだけでなく、いろんな仕事が増えるらしいから」<br /> けろりと言い放つアレンに、柊は二の句が継げない。<br /> でも星奈は、焦りつつも必死で言う。<br />「それで、いいの?えろタイガー。お金のため?それともこれが、アンタのしたいことなの?」<br />「金は大事だろ」<br /> とうとう星奈が黙りこくった。<br />「なんだよ、友人のビッグチャンスを、喜んでくれないの?それ、悪友としてどうよ、お前ら」<br /> それが本当にビッグチャンスで、アレンが望むことなら、もちろん嬉しいと柊は思う。<br />「うん…まずは、やったな、アレン。おめでとう」<br /> そう言う柊に、アレンは嬉しそうに「サンキュー!」と言った。<br /><br />「あ、あのぉ…」<br />「ん?」<br /> 雑誌の持ち主だった女の子が、そうおずおずと声を掛けてくる。<br />「ああ、ごめんごめん。これ、キミのだったね」<br /> 雑誌を返そうとするアレンに、女の子が思い切ったように言った。<br />「サイン、もらえますか?」<br /> 気前よくサインを書くアレンを、星奈が複雑な表情で見ている。<br />「じゃ、俺行くわ。3限受けたら、またバイトだ」<br /> そう言って立ち上がったアレンに星奈が言う。<br />「ちゃんと、卒業しなさいよ」<br /> アレンが首を竦めてウインクすると、片手をあげて「じゃな」と去って行った。<br /><br /><br />「大丈夫だよ、星奈。アイツだって、子供じゃない。ちゃんと、考えてるって」<br />「子供じゃないけど、バカよ。いつだって考えが浅いのよ」<br /> 取り成す柊に、星奈は不機嫌そうに言った。よほど心配なんだな、と柊は思った。<br />「だけど、学費も生活費もアイツ、親に頼ってないらしいから」<br />「わかってる。だから、余計に…」<br /> 心配なのよ、という言葉を飲み込んだ星奈に、柊は温かなまなざしで同意した。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第7章 かけ違えるボタン〈ⅰ〉

「初めまして、仁科由紀子です。よろしくお願いします」 新しい事務員だと次長に紹介されたその女性は、小さな声でそう挨拶すると緊張した面持ちで頭を下げた。配属される教務課はもちろん学生課や総務課など、事務職員全員が揃っているせいか、身の置き所なさそうに小さくなっている。そのままそれ以上の自己紹介をする様子もない彼女をもう一度見た次長は、高橋に声を掛けた。「高橋君、よろしく頼む」「はい」 と高橋が落ち着... <span style="font-size:large;">「初めまして、仁科由紀子です。よろしくお願いします」<br /> 新しい事務員だと次長に紹介されたその女性は、小さな声でそう挨拶すると緊張した面持ちで頭を下げた。配属される教務課はもちろん学生課や総務課など、事務職員全員が揃っているせいか、身の置き所なさそうに小さくなっている。<br />そのままそれ以上の自己紹介をする様子もない彼女をもう一度見た次長は、高橋に声を掛けた。<br />「高橋君、よろしく頼む」<br />「はい」<br /> と高橋が落ち着いた声で頷いて、秋学期最初の朝礼は終わった。<br />  <br /> 自分の席について早速連絡メールの確認をしている灯里を、高橋が呼ぶ。<br /> 振り向いた灯里の斜め後ろに、高橋に伴われた由紀子がうつむき加減に立っていた。<br />「北川さん、仕事覚えるまで、仁科さんのサポートしてあげてくれるかな?」<br />「あ、はい」<br /> 椅子から立ち上がった灯里に、由紀子がぺこんと頭を下げた。<br />「北川灯里です。あたしもまだ入って半年なので、お互い支えあいましょ?よろしくお願いします」<br /> 年齢が近そうに見える同性にそう言われて、由紀子の表情からやっと緊張が消えた。<br />「よろしくお願いします」<br /> さっきより少し大きめの声になった由紀子を見て、高橋は言った。<br />「そうだ、まずキャンパスをざっと案内してくれるかな」<br />「そうですね。じゃ、仁科さん、行きましょ?」<br />「はい」<br /> <br /> 簡単なキャンパスマップを手に、灯里と由紀子は教務課を出た。<br />「最初に、この教務課がある事務棟を案内しますね。一番、関係がある場所だから」<br />「はい」<br /> 日本人形のように癖のない黒髪の由紀子が、こくんと頷いた。<br /> ふたりは教務課や学生課、総務課がある1階から、階段で2階のカフェテリアへ行った。<br />「ここはね、主に教職員が利用するカフェテリアなの。学生が利用できないわけじゃないけど、彼らには学食があるし、ここは価格的にもちょっと高めだから。あ、カフェのメニューを頼まなくても、お弁当を食べるのもここは自由です。それと、自分の机でお弁当を食べるのは、禁止されているから気をつけてくださいね」<br />「北川さんは、お弁当ですか?」<br />「たいだい、そうかな。仁科さんは?」<br />「私、今日は持ってきていないです。勝手がわからなかったから」<br />「そう。じゃあ、ここのお薦めは日替わりランチです。スパゲッティは…」<br /> ちょっと首を竦めた灯里の態度で、あまりおいしくないのだとわかったらしい由紀子は「はい」と頷く。<br /> 次に3階のキャリアサポート室や相談・支援センター、4階~7階の常勤研究室などを案内した。<br /> それから事務棟を出て、学食や図書館、大講堂、講義が行われる大小の教室がある棟、部室&サークル棟などを案内して回る。<br />「広いから、一度で覚えきれないかもしれないけど、だんだんわかってくると思いますから」<br /><br /> そうして大学院の共同研究室や実験室、ゼミ室、特別講義室などがある棟の説明をしているときだった。<br />「大学院の方々がいる棟なんですか?」<br /> それまで無口で表情の乏しかった由紀子が質問してきたので、灯里は一瞬あれ?と思った。<br />「ええ、そうですけど…。あたしたちは、あまりこの棟まで来ることはないから」<br />「そうですか」<br /> と笑った由紀子の右口元に、えくぼが浮かんだ。それだけで、ぱっと急に可愛らしく見えることに、灯里は驚いた。<br />仁科さん、もっと笑えばいいのに。そのほうが、ずっと可愛いのに。<br />そして灯里は、もう一つのことに気づかされた。<br /><br /> 仁科さんが笑うと、繭里に似ている…。<br /> 同じ右側に浮かんだえくぼがそう思わせたのだろうか、灯里は急に由紀子に年上らしい優しい親近感を覚えた。<br /><br /> キャンパス内を案内し終わり、教務課へ戻ると、高橋が「お疲れさま」と声を掛けてきた。由紀子の席は高橋の隣で、灯里の斜め前だ。<br /> 隣に座った由紀子に高橋が訊ねている。<br />「コンピュータ-は使えるよね?メールもそうだけど、ワードとか、エクセルとか…」<br />「あまり慣れてないですけど、ゆっくりなら」<br />「そう。じゃあ、教務課の基本的な仕事内容を説明するね。午後からは教職員への事務連絡一斉メールをいくつか頼もうかな?」<br /> 由紀子の顔が再び緊張してきて、大丈夫かなと灯里は心配になる。<br /> 頭の回転が速い高橋の説明を訊きながら、由紀子はぽかんとした表情のまま取りあえず頷いている。