プロフィール

Author:mikazuki0602
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
オリジナル小説の
実験室へようこそ♪
本業の傍らゆるゆる
のんびり更新してます。
ざっくり気ままな試作でつが、
著作権は放棄していないでつ。
初めての方は「New!更新情報」
or「contents」からどうぞ。
(*´ω`*) Since 2013.6.2

【R18限定記事について】
男のひと目線の描写じゃなく、女子目線でホントのところを描きたいでつ お読みいただくには、パスワードを入力いただくか下記URLからどうぞ 「小説家になろう」グループ内 R18女性向小説サイト「ムーンライトノベルズ」 灯凪田テイルのXマイページへ移動します。 http://xmypage.syosetu.com/x1507h/
メール

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
05 | 2014/06 | 07
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -
カウンター
フリーエリア
355

第6章 遠 雷〈ⅰ〉

 遠くで、雷が鳴っていた。 実験研究室から事務棟へ向かっていた柊は、ゴロゴロと不気味な音を轟かす遠くの空を見やった。すぐ上の淡い青空に浮かぶ雲とは違う黒々としたそれは、生き物のように形を変えながら不吉に蠢(うごめ)いていた。 雨になりそうだ、と目を凝らした柊は、遥か先で視界を遮る激しい雨を認めた。 ああ、雨が迫ってくる。 こんな景色を、どこかで見た気がする。 そうだ、あれは大学2年生の夏。同級生と... <span style="font-size:large;"> 遠くで、雷が鳴っていた。<br /> 実験研究室から事務棟へ向かっていた柊は、ゴロゴロと不気味な音を轟かす遠くの空を見やった。すぐ上の淡い青空に浮かぶ雲とは違う黒々としたそれは、生き物のように形を変えながら不吉に蠢(うごめ)いていた。<br /> 雨になりそうだ、と目を凝らした柊は、遥か先で視界を遮る激しい雨を認めた。<br /> ああ、雨が迫ってくる。<br /> こんな景色を、どこかで見た気がする。<br /><br /> そうだ、あれは大学2年生の夏。同級生と2人で出かけた気ままな夏休みの自転車旅行だった。自転車に寝袋と簡易テントを積んで、僅かな着替えと日用品だけをディーパックに詰めて1週間の旅に出た。行き先は気の向くまま、宿泊先も決めず、泊まるところがなかったら野宿するつもりだった。<br /> その旅の途中で、今日のように遠くの空が突然真っ暗になり、やがて激しい雨が背中を追いかけてきた。両側が田んぼの一本道を、同級生と一緒に必死で自転車を漕いだ。<br />「うわぁ、柊。ダメだぁ、捕まった」<br /> 背後でそう声がすると同時に、激しい雨に飲み込まれた。ふたりはうわ~と意味をなさない叫び声を上げながら、同時に大声で笑い合った。びしょ濡れになりながらの小さな夏の冒険は、ふたりを童心に還らせのだった。<br /><br /> 懐かしい、と柊は思った。<br /> けれども抗いがたいのは、あの通り雨ではなく、追いかけてくる運命の方かもしれない。それは心躍る小さな冒険などではなく、突きつけられる現実で、突然に心の準備もない人間を飲み込んでいく。気づいたときにはびしょ濡れになって、そして現実となった運命は決して童心に還してくれることなどないのだ。<br /><br /><br />「あの、総務課はどこでしょうか?」<br /> 空を見上げていた柊に、そう声をかけてきたのは見知らぬ女性だった。<br />20代前半と思われる大人しそうなその女性は、白い半袖ブラウスに小花柄のひざ丈スカート、キャメルのショルダーバッグとベージュのサンダルという格好で立っていた。<br /> 肩までの髪は真っ直ぐで黒く、丸く大きめの瞳を除けば、とても真面目で平凡な印象だった。<br />「総務課ですか?」<br /> 思わず柊はそう訊き返した。<br />「はい」<br /> 総務課の事務棟は、いまいる場所からだと少し説明がしにくい、棟と棟を繋いだ渡り廊下の先にある。だから明らかに部外者とわかるその女性に、柊は言った。<br />「案内しましょうか?僕も総務課がある事務棟へ行くので」<br /> 女性の顔がぱっと明るくなった。笑うとエクボができて、平凡な印象が一転、可愛らしくなる。<br />「ありがとうございます。お願いします」<br /><br /> 女性を案内して、教務課で夏休みの産学協同プロジェクト関連の書類を出し、柊は実験研究室へ戻った。<br />「ねぇ、柊。お昼どうする?」<br /> やがて正午近くになり、星奈がそう訊く。<br /> もうすでに大学は夏休みに入り、学食は休業となり、まだ休みに入っていない職員のためにかろうじてカフェテリアと売店が空いていた。<br />「カフェテリアに行く?」<br /> と柊は星奈に訊いた。<br />「う~ん、職員が多いし、あそこのメニューがっつり食べられるものがないじゃない?」<br /> 星奈らしい答えに苦笑しながら、柊は言った。<br />「じゃあ、売店で弁当でも買って学食で食べようか?」<br />「そうだね。じゃ早く行こう、お弁当売り切れないうちに」<br /> 夏休み中だから、揃えてある弁当の数も多くはないはずだ。そう思って柊は、星奈と売店へ急いだ。<br /><br /> 外に出ると、雨が本降りになっていた。慌ててふたりは、傘を取りに実験研究室に戻ることとなった。<br /> それでも売店で、星奈はカツ丼、柊はのり弁をゲットすることができた。<br /> 部活か何かで来ている一部の学生がまばらにいる学食で、柊は星奈と向かい合って弁当を食べた。食べ終えて、それぞれ冷たいお茶と缶コーヒーを買って、実験研究室に戻るところだった。<br /> 事務棟から続く第2校舎2号館の入口に、ぼんやり立っている人影が見えた。<br />「あれ?」<br /> という柊に、星奈がどうしたのかと訊く。<br />「あの娘(こ)、確か…」<br />「なに?知り合い?」<br /> 星奈にさっきの事情を簡単に話して、その人影に近づいた。<br />「キミ」<br /> と声をかける柊を認めたその女性が、ほっとしたような表情になる。<br />「あ、先程はありがとうございました」<br />「どうしたんですか?迷った?正門はこの次の建物を出て、すぐそこですけど?」<br />「あ、いえ。そうじゃなくて…」<br /> そう言う彼女を見た星奈が、ああ、と言う。<br />「もしかして、傘持ってない?」<br /> 彼女が情けなさそうに俯いた。<br />「そうか、雨、急に降ってきましたものね」<br /> そう言うと柊は、持っていた傘を彼女に差し出す。<br />「これ、使って」<br />「え、でも…」<br />「大丈夫、コンビニのビニ傘だから。返さなくていいですから、使って」<br /> それでも戸惑う相手に、星奈も言った。<br />「あたしたち、もう一本あるし。研究室、すぐそこだし」<br />「あの、おふたりは教授ですか?」<br /> 実験用の白衣を着ている2人を見てそう訊く彼女に、柊は笑って傘を押しつけるように握らせた。<br />「まさか。僕らは院生」<br />「院生?」<br />「大学院生ってこと。ほら、持ってってください。凄いどしゃぶりだから」<br />「あ、ありがとうございます」<br /> と彼女は深々と頭を下げた。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
354

第5章 浅き夢〈ⅵ〉

 故郷の駅から出ると、頭上から容赦なく降り注ぐ夏の光線に、灯里は目眩を覚えそうだった。ビルや行き交う車、汗を吹きながら歩く人々が、アスファルトから立ち上がる熱に蜃気楼のように揺らいで見えた。 バスを待つ間も日傘を通して、太陽の熱がじわりと体力を侵蝕する。日焼け止めは、もう汗ですっかり流れているだろう。 やっと来たバスは、打って変わって冷房が効きすぎ、灯里は薄手のカーディガンを持ってきてよかったと思...  <span style="font-size:large;">故郷の駅から出ると、頭上から容赦なく降り注ぐ夏の光線に、灯里は目眩を覚えそうだった。ビルや行き交う車、汗を吹きながら歩く人々が、アスファルトから立ち上がる熱に蜃気楼のように揺らいで見えた。<br /> バスを待つ間も日傘を通して、太陽の熱がじわりと体力を侵蝕する。日焼け止めは、もう汗ですっかり流れているだろう。<br /> やっと来たバスは、打って変わって冷房が効きすぎ、灯里は薄手のカーディガンを持ってきてよかったと思った。<br /> 市街地を抜けると、窓からの景色は森や土手、田畑の広がりに変わり、心が自然にほどけてくる。ゆったりとした気分で車窓からの眺めを楽しみながら、灯里は三宅の言葉を思い出していた。<br /><br />「最近、妻の見舞いに行くとね」<br /> 料理教室が終わった後、ちょっとお茶にでもつき合って、と誘われた喫茶店で三宅は開口一番そう言った。<br />「前よりも話しかけられるようになったんだ」<br /> そう嬉しそうに三宅が言う。<br />「そうなんですか?」<br />「うん。以前は、なんと言って謝ればいいのかと懺悔の言葉ばかりを探していた気がする」<br /> 灯里が頷いてその気持ちに理解を示すと、三宅は少し照れたように続けた。<br />「でもいまは、自分の日常を話すようになったんだ。仕事でこんなことがあったとか、この間観た映画が面白かったとか、まるで恋人時代や夫婦で暮らしていた頃にしていたような会話なんだ」<br /> 三宅が話しかける、ではなく会話と言ったのが興味深かった。おそらく無意識に、三宅の中では奥さんと会話している感覚なのだろう。<br />「なんか、いいですね。そういうのって」<br /> 灯里がそう言って微笑むと、三宅も嬉しそうに微笑んだ。<br />「料理教室の話もね、一番最初にしたときに、妻が驚いている気がしたんだ」<br /> なにか反応があったのかと問うような表情になった灯里に、三宅は首を振りながら、それでも楽しそうに続ける。<br />「もちろん、反応はないよ。でも、なんというか、そんな気が確かにしたんだ。そして見舞いに行くたびにそうしているうちに、妻の表情がやわらいできたような気がするんだ」<br />「そうなんですか?それは、よかったですね」<br />「うん。看護師さんや介護士さんも、近頃奥さま体調がいいみたいですよって言ってくれるんだ」<br /> 三宅は目を輝かせながら、そう言う。<br /> たとえ意識がなくとも、躰を動かせなくとも、意識下では三宅の声は届いているのだろう。心が壊れてしまうほど愛おしかった人に、声をかけられることはきっと何よりの癒しでリハビリなのだ。<br />「目を覚まされるといいですね、奥さま」<br />「いやぁ、わからないよ。でも今度行ったときには、思い切ってキミが目を覚ましたら僕がハンバーグをつくるよって言ってみようと思うんだ」<br /> 希望は人を救う。救われるのは三宅であり、彼の妻だ。三宅の妻が目を覚ます日が、本当に近々来るような気がした。そしてそうなればいいと、灯里は心の底から願った。<br /><br /><br /> バスを降り、10分ほど歩いて長期療養病院に着いた。<br /> もうすっかり通い慣れた少し古びた病院に入ると、冷房のせいだけではなく館内の空気はひんやりと沈んでいた。スリッパに履き替え、持参のマスクをして、備え付けの消毒液を手に落とす。遠くで、叫びとも呻きともつかない声がする。<br /> 努めて明るい雰囲気を出そうとして、照明や壁床の色に気を使ったり、季節感を出すディスプレイで工夫してはいるが、患者が通院する病院とは違う入院療養患者ばかりのしんとした雰囲気はやはり独特だ。<br /> リツは3階の4人部屋に入っていたが、その部屋の全員が意識なく寝たきりの状態だ。ベッドは窓際で、外から自然光が入り、景色が見渡せるのが灯里にとってはせめてもの救いだ。見舞客があると、スタッフが気を使ってベッド周りのカーテンを閉め、個室のようにしてくれる。<br />「お祖母様」<br /> 灯里は、布団から覗くリツの枯れ枝のようになってしまった腕を摩りながら言った。<br />「灯里です。気分はどう?」<br /> 答えの代わりに、ぜいぜいという荒い呼吸と意味のない呻き声が溢れ続けている。すっかり白髪になってしまった髪は伸びて乱れ、よく見たら爪も伸びていた。<br /> 灯里は看護師に断りを入れてから、リツの躰を熱いお湯に浸したタオルで拭き、保湿クリームを塗った。それが済むと、両手両足の爪を慎重に爪切りで切った。<br />「ごめんなさい、お祖母様」<br /> 灯里は三宅のように、日常の報告をすることができない。脳梗塞で倒れたリツを裏切るような形で、灯里は東京の大学を受験し、家を出てアパート暮らしをすることを告げ、料亭を捨てた。<br /> それはリツにとっては、リツ自身を捨てるに等しい所業だったろう。後悔はない、でも深い悔恨に苛まれ続けている。<br /><br /><br />「お姉ちゃん、繭里は勝哉さんが好き。お姉ちゃんは東京の大学に行きたいんでしょ?行きなよ、いま決断しないと、一生叶わないよ」<br /> 繭里の言葉は、灯里の背中を押した。そして灯里が取った行動は、勝哉の怒りのスイッチを押したのだ。<br />「そんなこと、そんなこと、女将さんが許すはずがない。灯里お嬢さんは、女将さんの意識がないのをいいことに裏切るんですか?見捨てるんですか?『北賀楼』を、女将さんを、俺を!」<br /> 胸に突き刺さった言葉はいまも消えない。どんなに自分は裏切ったのだと認めても、灯里自身が自分を許していないからだ。<br />「パパは、わかってくれたよ。勝哉さんも受け入れてくれた。だから、大丈夫」<br /> 繭里はそう言ったけれど、師匠である一史に懇願されて一旦は頷いた勝哉が、最後の最後で決壊した。悪いのは勝哉ではない、そこまで追い詰めた自分なのだ。<br /> 青い鳥を探すはずだった東京への旅立ちは、悲しい永遠の放浪の幕開けになった。灯里に、帰る故郷も家ももうない。<br />「ごめんなさい、お祖母様」<br /> やはり謝ることしかできないまま、灯里は病室を後にした。</span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
353