<br />「仁科さん、メモ取ると忘れないですよ」<br /> 思わず灯里がそうアドバイスすると、「あ」という表情になったから、おそらくこれまでの高橋の説明もピンときていないはずだ。<br /> 由紀子が慌てて、メモできる紙とペンを探して自分の机の引き出しを開ける。デスクサイドの引き出しの中にペンを見つけたらしい由紀子に、灯里は予備に持っていた使い勝手のいいサイズのメモ帳を渡した。<br />「ありがとうございます」<br /> 由紀子がお礼を言って、それを受け取る。<br /> 高橋の説明が再開したが、メモを取る速度に合わせざるを得ないので、さっきよりゆっくりになった。このスピードならついていけるだろうと、灯里は再び自分の仕事に戻った。<br /><br />「さっきは、ありがとうございました」<br /> そう頭を下げる由紀子と、灯里はカフェテリアにいた。<br /> 由紀子は今日の日替わりのチキンのハーブグリル定食、灯里はいつも通りお弁当を広げていた。<br />「仁科さんは、ここの前はどこに勤めていたんですか?」<br /> そう訊く灯里に、由紀子はちょっと顔を赤らめながら答える。<br />「大学を卒業してから、ずっと家事手伝いっていうか…。就職はしていなかったんです」<br />「え、じゃ、これが初めてのお勤め?」<br />「はい」<br /> どこかおっとりと育ちがよさそうな由紀子は、もしかしたら働く必要などないお嬢様なのかもしれないと灯里は思った。<br />「じゃあ、いろいろ慣れないかもしれないけど、みんな良い方ばかりだからあまり緊張しないでね」<br />「はい」<br /> 由紀子はほっとしたように笑って、またえくぼをつくった。<br /><br /> <br /> そして。<br /> その日の業務終了後、まだ残業のない由紀子はロッカーからビニールの傘を取り出した。<br /> 快晴の今朝、人目を気にしながらも持ってきたものだ。満員電車に押し込められ、朝から疲れ果てた通勤・通学客は、晴れた日にビニール傘を大事そうに持った他人のことなど気にも留めない。僅かにホームで賑やかな声をあげて話す女子高生らしき数人が、ちょっと好奇の眼を向けてきたくらいだ。<br />「会えるかな」<br /> そう呟いた由紀子の眼が、期待にキラキラと輝いていた。</span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第6章 遠 雷〈ⅸ〉

 宿は、浜名湖に面する温泉街のホテルだった。 部屋に入ると早速、浴衣に着替え、須藤と灯里はまず温泉を楽しむことにした。この宿の露天風呂からは浜名湖が一望できるらしく、時刻もちょうど夕暮れどきで旅情あふれる風景に期待が膨らむ。 浜松の市の花「ミカンの白い花」と、浜名湖と遠州灘の白波をイメージしたというオリジナル柄の浴衣は可愛らしく、揃ってそれに袖を通し、須藤と灯里はウキウキしながら温泉に向かう。 朝... <span style="font-size:large;"> 宿は、浜名湖に面する温泉街のホテルだった。<br /> 部屋に入ると早速、浴衣に着替え、須藤と灯里はまず温泉を楽しむことにした。この宿の露天風呂からは浜名湖が一望できるらしく、時刻もちょうど夕暮れどきで旅情あふれる風景に期待が膨らむ。<br /> 浜松の市の花「ミカンの白い花」と、浜名湖と遠州灘の白波をイメージしたというオリジナル柄の浴衣は可愛らしく、揃ってそれに袖を通し、須藤と灯里はウキウキしながら温泉に向かう。<br /> 朝夕とで男女が入れ替わるシステムの浴室は、入口に朱色と紺色の暖簾が掲げられていて、灯里たちは朱色の暖簾の方に入る。<br /> 脱衣所はホテルらしく近代的できれいで明るい。浴場内は黒い石とヒノキが効果的に使われていて、日替わりのハーブバスやジェットバスまであって温浴施設のようだ。<br /> 泉質はナトリウム、カルシウム、塩化物強塩温泉と記してある。<br />「昨年、改装したらしいの。こんなに近代的になってるなんて、思わなかった」<br />「なんだか、昔の宿の温泉とは違いますね」<br /> でも軽く体を流してから入った湯は程よい温度で、一気に心と躰がほどけていく。<br />「露天風呂、行こっ?」<br /> 少しはしゃぎ気味の須藤に促されて、開放感いっぱいの空間に移動した。<br /> 夕刻の色に染まる静かな浜名湖の湖面を眺め、ぽつぽつと控え目に灯りはじめた対岸の明かりを数えていると、やわらかな幸福に包まれる。ああ、なんだかこの感じ久しぶりで、ずっと忘れていたような気が灯里はした。<br />「どう?来てよかったかな?」<br /> 須藤が灯里の顔を窺うように訊く。<br />「もちろんです。とても楽しいし、いまはすごく癒されてます」<br /> 灯里がそう笑うと、須藤も嬉しそうに笑った。<br />「よかった!そう言ってもらえると、誘った甲斐があったなぁ」<br /><br /> 夕食は大食堂だったので、須藤と灯里はまた洋服に着替え軽く化粧をしたが、男性たちは揃って浴衣姿だった。<br />「温泉は入ったの?」<br /> 洋服姿の灯里たちに高橋が訊いた。<br />「入ったわよ。露天風呂からの夕景が凄くよかったわぁ。ね、北川さん」<br /> テーブルには人数分の料理がすでに並べられていて、5人が席に着くと飲み物のオーダーを制服姿の女性が取りに来た。<br /> 最初は瓶ビールを頼んで全員で乾杯、それが済むと同じ女性スタッフがそれぞれの一人用コンロに火を点けてくれた。女性スタッフの説明によると、地元のブランド牛のすき焼きらしい。<br /> そのほかに冷やし鉢や刺身、煮物、天麩羅、うなぎの櫃まぶしなどが並んでいる。<br />「まあ、提携施設だから部屋食じゃないけど、味は結構いいらしいわよ」<br /> そう須藤が言って、早くも空になった高橋のコップにビールを注ぐ。灯里も近藤と中田に、ビールを注いだ。<br /> 賑やかな大食堂での食事は意外に楽しく、灯里は部屋食よりも緊張しなくて済んだ。<br /> 一番おしゃべりなのはやはり須藤で、その相手はもっぱら高橋で、近藤と中田は相変わらず無口だ。このメンバーで飽きずに4年も旅行してきたんだなぁ、灯里は少し可笑しくなった。<br /><br />「ところで、秋学期から教務課に新しい人が入るらしいわよ」<br /> 須藤がそういうと、高橋も言う。<br />「まぁ、島津さんの替わりが必要だから。なんでも24歳の女性らしいよ」<br />「あらっ、じゃあ最年少じゃないの」<br /> 軽く驚いた声を上げた須藤に、近藤が言う。<br />「よく、すぐに決まったね」<br />「24歳て、次長情報?」<br /> と中田の表情が少し変わった。<br />「あらっ。中田さん、気になるの?やっぱり男の人は若い方がいいのね」<br /> そうおどけて睨む須藤に、中田がちょっと顔を赤くしながら言う。<br />「いやいや、そんなことないよ」<br />「北川さんは、早くも先輩になるんだね。北川さんはまだ半年なのに、飲み込みが早くて仕事の手際がいいから、面倒を見てあげてね」<br /> そう高橋に優しく言われて、灯里は「はい」と頷いた。<br /><br /> ビールの後は、高橋と須藤が芋焼酎、近藤はハイボール、中田は日本酒を注文している。皆、意外に酒豪揃いのようだ。灯里は静岡県らしいお茶割りというのを頼んでみたが、さっぱりと飲みやすくおいしかった。<br /> 食事の後は、恒例のカラオケだと言う。カラオケの雰囲気もあまり好きではない灯里は、何とか逃れようと試みたが、強引な須藤が許してくれなかった。<br /> 無理やり1曲歌わされた後は、他の4人が酒量も進み、かなり盛り上がってきたので、タイミングを見計らって「温泉へ行く」と逃げた。<br /> 漆黒の闇の中で、月明かりを受けて輝く浜名湖の静かな湖面を眺めていると、時空間を忘れてしまいそうだ。うなじにはらりと落ちた一筋の髪を、手櫛でもう一度まとめ上げ直すと、灯里は露天風呂を後にした。<br /> 部屋に戻ると、須藤が帰っていた。<br />「あら、お帰りなさい。温泉、今度はゆっくり入れた?」<br />「はい、人も少なくて。夜の湖も幻想的で綺麗でした」<br />「私も入りたいところだけど、結構飲んだからなぁ」<br /> そう言う須藤を、灯里は慌てて止めた。<br />「危ないから、止めておいた方がいいです」<br />「そうね、明日の朝、早く起きて入ろっと」<br /> そう言ったくせに、須藤はまだ缶ビールを飲んでいる。<br />「冷蔵庫に何缶か冷えてるから、北川さんもお風呂上がりにどう?」<br />「あたしは、もう。でも、皆さんが強いのには驚きました」<br />「そうねぇ、私たちの旅行はこうしてお酒飲んで、カラオケできるから続いてるってのもあるかもね。そうそう、高橋さんたらね…」<br /> それからひとしきり須藤は、灯里に高橋の噂話を訊かせる。酔いのせいもあって、もう須藤の胸の内はバレバレだ。<br /> 高橋の気持ちはどうなのだろう。想う者同士が皆、引き寄せられるように気持ちが通じ合えたらいいのに、と灯里は思った。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 翌朝は、生憎の小雨だった。<br /> 早く起きて温泉に入るといった須藤は、飲みすぎたせいでまだ布団の中で、温泉は断念したらしい。それでも朝食の時間には、割にすっきりした顔でテーブルに着いたから、灯里は恐れ入った。<br /> 男性たちも二日酔いなど無縁の顔で、朝食のバイキングを食べている。<br />「皆さん、本当にお酒が強いんですね」<br /> 灯里は思わずそう言ってしまった。<br />「まあ、いつもこうだから。それより北川さんて、雨女?」<br />「え?違うと思いますけど」<br /> 須藤に訊かれて灯里は戸惑った。あまり意識したことはないが、雨女だとは思ってこなかった。<br />「須藤さん、いきなり失礼だろ、それ」<br /> 近藤が苦笑しながら、たしなめる。<br />「あ、ごめんね。いままでこのメンバーで、雨が降った記憶があまりなかったから。そうだよね、失礼だったよね。ごめんね」<br /> 慌てて謝る須藤に、灯里は笑った。<br />「そんな。いいんです。自分でも気づいていなかっただけかもしれませんから」<br /> すると、高橋が言った。<br />「俺だよ。俺、実は小雨男」<br />「小雨男ぉ~?なに、その中途半端な感じ」<br /> 須藤がそう言って破顔する。<br />「でも、いままで雨、降らなかったけどな?」<br /> と中田が言うと、高橋は可笑しそうに言う。<br />「それはさ、俺の小雨な運命を、須藤さんと島津さんの強力な晴れ女たちが救ってくれたからだよ」<br />「ああ、そうか」<br /> 近藤の言葉に中田が納得して、また大笑いとなった。<br /><br /> 雨は昼過ぎから、小雨から本格的な降りとなったので、予定より早めに帰路に就くことになった。<br />いまはまだ遠くに見える真っ黒な雷雲が、少しずつ迫ってくるのが不気味な感じがした。<br />帰りは、近藤が運転する車に中田と灯里が乗ることになった。高橋と須藤をふたりにしてあげたくて灯里がそう提案すると、すかさず須藤が乗ってきたからだ。<br /> 途中、あらかじめ申し合わせていたパーキングエリアで休憩を取った。トイレに向かう灯里に、高橋が背後から声を掛けてきた。<br />「北川さん」<br />「?」<br /> 振り向いた灯里に、高橋が小走りに近寄る。<br />「あの…」<br />「はい…」<br /> 背の高い高橋を見上げるように見た灯里に、その人は全く予想もしていなかったことを言った。<br />「写真のモデルになってくれないか?」</span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第6章 遠 雷〈ⅷ〉

 お盆が開けて、夏休みも残り少なくなった8月の後半、灯里は代理で誘われた旅行で浜松に来ていた。 メンツは男性が学生課の近藤と中田、教務課の高橋、女性が学生課の須藤と教務課の灯里だ。 高橋の運転する車に須藤と灯里が乗り、近藤と中田はもう一台で、東京を朝早めに出たおかげで昼前には浜名湖に到着した。 昼は須藤お薦めのうなぎ専門店があるというので、揃ってその店の2階座敷に落ち着いた。 近藤と中田、須藤が同期... <span style="font-size:large;"> お盆が開けて、夏休みも残り少なくなった8月の後半、灯里は代理で誘われた旅行で浜松に来ていた。<br /> メンツは男性が学生課の近藤と中田、教務課の高橋、女性が学生課の須藤と教務課の灯里だ。<br /> 高橋の運転する車に須藤と灯里が乗り、近藤と中田はもう一台で、東京を朝早めに出たおかげで昼前には浜名湖に到着した。<br /> 昼は須藤お薦めのうなぎ専門店があるというので、揃ってその店の2階座敷に落ち着いた。<br /><br /> 近藤と中田、須藤が同期の29歳、高橋は2つ上の31歳だということを、灯里はこの旅行で初めて知った。デキ婚とご主人の転勤のために寿退社した島津も含め、毎年のように夏休みには揃って旅行するようになってもう4年だと言う。<br />「なんでこんなに続いたと思う?」<br /> と須藤がお茶をすすりながら茶目っ気たっぷりの表情で、灯里に訊く。<br />「さぁ…」<br /> 本当にわからない灯里に、高橋が言う。<br />「全員が独身で、このメンバーの中で恋愛関係が成立する気配もなかったからさ」<br />「え…」<br /> なんとリアクションしていいか戸惑う灯里に、須藤がさばさばした様子で言う。<br />「まぁね、私も島津さんも男っぽいタイプだし、男性陣はみんな真面目なタイプでしょ?サークル活動みたいな旅行で、ちっとも色っぽい雰囲気にならないのよ」<br />「だけど、あの島津さんがデキ婚するとは思わなかったよ」<br /> 眼鏡をかけ、いかにも実務的な雰囲気が漂う近藤がそう言うと、大人しそうで痩せ型の中田も頷く。<br />「そうそう、去年の夏の旅行のときだって、つき合ってる人の話なんか出なかったしな」<br />「あの旅行の後すぐに、大学の先輩だった人と再会したんだって」<br /> とショートカットで元気いっぱいの須藤が、得意そうに情報を漏らす。<br />「なんだか、僕らの旅行もこれが最後になるかもしれないなぁ」<br /> と中田が言うと、筋肉質で背の高い高橋が笑った。<br />「何言ってるんだ。せっかく北川さんという、新メンバーが加わってくれたというのに」<br />「でも、北川さんはモテそうだから。彼氏とか、いるんでしょ?」<br /> 率直な須藤の問いに、灯里がまごつく。柊との関係は、間違っても知られてはならない気がした。<br /><br />「須藤さん、いきなりそんな身元調査みたいなこと。