第5章 浅き夢〈ⅴ〉

「灯里」 自宅アパートの2階の窓から、帰ってくる灯里の姿を認めた柊は、そう声をかけた。 スーパーの買い物袋を下げた灯里が、声がした方を見上げた。「柊ちゃん、今日は早いのね」「うん。でもこれからまた大学に戻って泊まり。風呂と着替えのために帰ってきたんだ」「そう、忙しいのね。頑張って」 にっこりと笑う灯里に、柊はデジャブを覚えた。 柊が中学生で、灯里が高校生だった頃、同じように帰ってくる灯里に2階の窓... <span style="font-size:large;">「灯里」<br /> 自宅アパートの2階の窓から、帰ってくる灯里の姿を認めた柊は、そう声をかけた。<br /> スーパーの買い物袋を下げた灯里が、声がした方を見上げた。<br />「柊ちゃん、今日は早いのね」<br />「うん。でもこれからまた大学に戻って泊まり。風呂と着替えのために帰ってきたんだ」<br />「そう、忙しいのね。頑張って」<br /> にっこりと笑う灯里に、柊はデジャブを覚えた。<br /><br /> 柊が中学生で、灯里が高校生だった頃、同じように帰ってくる灯里に2階の窓から声をかけたことが度々あった。いつもは部活で遅い灯里が、早めに帰宅するのは試験期間くらいだったが。<br />「おかえり、灯里」<br />「ただいま、柊ちゃん」<br /> たったそれだけの会話が、なぜかとても嬉しかった。<br /> もしもこれから先の将来も、同じ言葉を言い続けることができたら。それはあの頃、柊の叶わぬ夢だった。<br /><br /> でもいまは、もしかしたら、これからは。<br /> 柊は、灯里の心が自分にないとわかっていても、そんな淡い期待を抱いてしまう。<br />「柊ちゃん、ご飯は?」<br />「大学に戻る途中に、ハンバーガーでも食べるよ」<br /> それを訊いて、灯里はちょっと顔を曇らせて考え込んだ。<br />「あのね、もし時間があるなら。たいしたものは用意できないんだけど」<br />「え?」<br />「ジャンクフードよりは、躰にいいと思うよ」<br />「いいの?」<br /> 勢い込んで訊く柊に、灯里はにっこり微笑んだ。<br /><br /><br />「いただきます!」<br /> ふたり揃って手を合わせると、そう声を合わせた。<br />「将来を担う大事な頭脳だものね、躰にいい栄養ちゃんと摂らないと」<br />「うん、ありがとう。灯里のご飯、久しぶりだ」<br /> たいしたものはできないといったくせに、バランスの取れたメニューはどれも出来立てでおいしかった。ナスのおろし煮、春菊の胡麻和え、キスのエスカベージュ、カニかまサラダ、炊きたてのご飯になめこと豆腐のお味噌汁。<br />「旨いんだけど」<br />「そう、いっぱい食べて?」<br /> 野菜がたっぷりで酸味の効いたキスが、暑い季節に食欲をそそる。いつもはおかわりなどしない柊が、思わず2杯目のご飯を食べてしまう。<br /> はい、と灯里が熱いほうじ茶を出す。暑い夏に、熱いお茶で締めるのも躰がほっとする。<br /><br />「そうだ、夏休みはどうするの?灯里」<br /> ほうじ茶を飲みながら、柊は何気なく訊いた。<br />「柊ちゃんは?」<br />「お盆には5日間くらい実家に帰るけど、それ以外はほとんど研究と実験だな。あ、8月に入ったら筑波の研究所に3週間泊まり込みで行く。星奈と一緒に」<br /> そう、と灯里は言った。星奈と一緒に、とわざわざ女の子の名前を出したのに気にする様子がない灯里に、柊は少し落胆した。<br />「灯里は?」<br />「あたし?」<br />「うん。