ごめんね、北川さん」<br /> そう庇ってくれる高橋に、須藤がけろりとした表情で返す。<br />「あら。みんな気になってるかなって思って、訊いたげたのに」<br />「みんなって…」<br /> そう言う高橋が近藤と中田を見て、3人がなんだか微妙な表情になるので、灯里は参加したことを早くも後悔していた。<br />「北川さんは、僕たちなんか。ねえ?」<br /> と言う中田に、須藤が「えぇぇ~っ」と大げさに驚いて見せる。<br />「止めようよ、北川さん困ってるし。これから参加してくれなくなったら、困るし」<br /> そう近藤は言ったが、灯里は次はどうやって断ろうかと考えはじめる始末だ。<br /> <br /> 須藤お薦めのうなぎ専門店のうな重は確かにおいしく、ふっくらとした身と甘辛のたれが絶妙だった。それぞれ大満足で食べ終えると、ホテルのチェックインの15時まではまだちょっと間があるので、浜名湖周辺を軽く観光しようという話になった。<br />「弁天島の海浜公園に行きましょうよ」<br />「ああ、あの赤鳥居で有名な?」<br />「夕陽の名所らしいから、いい写真が撮れそうじゃない?」<br />「でも、夕陽が沈むのはまだだいぶ先だな」<br /> 須藤と高橋がそんな会話をしている。高橋は写真が趣味らしく、この旅行でも本格的な一眼レフのデジカメを持参してきていた。<br /><br /> 車を海浜公園のパーキングに入れ、ヤシの木が並ぶ遊歩道を歩く。波は比較的穏やかで、かの大きな赤鳥居がシンボルらしく威風堂々とそびえ立ち、遠くに浜名大橋が見渡せる。<br />「うわぁ~、壮観な眺め~!暑いけど、気持ちいい~」<br /> 須藤が大きく伸びをしながら、開放的な空間での自由を満喫するようにそう言った。<br /> さっそく高橋がカメラを構えていて、須藤がそれに近づくと言った。<br />「そうだ。せっかくだからこの絶景を背景に、美女2人を撮ってよ。いつも高橋さんて、風景ばっかりじゃない?」<br /> そう須藤に言われて、高橋が構えたカメラを外してこちらを見た。<br />「風景ばかりって…旅行のときはみんなも撮ってるじゃないか。でも、美女2人はぜひ撮らせてもらいたいね」<br />「やった。ほら、北川さん、こっち」<br /> 須藤にそう言われて仕方なく隣に並んだけれど、灯里は写真を撮られるのが実は苦手だ。<br />「あ、あの、皆さんも一緒に」<br />「やぁね、まずは美女二人のショット。全員で撮るのはその次よ」<br /> 灯里の腕を取って満面の笑みを浮かべた須藤と、ぎこちない笑顔をつくって灯里は写真に納まった。<br /> 全員での写真も撮り終えて、またカメラを片手に歩く高橋の後ろ姿を見ながら、本当に写真が好きなのだなと灯里は思った。その高橋と並んで、須藤がファインダーの先の風景を肉眼で見ている。ここに来る車の中でなんとなく気づいていたのだが、須藤は高橋のことが好きなのだと思う。それがいまは確信に変わっていて、何が恋愛関係が成立する気配がないだ、と灯里は苦笑した。<br /> そしてそんなふたりの邪魔をしないように、いまは近藤や中田と並んで少し後ろを歩いている。<br />「ほら、あそこに見えるのが今切口と言うんだよ」<br /> と近藤が遠州灘と浜名湖を繋ぐ狭い場所を指した。<br />「湖なのに、海と繋がっているんですね」<br /> そんな湖を見たのは初めての灯里がちょっと感動しながら言うと、中田も続ける。<br />「汽水湖と言ってね、海水と淡水が混ざり合っている湖で、ほかにも北海道のサロマ湖とか島根県の宍道湖とかがそうだね」<br />「詳しいんですね」<br />「いやぁ、旅行と旅先の情報をいろいろ調べるのが趣味なだけさ」<br />「中田は、こう見えても日本だけでなく海外もいろいろ旅してるんだよ」<br /> そう言う近藤に中田が、頭を掻く。<br />「趣味がそれくらいでね。だからといって高橋さんみたいに本格的に写真を撮るわけでもなく、いつも小型のデジカメ」<br />「近藤さんの趣味は?」<br /> そう訊く灯里に、近藤が照れくさそうに目を細めた。<br />「僕の趣味は、温泉巡りとスケッチ」<br /> そう言うと近藤は、ウエストポーチから小さなスケッチブックと鉛筆を出して見せた。<br />「ふたりとも地味な趣味でしょ?」<br />「そんなことないです」<br /> 灯里はそう言って、近藤にスケッチを見せてもらえるかと訊ねた。<br /> 近藤が渡してくれたスケッチブックには、鉛筆で繊細な風景画が描かれていて、情緒豊かなそれは意外なほど上手だった。<br />「素敵です」<br /> 素直にそう褒める灯里に近藤は嬉しそうで、それを見る中田も親しげに微笑んでいる。<br /> 意外に楽しい旅行になりそうだ、と灯里は思った。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第6章 遠 雷〈ⅶ〉

 東京へ帰る日の朝、柊は早めに家を出て駅へ向かった。 駅から長期療養病院行のバスに乗る。その日は土曜で、週末は午前10時から面会ができることを電話して確かめておいた。 地元ではよく知られた療養病院だったが、柊はそこを訪ねるのはおろかそこへ向かう路線のバスに乗るのも初めてだった。 誰にも告げずに、その療養病院へリツを見舞おうと決めたのは、偶然に繭里と会った日だった。「あたしは幸せにならなければいけない... <span style="font-size:large;"> 東京へ帰る日の朝、柊は早めに家を出て駅へ向かった。<br /> 駅から長期療養病院行のバスに乗る。その日は土曜で、週末は午前10時から面会ができることを電話して確かめておいた。<br /> 地元ではよく知られた療養病院だったが、柊はそこを訪ねるのはおろかそこへ向かう路線のバスに乗るのも初めてだった。<br /> 誰にも告げずに、その療養病院へリツを見舞おうと決めたのは、偶然に繭里と会った日だった。<br /><br />「あたしは幸せにならなければいけないの。みんなのために、幸せでいなければいけないの」<br /> <br /> そう言った繭里の顔を思い浮かべながら、わずかに6人しか乗っていないバスの車窓から初めて見る風景を眺めた。市街を抜けると、すぐに夏の濃い緑が眼に飛び込んできて、その領域はどんどん広がり続ける。民家の間隔がかなり疎らになった頃、古びたスーパーマーケットの少し先でバスは止まった。<br /> そこでバスを降り、陽射しを遮る木陰すらない埃っぽい街道を10分ほど歩くと目的の療養病院が見えた。<br /> 玄関でスリッパに履き替え、消毒液を両手に取り擦り合わせる。受付に置かれた名簿に自身の名前と訪問する入院患者の名前を書くと、女性職員がマスクを手渡してくれた。入院患者は免疫力が低下しているため、外部からのウイルスや刺激に弱い。それらから守るためのマスクと消毒だと、受付に明記してあった。<br />「北川リツさんの病室はどこでしょうか?僕、初めてなもので」<br /> 柊がそう訊ねると、女性職員は3階の308号室だと教えてくれた。<br /> エレベーターを廊下の先に示す表示があったが、3階なら階段で十分だと柊はすぐ右手に見えた階段を昇った。<br /> 各階の廊下に病室や医局、非常口などを記したプレートがあり、初めてでも迷わないようになっている。<br /> 通りかかる看護師や介護士に挨拶しながら、柊は308号室に着いた。