教職員だって、1ヶ月くらい夏期休暇あるんだろ?」<br />「うん。企業で働いてた頃を思うと、贅沢だなってありがたく思うよ」<br /> 灯里がそう微笑む。<br />「…帰ったりはしないの?」<br /> 実家に、という言葉を飲み込んで柊は訊いたけど、それがどこを指しているかは灯里にはわかったはずだ。<br />「しない」<br /> ちょっと不機嫌そうに、でも何でもない風を装って灯里は答えた。<br />「もう、だいぶ帰ってないんだろ?」<br /> そう訊く柊に、灯里は曖昧に笑って頷く。<br />だいぶどころか、6年間一度も帰っていない、実家には。<br />「駅前とか、ちょっと変わったよ」<br /> そう言う柊は、灯里が実家には帰っていなくとも、故郷の駅には月に1度位の頻度で降り立っていることを知らないのだ。<br /><br />「そうだ、旅行へ行くの。事務の人と一緒に」<br /> 話題を変えようとして灯里は明るくそう言ったが、今度は柊が不機嫌になる番だった。<br /> 今日、教務課で見た、高橋という男性事務員と話す灯里の姿が思い出された。<br />「誰と?」<br />「学生課と、教務課の人と5人で」<br />「女性同士で?」<br />「…男性3人、女性2人で、だけど?」<br /> やっぱり、と柊は思った。その中に、あの高橋という男がいるのは確実な気がした。<br />「へぇ、誘われたんだ?」<br /> 突然、不機嫌になったように思える柊に、訳がわからず、灯里は正直に答えた。<br />「ドタキャンした人の代わりに誘われたの」<br />「行くなよ」<br />「え?」<br />「代わりだなんて、そんなの行くことないよ」<br /> 決めつけるように言う柊に、灯里も少し不機嫌になる。<br />「柊ちゃんに関係ないでしょ?」<br /> そう言われてしまえばその通りで、柊は言い返す言葉がない。でも、灯里にそんな旅行には行ってほしくない気持ちが勝る。<br />「そんな行きたくもない旅行へ駆り出されるくらいなら、実家へ帰れよ」<br /> 思わずそう言ってしまってから、柊はしまった、と思った。<br /> 案の定、灯里の表情が険しくなる。<br />「行きたくないなんて、誰が言った?楽しみにしてるよ、そう、同僚との初めての旅行だもの、凄~く楽しみ!」<br /> 実家という言葉にはあえて触れずに、灯里がそう強がる。<br />「灯里…ごめん、僕は…」<br /> そんなつもりじゃなかった、と柊は謝りたかった。でも、必死で平然を装っている灯里に、何も言えなくなったしまった。<br />「柊ちゃん、そろそろ行ったら?大学」<br /> 灯里に冷たく言い放たれて、柊はうなだれたままマンションを後にした。<br /><br /> <br /> どうして、こうなるんだ。<br /> 灯里と一緒に、灯里がつくったおいしいご飯を食べて、幸せだったのに。<br /> 傷つけてしまった、きっと灯里を。<br /> だけど、行くなよ、そんな旅行。男となんか一緒に行くな、たとえ同僚でも。<br /> 同僚?いや、あの高橋っていう男の、灯里を見る眼は同僚以上だったんじゃないか?<br /> 灯里もまんざらじゃないのか?<br /> だって、星奈の名前を出しても、灯里は表情一つ変えなかったじゃないか。<br /><br /> 後悔と嫉妬が綯い交ぜになった、もやもやとした気持ちを抱えたまま、柊はすっかり意気消沈した重い足取りで大学へ向かった。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
352