<br /> 4人部屋の病室は、どのベッドもカーテンが開放されていたが、皆一様に寝たきりの状態だ。病室には患者の様子を見に来たらしい看護師が一人いて、「ご苦労様です」と柊に声を掛けてくれた。<br />「あの、北川リツさんは?」<br /> そう訊ねる柊に、看護師は優しい笑顔で「右奥です」と指し示してくれた。<br /> <br /> 示されるままに近づいた柊は、リツの姿を見てギョッとした。覚悟はしていたものの、これほどまでの変わりようは想像していなかった。<br /> これは、見舞う側も辛い、と柊は思った。<br /> それほどまでに、柊が知っているかつてのリツの姿とはかけ離れていたのだ。6年の歳月はリツを枯れ枝のように細く硬く、皺だらけにしていた。<br />「カーテンを閉めますか?」<br /> ふいに、後ろから声を掛けられて柊はちょっと驚いた。<br />「あ、いえ。そのままで」<br />「ご家族の方…ではないのかしら?」<br /> 50代と思しき看護師がそう訊ねた。<br />「いえ、北川さんの近所に住むものです。初めて来ました」<br />「そうですか。じゃあ、いつもいらっしゃるお孫さんともお知り合い?」<br /> いつもいらっしゃるお孫さん? <br />灯里か?そうだ、灯里意外にはいない。繭里は昨日「あまりお見舞いに行けなくて」と言っていたのだから。<br /> 柊は寸でのところで驚きを隠して、看護師に訊いた。<br />「幼なじみです。あの、彼女は、灯里さんはよく見舞いに来るんですか?」<br /> 幼なじみと訊いて、にっこりと微笑んだ看護師は言った。<br />「ええ。ほんとに偉いお嬢さんだわ。毎月のように東京から、リツさんが入院して以来ずっと通い続けているんですもの。ご家族でもなかなかできないことなんですよ」<br />「そうですか」<br /> 看護師は「ごゆっくり」と会釈をすると、病室を出て言った。<br /><br /> 知らなかった。灯里が毎月のように、ここへ来ていたなんて。<br /> こんな風になってしまった母代りのお祖母様の姿を、キミはどんな思いで見てきたんだ、6年間も。辛くないはずはない、苦しくないはずはない。<br /> <br /> 柊は灯里の心情を思うと、心臓が痛いほどに苦しくなった。同時に仕方のないこととはいえ、後悔に苛まれる。<br /> <br /> 僕は何も知らなかった。気づきもしなかった、キミのその思いに。灯里、僕にできることはあるだろうか?<br /> <br /> 意識なく眠っているかのようなリツは、それでも時折苦しそうにぜいぜいと息をし、意味をなさない小さな叫びを漏らす。<br /> 以前の毅然とした姿とはかけ離れたいまのリツに、柊は心の中で語りかけた。<br /><br /> 僕は、灯里さんに幸せになってほしいんです。そのために僕ができることがあれば、なんでもします。<br />料亭は、いまは繭里さんが継いでいることをご存知ですか?勝哉さんと結婚したのが、お祖母様の意思とは違う繭里さんだったことも。彼女は、繭里さんは繭里さんなりにとても頑張っています。<br /> こんなこと部外者の僕が願うことではないかもしれませんが、もし灯里さんがお祖母様の意思に背いたとお思いなら、彼女を許してあげてくれませんか?灯里さんは、僕には話してくれないけれど、何かに苦しんでいます、ずっと苦しみ続けています。それだけは、僕にもわかるんです。<br /> どうか、灯里さんを苦しみから解放してあげてください。お願いします。<br /> お祖母様にとっても可愛い孫のはずの灯里さんを、守ってください。そして僕に、彼女のためにどんなことでもすることを許してください。<br /><br /> 灯里さんは…灯里は幸せにならなければならないんだ、彼女自身のために。<br /><br /> 病室を出た柊に、さっきの看護士が「ご苦労様です」と再び声を掛けてくれた。<br />「あの…」<br /> 看護師に近寄って柊は言った。<br />「?」<br /> 目顔で看護師が訪ねてくる。<br />「灯里さんに、お孫さんに、僕が来たことは黙っていてくれませんか」<br />「どうして…ですか?」<br />「いや、6年間も見舞いに来なかったわけですし。なんだか申し訳なく、恥ずかしいので」<br /> 看護師はにっこり微笑むと言った。<br />「そんなこと。むしろありがたいと思うはずですよ、あのお嬢さんなら。でも、そういうお気持ちなら、私がでしゃばることではありませんから」<br /> ありがとうございますと、丁寧に頭を下げて柊は病室を後にした。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第6章 遠 雷〈ⅵ〉

 両親とお墓参りに行き、昼食に冷やし中華を食べた後、あまりの暑さに柊は市民プールにでも行こうと思い立った。「お母さん、プール行ってくる」 海水パンツとバスタオルと、濡れたそれらを入れる大きめのビニールをバックパックに収め、Tシャツに膝丈の短パン、ビーチサンダルの軽装で柊は家を出た。 図書館と市民体育館の隣にある市民プールに着くと、生憎のお盆休みで休館だった。「そうか、忘れてた。失敗したな」 せっか... <span style="font-size:large;"> 両親とお墓参りに行き、昼食に冷やし中華を食べた後、あまりの暑さに柊は市民プールにでも行こうと思い立った。<br />「お母さん、プール行ってくる」<br /> 海水パンツとバスタオルと、濡れたそれらを入れる大きめのビニールをバックパックに収め、Tシャツに膝丈の短パン、ビーチサンダルの軽装で柊は家を出た。<br /> 図書館と市民体育館の隣にある市民プールに着くと、生憎のお盆休みで休館だった。<br />「そうか、忘れてた。失敗したな」<br /> せっかくだから城址公園でも散歩しようかと思ったが、痛いほどに照りつける容赦ない夏の太陽と痺れるほどに耳に響く蝉の声に、やめておこうと諦めた。<br /> こんな軽装だから、カフェに入るのも気が引ける。しょうがないので柊は、駅前のファーストフード店でアイスコーヒーをテイクアウトすると、それを飲みながら家へ帰ることにした。朝のジョギング後、シャワーを浴びたというのに、もうすっかり汗だくだ。<br /><br /> 駅前から市役所通りに入り帰る道すがら、柊は日傘を差した着物姿の女性が前を歩いているのに気がついた。オフホワイトの地にグリーンの濃淡がグラデーションを描く縞柄の着物、帯は黒地できりりとメリハリをつけているが、帯柄はトンボで大人かわいい印象だ。着物姿というだけでも昨今めずらしいのに若い女性らしく、どこの良家のお嬢さんだろうと柊は思った。<br /> そろりと品良く歩く女性に、短パンで軽装の柊はすぐに追いつく形になった。そしてその周りだけ涼感が漂っているような女性を大股で追い越しがてら、ふと横顔を覗き込んで柊は驚いた。<br />「え、繭里?」<br /> そう呼ばれた女性の方も立ち止まって、いま追い越されたばかりの相手をまじまじと見る。<br />「柊ちゃん?」<br /> そう言った途端に繭里は、ふっと笑った。<br />「やだ、その恰好、小学生みたい」<br /> 繭里に笑われて、柊はあらためて自分の服装のいい加減さと、繭里の驚くばかりの夏の清涼な装いを見比べ恥じ入った。<br />「いや、夏休みだから。にしても、繭里は…見違えたよ」<br />「そう?」<br /> 嬉しそうに繭里はそう言って、自分の着物姿をまんざらでもない様子で確かめた。