第5章 浅き夢〈ⅳ〉

「柊、教授宛の実験用キッドが届いたらしいんだけど、一緒に教務課行ってくれる?ダンボール2個だっていうから」 内線電話を切った星奈が、そう言って振り返った。「いいよ。僕、台車持って行ってくるから、星奈は実験続けてていいよ」「ホント?ありがと」 実験研究室の書庫兼倉庫から台車を引っ張り出して、柊は教務課へ向かった。 最近、実験データー記録やもうすぐはじまる夏休みの産学協同プロジェクトの準備で、毎日遅か... <span style="font-size:large;">「柊、教授宛の実験用キッドが届いたらしいんだけど、一緒に教務課行ってくれる?ダンボール2個だっていうから」<br /> 内線電話を切った星奈が、そう言って振り返った。<br />「いいよ。僕、台車持って行ってくるから、星奈は実験続けてていいよ」<br />「ホント?ありがと」<br /><br /> 実験研究室の書庫兼倉庫から台車を引っ張り出して、柊は教務課へ向かった。<br /> 最近、実験データー記録やもうすぐはじまる夏休みの産学協同プロジェクトの準備で、毎日遅かったり研究室に泊まったりしている柊は、思うように灯里に会えていなかった。<br /> 灯里いるかな?と考えながら行った教務課で、柊は目的の姿を見つけた。だけど灯里は男性事務員と話をしていて、やってきた柊に気づかない。<br /><br />「何か?」<br /> 別の女子事務員が、柊の姿を認めて声をかけてきた。<br />「篠井教授宛に、実験用キッドが届いてるって電話もらったんですけど。院生の野々村です」<br />「あ、あそこのダンボールです」<br /> ありがとうございますと言って、柊は教務課入口の横に置かれたダンボールを取りに行った。台車に積んでいると、灯里がちらりとこっちを見たが、またすぐ視線を男性事務員に戻して話を続けている。<br /> ちぇ、灯里のやつ、と柊は面白くない。高橋と言ったっけ、あの男性事務員…柊は思わず、灯里に馴れ馴れしい視線を送るその男を憮然と睨みつけた。<br /><br /> <br /> 柊の視線を背中に感じながら、灯里は高橋の言葉を戸惑いつつ訊いていた。<br /> 最初は、もうすぐ実施される共通英語試験TOEICの役割分担の話だった。それが済むと高橋は急に声を潜め、こう訊いてきたのだった。<br />「ねぇ、北川さん。夏休みって何か予定ある?」<br />「え?」<br />「実は学生課と教務課の仲いい連中で毎年、旅行に行ってるんだけど、今年ドタキャンがいてね」<br /> そう言って高橋は周りを気にするように見回すと、さらに声を潜めた。<br />「詳しいことは、昼休みにでも学生課の須藤さんに訊いて」<br /> そう言って須藤という女子事務員に視線を送るので、灯里もつられてそちらを見ると、彼女はふたりに大きく頷いてみせた。<br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 須藤とふたり、カフェテリアで灯里はお弁当を広げていた。<br />「毎年ね、学生課の近藤さんと中田さんと私、教務課の高橋さんと島津さんの5人で旅行へ行ってたの。それがほら、島津さんが春にデキ婚したでしょ?最初は、夏休みの頃はちょうど5ヶ月位で安定期に入るから大丈夫、なんて言ってたんだけど…」<br /> と言いながら、須藤はおにぎりをパクッと齧るとお茶を飲んだ。<br />「旦那さんの転勤が決まって、春学期で退職することになったでしょ?引越しの準備もあるし、体調も考えてやっぱりキャンセルしたいって言ってるのよ」<br />「はぁ」<br /> と灯里は曖昧に答えて、胡麻和えを口に運んだ。<br />「でも、キャンセルするのはもったいないんだなぁ。だって学校の共済組合が契約している保養所って、安いし食事はそこそこおいしいし、人気の観光地にあるでしょ?家族連れなんかにはとくに人気で、予約がなかなか取れないのよ。今回だって、半年前から予約して楽しみにしてたの。それが、ドタキャンでしょ?」<br /> 須藤は、本当に残念そうに熱弁する。<br />「でも、事情が事情だし…。それに島津さん以外はキャンセルしないんですよね?」<br /> 灯里がそう言うと、須藤は両手を合わせて拝み倒すように言う。<br />「そうだけど。でも北川さんが行ってくれないと、女子は私一人になるのぉ。夜だって一緒に温泉入ったり、部屋で女子トークする相手もいなくて一人淋しく寝ることになるのよ」<br /> まぁ、男性3人、女子1人の旅行はいくら仲が良いからといって、ちょっと気が引けるのはわかる気がした。<br />「どこ、行くんですか?」<br /> ついそう訊いてしまった灯里に、パッと須藤の表情が明るくなる。<br />「浜名湖!温泉もあるし、夕陽の絶景スポットがあるのよ。ね、行こ!北川さん、お願い!」<br /> こうして灯里は半ば強引に、さほど仲良くない人たちの旅行仲間にされてしまった。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「準備は忙しいけど、凄く楽しみにしてるんだ、あたし。筑波研究所での産学協同プロジェクト」<br /> 今日はBランチをおいしそうに食べながら、星奈がそう期待に満ちた眼を向ける。<br />「3週間泊まり込みの実験は厳しいけど、頑張ろうな」<br /> 星奈と同じBランチの鯵フライを齧りながら、柊が言う。<br />「もちろん。ちゃんと仮眠室だってあるんだし、泊まり込みは全然心配してない。心配なのは食事。近くにはコンビニくらいしかないって情報」<br /> 不満げにそう言う星奈を見て、柊は思わず吹き出しそうになった。<br />「しょうがないだろ。行くまでに、好きなものいっぱい食べとけよ」<br /><br />「うん。ところで最近、アレンを見かけないんだけど。会ってる?」<br />「ああ、ジムでは会うよ。なんか、新しいバイトはじめたらしいよ」<br />「バーだけじゃなくて?」<br />「うん。どんなバイトかは教えてくれなかったけど」<br /> 柊のその言葉を訊いて、星奈が眉間に皺を寄せた。<br />「やばいバイトとかじゃないよね?」<br />「と、思うけど…」<br />「アイツ、生き方、本当にテキトーだから大丈夫かなぁ」<br /> めずらしくアレンを気にする星奈に、柊は面白そうな視線を向けた。<br />「なに?」<br />「いや、星奈がアレンを心配するなんてって思ってさ」<br /> 意外なことに、さっと星奈の顔が赤くなった。<br />「だ、だって。大学1年の時からのつき合いじゃない。つ、つき合いってのは、そういう意味じゃなくて。つまり悪友って意味で。で、アイツのテキトーさは、嫌になるくらいわかってるし…」<br /> 慌てて言う星奈を見ながら、柊はあれ?と思った。もしかして…でも、それならそれで応援したい、と柊は星奈を見ながら微笑んだ。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
351