<br />「でも、久しぶりね。柊ちゃん、えっと…変わらないね」<br /> まだ可笑しそうに繭里がそう言うので、柊は照れながらも言った。<br />「あんまり暑いから市民プールに行こうと思ったんだけど、お盆休みで休館だったよ」<br />「やぁだ。柊ちゃんたら頭いいのに、抜けてることがあるのは相変わらずね。確かめてから行けばよかったのに」<br /> 幼い頃から知っている繭里に、抜けているところがあるなんて思われていることを柊は知らなかった。もしかしたら、灯里もそう思っているのだろうか。<br />「抜けてるって、そうだっけ?」<br /> くす、と繭里は笑って答えないが、その仕草もこれまで知っている繭里にはない色っぽさだ。<br /><br />「繭里は、もう立派な『北賀楼』の若女将だね」<br />「やあね、料亭でお客様を迎えるときは、こんな洒落着は着ないわ。今日は、気晴らしに街へ出掛けたから…」<br /> 繭里の言う着物のTPOの違いなどわからない柊は、それでももしかしたらこの姿は灯里だったかもしれないと思い、急に胸が苦しくなった。<br /> 着物姿の清楚で美しい灯里の姿は容易に想像できて、甘い痛みに襲われる。この凛と乱れのない姿をもしかしたら灯里は望んでいたかもしれないのに、いまは僕の隣でしどけなく快楽に溺れている。<br /> ああ、灯里は幸せなんだろうか。僕は灯里に何もしてやれないどころか、堕落させているだけじゃないのか?離れていても、せつなく灯里のことばかり考えてしまう自分は、相当重症だと思う。<br /><br />「でも、ほんと久しぶり。柊ちゃんが大学に入って東京に行ってから、どんどん会う機会はなくなっちゃって。そうだ、暑いからどこか涼しいところでお茶でも飲む?」<br /> 繭里が、袂から取り出したハンカチで額をそっと抑えた。<br />「いや、僕、この格好だから」<br /> 短パンにビーチサンダル姿の自分と、優雅に麻の着物を着こなした繭里ではさすがにあまりにも釣り合わない。<br />「そう、じゃあ、また今度。夏休みだから、まだいるんでしょ?」<br />「いや、それが。今回はお盆の1週間だけ。東京に帰ったら、すぐに筑波の研究所へ泊まり込み実験に行くんだ。産学協同プロジェクトっていうのに参加しているから」<br />「なんだ、残念」<br /> 繭里はそれほど残念そうでもなく、そう言って笑った。<br /><br /> 繭里と再び並んで、帰り道を歩く。容赦なく照りつける午後の陽射しに、アスファルトから立ち上る熱気が見えるようで、今年も猛暑だなと柊は思った。<br />「ねえ、柊ちゃん、東京は楽しい?」<br /> 突然、繭里がそんなことを訊く。<br />「うーん、どうかな。人も車も多くて、いろんなことのスピードが速いよ。どうして?」<br />「なんとなく。あたしは故郷(ここ)から出たことがないから」<br /> 繭里のうなじにうっすら汗が浮かんで、頬が少し火照って見える。<br />「出てみたいの?」<br /> そう訊いた柊に、意外にも繭里はきっぱりと言った。<br />「ううん、あたしの居場所は此処だと思うから。ただ…」<br />「ただ?」<br /> 繭里が柊を見上げて、言葉をつないだ。<br />「どうして、みんな、東京へ行きたがるのかなって思って」<br /> みんな? そう言えば東京へ進学した同級生は、地元で就職するよりそのまま東京に残っている方が多いかもしれない。しかし繭里が言ったみんなは、案に灯里を指しているような気が柊はした。<br /><br /> 遠くで、小さく雷鳴がする。<br />「夕立になるかもしれないわね」<br />「うん、ひと雨来たら、少しは涼しくなるよ」<br />「そうだ、明日は灯篭流しよ」<br /> 繭里が思い出したように言う。<br /> <br /> 『北賀楼』と柊の家から歩いて10分ほどのところに情趣ある二級河川があり、毎年お盆の頃には灯篭流しが行われるのだ。<br /> 灯篭流しの夜は『北賀楼』が予約客でいっぱいになり大人たちはみな忙しいため、子供だった灯里と繭里は柊たち家族と揃って出掛けたものだ。<br /> 遠くの街灯りだけが頼りの薄暗い河岸にたくさんの人が集まってきていて、灯篭が流れてくるのをいまかいまかと待っている。彼方にぽつんと小さな灯りが見えると、「見えた」「はじまった」という声が暗闇のあちこちから上がる。<br /> やがて小さな一つの灯りはだんだんと大きくなって、その後に連なって追い越し、追い抜かれながら灯篭の儚げに揺らめく灯りがふえていく。<br /> 幼いながらもその美しくもの悲しい、荘厳な光景になにか侵しがたい神聖さを感じたものだ。<br />「繭里は、見に行けるの?」<br /> 料亭があるから無理だろうと思いながら柊は訊いたが、やはり繭里は首を振った。<br /><br /> 少しずつ少しずつ、でも確実に子供の頃とは、違っていくのだ。灯里と繭里と柊の関係も、そして何もかもいろんなことが。その中で変わらないものは、どれだけあるのだろう。変わらないもの、変わらぬ大切な想い。<br /><br />「そう言えば、お祖母様はまだ?」<br /> 突然そんなことを訊いた自分に柊自身が驚いていたが、繭里はもっと驚いた顔をした。<br />「…相変わらず、入院しているけど…」<br /> 繭里の顔が少し曇る。<br />「そう、郊外のあの療養病院だっけ?」<br />「うん。でもあまりね、お見舞いに行けてないの」<br /> 祖母をどちらかと言えば苦手だった繭里は、そう申し訳なさそうに言った。<br />「忙しいものね、若女将だし。でも、繭里が頑張っているのを知ったら喜ぶよ」<br /> 急に元気がなくなった繭里に、柊はそう言わずにはいられなかった。<br />「ありがと、柊ちゃん。相変わらず優しいね」<br /> 繭里がそう言って、少し淋しげに笑う。だから柊は、思わず訊いてしまった。<br />「繭里は…繭里はいま、幸せ?」<br /> 一瞬、子供の頃のようなきょとんとした表情で柊を見上げた繭里は、やがてふわりと大人の表情を纏うと言った。<br />「うん。柊ちゃん、あたしは幸せにならなければいけないの。みんなのために、幸せでいなければならないのよ」<br /><br /> みんなのために? 幸せでいなければいけない?<br /><br /> 繭里の覚悟めいた言い方が気になったが、柊は気づかないふりを装って言った。<br />「そうか、それなら良かった」<br /></span><br /><span style="color:#00CC99">今日の小説に、夏の着物のシーンがあります。<br />これはブログを通じて仲良くさせていただいているお着物の先生に、いろいろ教えていただいたものです。<br />ちょうどお忙しい時期だったのにも関わらず、何度も相談に乗ってくださり、イメージに合う画像まで探してくださいました。<br />ワンシーンですが、とても気に入った表現ができてうれしくてたまりません。<br />〈キモノ♪kimono♪着物〉の陽月さま、ありがとうございましたm(__)m</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第6章 遠 雷〈ⅴ〉

「お義母さん、これもう入れてもいいですか?」「いいわよ、咲さん。こっち、ちょっと味見してみて」 母と義姉の咲が、台所で並んで夕食をつくっている。その後ろ姿を、気にしないように見せながら気にしている兄の奏が微笑ましいと柊は思った。 夏休みに入って、ちょうどお盆に当たるこの時期、柊は1週間だけの予定で帰省していた。この後は東京へいったん戻り、すぐに筑波研究所での泊まり込み実験がはじまる。「兄さん、ビー... <span style="font-size:large;">「お義母さん、これもう入れてもいいですか?」<br />「いいわよ、咲さん。こっち、ちょっと味見してみて」<br /> 母と義姉の咲が、台所で並んで夕食をつくっている。その後ろ姿を、気にしないように見せながら気にしている兄の奏が微笑ましいと柊は思った。<br /> 夏休みに入って、ちょうどお盆に当たるこの時期、柊は1週間だけの予定で帰省していた。この後は東京へいったん戻り、すぐに筑波研究所での泊まり込み実験がはじまる。<br />「兄さん、ビール飲む?」<br /> 父と2人の息子、男ばかり揃ってテレビを見ていながら、台所の方を時折気にしている兄に、柊はそう訊ねた。<br />「俺が持ってくるよ」<br /> 兄はそう言うと、母と妻が一緒に料理している台所へ行って、ふたりに何か声を掛けている。兄を見る義姉の横顔が、嬉しそうな笑顔だ。その義姉の背中をぽんぽんと叩くと、兄は冷蔵庫を自分で開けて缶ビールを3缶出した。兄に、母が枝豆の入った小鉢を乗せたお盆を差し出している。<br /> まったく、めずらしいこともあるものだ。兄が自らお盆に3人分のビールと枝豆を乗せてくる姿を見る日が来るなんてびっくりだと思いながら父を見ると、どうやら父も同じ心境だったらしくニヤニヤ笑いを浮かべている。<br />「はい、父さん。柊、ほら」<br /> ニヤニヤ笑いの男2人に、兄は少し不機嫌に缶ビールを差し出す。父が頭を掻きながら、ニヤニヤ笑いを無理やりしかめ面で隠し、缶ビールをプシュと開けた。<br /> 同じように缶ビールを開けて一口飲み、それから鞘つきの枝豆を齧ると兄が言った。<br />「ま、あれだ。お前もいずれ、わかる」<br /> 柊は思わず飲みかけたビールを軽く吹き出してしまい、兄に睨まれた。父はテレビを見ながら、また頭を掻く。<br /> これを平和な光景というのだろう、そして男どもは何もできず、頭を掻いたり苦笑いでごまかすだけなのだ。<br /><br />「はぁ~い、お待たせ」<br /> 母が台所から出てきて、ダイニングテーブルに出来上がった料理を並べはじめた。義姉の咲もそれに従うように、それぞれの取り皿や箸などを並べている。<br />「おお、旨そうだな」<br /> と言う兄に、義姉が微笑んでいった。<br />「奏さんの好きな、さつま芋のコロッケよ。お義母さんに教えてもらっちゃった」<br /> 義姉の気遣いに母がにこやかに頷き、父がまた頭を掻く。<br />「揚げたて、旨いんだよな」<br /> 柊もそう言って、平和な光景の仲間入りを果たす。<br />「お義父さんには、冬瓜の煮物です。お好きだって、お義母さんが」<br /> 息子ばかり2人で娘のいない父は、できた嫁の咲に照れつつも嬉しそうだ。<br />「これは、後で冷酒だな」<br />「やだ、だからって飲みすぎないでよ」<br />「せっかく、奏と咲さんが来てくれてるんだからいいだろ、たまには飲みすぎたって。それに柊だって今年の夏休みは一週間しか居れないらしいし」<br /> 母に釘を刺されたのに、めずらしく父がそう主張する。<br />「帰ったら今度は、筑波の研究所か?」<br /> と訊く兄に、義姉も続けて訊ねてくる。<br />「柊さんは、将来は研究者になるの?」<br />「いや、まだ決めてないんですけど…」<br /> そう言い淀む柊に、父が言う。<br />「大学に残りたいのなら、それでもいいぞ」<br /> めずらしくはっきりした物言いをする父に、柊は迷っている気持ちを伝えた。<br />「でも博士課程に進んでそれから助手になってって考えると、独り立ちできるのはずいぶん先になりそうだし、それよりだったら就職した方が経済的にも早く自立できるから…」<br /> 灯里のこともあるし…いまの柊は早く一人前の大人になりたい気持ちが強くなっていた。<br /><br />「ま、取りあえず食べましょ?」<br /> 母がそう言って、皆に新しい缶ビールを回す。<br />「お義母さんと私は半分コしましょうか?」<br /> あまり酒の飲めない咲が、同じくあまり飲めない母にそう言う。<br />「あ、そうね」<br /> 母と義姉が仲良くグラスに1缶のビールを分け合ったところで、あらためて乾杯をした。<br /> 野々村家の男どもが皆、大好物のさつま芋のコロッケは揚げたてでおいしかった。さっくりと揚がったそれを頬張りながら、奏が言う。<br />「まあ、俺がこっちで就職して、なんとか身を固めることができたわけだし、柊は自分のやりたいこと追求したっていいんだぞ」<br /> 県庁勤めの兄と保育所勤めの義姉が暮らすマンションは、スープが冷めない距離とまではいかないけれど、父母の家から車で15分ほどの距離だ。着かず離れずの距離と関係は長い目で見れば理想的で、柊にとってもありがたい。これで子供でもできれば、両親にとっては孫を可愛がる楽しみもふえるはずだ。<br />「もちろん柊がこっちへ帰ってきて就職してくれれば嬉しいけど、地方じゃなかなかないでしょ?」<br /> という母に、父も頷く。<br />「就職するんでも、研究するんでも、やはり東京ということになるだろうなぁ」<br />「でも東京だと、孫が生まれても面倒見てあげられないわよ」<br /> いきなり母が、ずいぶん飛躍したことを言うので、思わず柊は義姉に驚いた目を向けてしまった。<br />「や、やだ。まだよ」<br /> 咲が頬を赤らめて言う。<br />「あ、いや、そんなつもりじゃ」<br /> バツが悪くなって下を向いた柊の頭に、兄がこつんと拳を当てる。<br />「こら、子供のくせに」<br />「もう大学院生なんだもの、子供じゃないわよ。いくら柊が勉強ばかりで奥手だからって」<br /> そう笑った母に、柊はさらに居心地の悪い思いをした。<br /><br /> 家族から見れば、年の離れた末っ子で高校まで彼女がいたことすらない自分はまだまだ子供に見えるのかと不思議な気がした。いま灯里との関係を知ったら、きっと驚くだろう。いや、灯里と東京で再開したことすら、柊は誰にも、家族はおろか繭里や『北賀楼』の人たちにも話していないのだ。<br /> 突然、東京で独り夏休みを過ごしている灯里のことが恋しくなった。<br /> いま頃、何をしているだろう。結局、同僚との旅行も行くことに決めたらしいし。<br /><br />「でも、咲さんは子供が生まれても仕事を続けたいんでしょ?」<br />「ええ、まぁ」<br /> そう言葉を濁す義姉に、母が言った。<br />「任せなさい、孫の面倒くらい、喜んで見るわよ」<br /> 期待に満ちた表情でそう宣言する母に、兄が慌てて言う。<br />「いや、それはありがたいけど。まだ、気が早いよ」<br /> そういえば義姉の実家も同じ県内ではあるが、少し遠い。子供が生まれたら生まれたで、兄夫婦はまた両親に気遣うんだろうな、と柊は思った。<br />「でも、そうなったら甘えちゃおうかなっ」<br /> そう言う義姉の賢さに感謝しながら、柊は缶ビールを取りに台所へ向かった。</span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第6章 遠 雷〈ⅳ〉