第5章 浅き夢〈ⅲ〉

「いい加減に止んでくれないかなぁ、この長雨」 傘を差していても濡れてしまった肩や腕をハンドタオルで拭きながら、カオルが不満げに言った。「梅雨だからな」 シンジが、しょうがないよという風に言う。「わかってるけど。でも、今年は降りすぎ」 そんなふたりのやりとりを見ながら、確かに今年の梅雨は雨が多いと灯里は思った。 灯里は雨が嫌いではない、でもそれでも鬱陶(うっとう)しく思うほど長雨が続いていた。「で、... <span style="font-size:large;">「いい加減に止んでくれないかなぁ、この長雨」<br /> 傘を差していても濡れてしまった肩や腕をハンドタオルで拭きながら、カオルが不満げに言った。<br />「梅雨だからな」<br /> シンジが、しょうがないよという風に言う。<br />「わかってるけど。でも、今年は降りすぎ」<br /> そんなふたりのやりとりを見ながら、確かに今年の梅雨は雨が多いと灯里は思った。<br /> 灯里は雨が嫌いではない、でもそれでも鬱陶(うっとう)しく思うほど長雨が続いていた。<br />「で、何にする?」<br /> そうシンジが訊く。今日も3人は、ダンスのレッスン帰りに例のバーにいた。<br />「あたし、スプモーニ」<br />「最近、そればっかだな。馬鹿の一つ覚えみたいに」<br />「馬鹿とはなによ。失礼だよ」<br /> 最近のお気に入りらしいドリンクを頼んだカオルを、シンジが揶揄(からか)う。<br />「だって、アレンに教えてもらったんだもぉ~ん。ねぇ?」<br /> オーダーを取りにやってきたアレンを上目遣いで見ながら、カオルが言う。それを無視するようにシンジが言った。<br />「俺はシンガポールスリング。灯里は?」<br />「う~ん、じゃ、バーボンソーダ」<br />「バーボンは何?」<br /> アレンが銘柄を訊ねる。<br />「え~と、フォ、フォア…」<br />「フォアローゼス?」<br />「あ、それ」<br /> うろ覚えの銘柄を思い出そうとする灯里に、アレンがハーフらしい発音で教えてくれた。<br />「うゎ、さすがぁ。カッコいい発音」<br /> カオルが無邪気に褒める。<br />「俺の発音は、カッコよくないよ。オーストラリアン・イングリッシュだから」<br />「そうなの?」<br /> 仲良さそうに話すカオルとアレンに割って入るように、シンジが言った。<br />「灯里、食べ物は?」<br />「う~ん、カルパッチョがいいな」<br />「ピザも頼もう」<br />「うん」<br />「あと、ホタテとアボカドのオードブル。あれ気に入っちゃったんだ、アレン」<br /> 了解、という風にアレンはカオルに軽くウインクすると去っていった。<br />「なんか、仲良さげじゃない」<br /> そう言う灯里に、カオルは済まして答える。<br />「仲良さげじゃなくて、仲いいの」<br />「そうかよ」<br /> とシンジが呆れた感じで言う。<br />「あれ、シンジ、ジェラった?」<br />「誰が、ジェラるよ」<br />「なぁ~んだ、つまんないの」<br /> そう正直に言うところがカオルらしい、と灯里は微笑ましく思う。<br /><br /> ドリンクとオードブルが運ばれてきた。<br />「それはそうと、あの女子大生たち、発表会過ぎた頃から来なくなったね」<br /> カオルが早速、オードブルをパクつきながら言った。<br />「なんか、友達関係がビミョーになったからじゃないのか?」<br />「一人だけ、センターのメンバーに入ったから?」<br /> そう訊いた灯里に、シンジが頷く。<br />「ふ~ん。人のこと蹴ってまで、取りたかったセンターなのに?呆気ないね」<br /> と肩をすくめるカオルにシンジ言う。<br />「だからだよ」<br />「どういうこと?」<br />「3人一緒がいいんだよ。仲間外れが怖い、つまり一人じゃ何もできないってことさ」<br />「へー、小学生じゃあるまいし。いつまでもお手々繋いてたいんだ。もっと上手くなればいいだけじゃん。そうすれば次は自分がセンター取れるかもしれないんだし」<br />「結局、井の中の蛙なんだよ。あの3人、大学では上手いと思われてたらしいんだ。それで意気揚々とスタジオに入ってきたはいいけど、自分たちより遥かに上手いヤツらがいた。あの手この手で嫌がらせしたり、媚びたりしてみたけど結局上手くいかなかった」<br /> ふたりの会話を訊いていた灯里も、思わず言った。<br />「でも、それってやり方間違ってない?」<br />「それがわかんないから、余計にダメだな。海外とか行ったら、みんな一匹狼で切磋琢磨してるっていうのに。甘えてんだよ」<br /> シンジの言葉に、カオルが反応する。<br />「ねぇ、シンジ。やっぱニューヨークって凄い?」<br />「スタジオにもよるだろうけど。でも凄いのから、そうでないのまで、いろんな人種がいるよ」<br />「行ってみたいなぁ」<br /> カオルがそう眼を輝かす。<br />「行ってみろよ。いい経験になるし、カオルなら実力的にもついていける」<br />「シンジは、また行ったりしないの?」<br /> と灯里が訊く。<br />「いや、夏にまた行こうと思ってる」<br />「えっ、ホント?あたしも行きたいっ」<br /> カオルが食いついた。<br />「最初は独りで行け」<br />「え~」<br />「それくらい度胸なきゃ、やってけないぞ」<br />「英語、わかんない」<br />「勉強しろよ」<br />「いまからじゃ、間に合わない」<br />「カタコトでも、レッスンは見よう見真似でついていけるよ」<br /> う~ん、とカオルが考え込む。<br />「ね、灯里。一緒に行かない?大学の事務って、夏休み結構あるんでしょ?」<br />「そうだけど。でも、あたしは無理」<br />「なんで?」<br />「レッスンについてけないよ」<br />「灯里も大丈夫だ。俺が保証する」<br /> ねぇ、行こうよと誘うカオルに、シンジが言った。<br />「だから、独りでも行きたかったら行けよ。それくらいの気持ちがないと、得るものがないぞ」<br /><br /> ニューヨークか、と灯里は思う。自分はそこまで、ダンスに傾倒していない。<br /> じゃあ、あたしの夢って?<br /> 柊ちゃんの傍にいたい、その想いがあるからいまはいい。でもいつか、あたしたちは別々の道を歩き出す。一緒の未来なんて、儚い夢だから。<br /> でもそうなったとき、独りのあたしが見る夢ってなに?<br /> そう考えると、急に足元が崩れ出すような不安を感じた。<br /><br />「だって、カオルは本気でダンサー目指してるわけじゃないだろ?」<br /> 灯里が独りでそんなことを考えている間も、シンジとカオルの会話は続いていた。<br />「そんなことないよ、迷ってるだけ」<br />「止めとけ」<br />「なんで?」<br />「ダンサーじゃ、食えない。食っていけるのは、ほんのひと握りだ。それに長く続けられないのも、アスリートと同じだ」<br />「そうなの?」<br /> カオルがちょっと不安そうに訊く。<br />「それにカオルには歯科技工士っていう技術があるじゃないか。実家だって歯医者だし、食いっぱぐれなくて羨ましいよ」<br />「シンジはちゃんと、ダンサーとして成功してるじゃない」<br /> そう言うカオルに、シンジは自嘲気味に言う。<br />「全然。俺の年収、知ってるか?スタジオで教えて、デビュー前の子達にレッスンつけて、あまり有名じゃない人達のステージでバックダンサーやって…。独りだからなんとかなるけど、さ」<br />「そんなことないよ。シンジのダンスは最高だし、才能あるし、これからもっと凄くなるよ」<br /> 懸命にそう言うカオルは可愛い、と灯里は思った。<br /> そんなカオルの頭をシンジはぽんぽんと叩いて言った。<br />「ありがとな。カオルくらいだよ、そう言ってくれるの。よーし、今日は俺が少ない稼ぎの中から、バーンとふたりに奢っちゃる!」<br /></span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a>
350