「こんばんは」 そう言ってバーに足を踏みれたのはカオルだ。「やあ」 とアレンが気さくに応じて、片手を上げる。 真っ直ぐカウンターにやってきて座ったカオルに、アレンが訊く。「今日は、独り?」「今日も、独り」 カオルがそう言って、肩を竦めながら舌を出した。「相棒は?」「相棒ってどっち?」「両方だよ」 カオルがふぅ、とため息をついて言った。「灯里は今日のレッスン、休んだの。シンジは、いまニューヨーク」「... <span style="font-size:large;">「こんばんは」<br /> そう言ってバーに足を踏みれたのはカオルだ。<br />「やあ」<br /> とアレンが気さくに応じて、片手を上げる。<br /> 真っ直ぐカウンターにやってきて座ったカオルに、アレンが訊く。<br />「今日は、独り?」<br />「今日も、独り」<br /> カオルがそう言って、肩を竦めながら舌を出した。<br />「相棒は?」<br />「相棒ってどっち?」<br />「両方だよ」<br /> カオルがふぅ、とため息をついて言った。<br />「灯里は今日のレッスン、休んだの。シンジは、いまニューヨーク」<br />「そう。で、何飲む?」<br /> オーダーを訊いたアレンに、カオルはシンガポールスリングを頼んだ。それはシンジがよく頼むものだったが、それに気づかないふりをしてアレンはOKと言った。<br />「食べ物は、何にしようかなぁ」<br /> カオルがぼそっとそう言ってメニューを手に取る。めずらしく迷いながら、パラパラとページをめくっている。<br />「鴨のパテとか、新メニューあるけど?あと小海老と夏野菜のスパイシーサラダとかおすすめ」<br /> いつもなら、アレンの提案に喜んで「それ!」というカオの反応がイマイチだ。<br />「やっぱ、ごぼうスティックとスズキのカルパッチョにする」<br />「了解!」<br /> 努めて明るく言ったアレンが、カオルの眼の前にシンガポールスリングを置いた。<br /> シンガポールスリングをつまらなさそうに、ちょびちょび飲むカオルを眼の端で捉えながら、アレンは別の客のおかわりをつくる。お盆直前の金曜の夜は、いつもより客が少なかった。<br /><br /> やがて出来上がったごぼうスティックとカルパッチョをカオルの前に置くと、アレンは言った。<br />「なんか今日、元気ないね」<br />「そうかな?」<br /> とカオルは冴えない表情で言って、ごぼうスティックをカリリと齧った。<br />「夏バテかも」<br /> 違うだろ、とアレンは心の中で言ってカオルに微笑む。<br />「そうか、じゃあ、気をつけないと」<br /> 優しく話しにつき合ってくれるアレンに、カオルが訊いた。<br />「ねぇ、アレン。アレンはいつも、あたしに優しいよね?だけど…」<br />「だけど?」<br /> オウム返しに訊くアレンに、一瞬沈黙して、それから思い切ったようにカオルが言う。<br />「なんで、灯里にはいつも冷たいの?」<br /> 傍から見てわかるほどだったか、とアレンは反省しながらそれでもシラを切った。<br />「冷たい?そうかな?」<br />「て言うか、皮肉っぽい」<br /> アレンはとうとう苦笑いをした。<br />「お客に対して、それは失礼だったよな。これから気をつけるよ」<br />「でもなんで?だって灯里は、アレンの親友の恋人なんでしょ?」<br /> それはむしろ、アレンが確認したいくらいだった。<br />「そう彼女が言ったの?恋人だって」<br />「はっきりは言わないけど…」<br /> 途端に、カオルが口ごもった。<br />「けど?」<br />「違うの?」<br />「訊いてるのは、俺なんだけど」<br /> カオルはう~んと眉根を寄せて考え込む。<br />「でも、あれ見たら…」<br /> そう言った途端に、カオルはしまったという表情をした。<br />「あれって?」<br /> 明らかにカオルが動揺している。だからアレンは、もう一度訊かずにはいられなかった。<br />「あれって、何を見たんだ?」<br /> カオルが唇を噛んで、アレンを上目遣いに見る。<br />「あたし、友達は売らないから」<br />「わかってるよ、キミはそんな娘(こ)じゃない」<br /> アレンは心からそう思っていることを、笑顔で伝えた。でもカオルは、何か迷っているようだった。<br />「ねぇ、アレン。キスマークをいっぱいつけるってことは、それだけ好きだってことだよね?」<br /> カオルの問いに、なんて隠し事が出来ない娘(こ)なんだとアレンは微笑ましく思いながら言った。<br />「まぁ、普通はそうだろうね」<br /> アレンの答えに、カオルはやっと安心したようにその日初めての明るい笑顔を見せた。<br />「だよね。なら、いいんだ。忘れて」<br /> だけど、アレンは思った。普通はそうだけど、そうじゃない場合だってある。拗(こじ)れた愛憎とか、歪んだ執着とか。そして柊と灯里に関しては、むしろそっちの面をアレンは危惧している。<br /><br /> そんなアレンの心配をよそに、少し元気になったカオルが言う。<br />「やっぱ、シンジの振付じゃないと面白くなんだよね」<br />「そう」<br />「もう、あれは才能だね。シンジの振付はさ、踊っていると躰中が、ううん細胞の一つ一つが喜ぶの。魂がビートを刻み出す感じがするの」<br /> やっと本来のカオルらしく、目を輝かせながら言う。<br />「そんなに違うんだ?」<br />「もう、ぜんっぜん違う。あたしだけじゃないよ。だってシンジがいないと、急にレッスン受けに来る人の数が減るんだもの」<br />「そうか。アイツ、そんなに凄いんだ」<br />「うんっ」<br /> と嬉しそうに言ったカオルの表情が、今度はいきなり曇る。忙しい娘(こ)だ、正直でいいけどとアレンは可笑しくなる。<br />「はぁ、ニューヨーク行きたかったなぁ」<br />「なんで、一緒に行かなかったの?」<br />「だって、シンジが来るなって。行くんなら独りで行けって言うんだもん」<br /> キミはそれを素直に訊いたんだ、とアレンはカオルを可愛いと思った。<br />「でも、帰ってくるんだろ?」<br />「うん、一ヶ月後くらいだけど」<br /> 再び悄気たカオルを、けしかけるようにアレンは言った。<br />「追いかけて行っちゃえば?」<br /> ダメだよ、とカオルが頭を振る。<br />「シンジの邪魔になる。わかってるんだ、だから待つの」<br /> キミは本当に可愛い女だな、とアレンは心の中で思った。<br />「ドリンク、奢るよ。何がいい?」<br /> ちょっと小首を傾げて、カオルが考えた。<br />「シンガポールスリング!今日はそれしか飲まないっ」<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
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第6章 遠 雷〈ⅲ〉

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第6章 遠 雷〈ⅱ〉

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