第5章 浅き夢〈ⅱ〉

 ほの明るい体育館が見える。 その明るさの中心に、新体操のコスチュームを着た灯里がいた。それは真っ白なレオタードで、胸元と裾周りに銀糸とスパンコールが羽のようにあしらってあり、シンプルだけれど気品あるデザインが灯里にとてもよく似合っていた。 何処からか美しく繊細な旋律が流れ、灯里の顔が天井を仰ぎ見た。そして次の瞬間、しなやかに可憐な躍動感を持って、灯里が高く高く宙に舞う。手にしているのは、真っ白な... <span style="font-size:large;"> ほの明るい体育館が見える。<br /> その明るさの中心に、新体操のコスチュームを着た灯里がいた。それは真っ白なレオタードで、胸元と裾周りに銀糸とスパンコールが羽のようにあしらってあり、シンプルだけれど気品あるデザインが灯里にとてもよく似合っていた。<br /> 何処からか美しく繊細な旋律が流れ、灯里の顔が天井を仰ぎ見た。そして次の瞬間、しなやかに可憐な躍動感を持って、灯里が高く高く宙に舞う。手にしているのは、真っ白なリボンだ。<br /> 灯里の細い、でも筋力のある足が床を蹴って、180度の開脚でジャンプする。それを追うように、リボンが灯里の周りで優雅な弧を描く。<br /><br />「お姉ちゃん、綺麗…」<br /> 繭里の声が聞こえた。<br />「北川灯里って可愛いよな」<br />「レオタード姿とか、めちゃエロいし」<br /> 男子高校生の声が聞える。<br /><br /> やめろ、そんな眼で灯里を見るな。<br /> 灯里に穢れた視線を注ぐのはやめろ。<br /> 灯里はこんなにも純真で無垢なのに、邪な考えで汚すのは止めてくれ。<br /> ねえ、灯里。僕がキミを守ってあげる。<br /> この世の汚らわしいもの、邪なものの全てから。<br /> そうだ、その真っ白なリボンでキミの全身を包んで隠してしまおう。<br /><br /> 軽やかに踊っている灯里に、それまで優雅に弧を描いていたリボンがするするすると巻きついていく。まるで柊の意思を、忠実に実行するかのように。細い足首からふくろはぎへ、きゅっと小さく締まった膝から太腿へ、小さな形良い臀部からほっそりとした腰とウエストへ、贅肉のないお腹から2つの微かな膨らみへ、やがて鎖骨からすらりと伸びた美しい首へと。<br /> 両足両手の自由を完全に奪われた灯里は、床にゆっくりと倒れる。その灯里の下へ、柊は受け止めるためのふわふわの羽毛を敷いた。真っ白に重なる羽毛の上に、ふわりと落ちる灯里。<br /> 柊はとても満足した。<br /><br /> 美しい、灯里、なんて綺麗なんだ。<br /> これですべての邪悪なものから、キミを守ってあげられる。<br /> キミはもう、何も心配しなくていい。<br /> 僕の腕の中で、安心して眠って。<br /> 僕の灯里、僕だけの灯里。誰の眼にも、誰の手にも決して触れさせない。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵ <br /><br /> 七夕の夜だった。<br /> 高校生の灯里は、まだ中学生の繭里と柊と、〈七夕まつり〉で賑わうメインストリートを歩いていた。途(みち)には華やかな吹流しや提灯、くす玉や短冊が飾られ、3人とも浴衣姿で縁日を覗いたり、ステージや路上で行われるイベントを楽しんでいた。<br />「ね、金魚すくいしよ。あ、綿菓子も食べたいなぁ」<br /> 今年も繭里は、子供のように喜びはしゃいでいた。<br />「繭里、待って。そんなに走ったら、見失ってしまう」<br /> そう言って、灯里は繭里の背中を追いかけた。<br /> 混雑する人波の中へ、繭里の背中がどんどん小さくなって吸い込まれていく。灯里は慌てて追いかけるが、いつもは灯里より足の遅いはずの繭里が捕まえられない。とうとう繭里の背中は、灯里の視界から消えてしまった。<br />「もう、繭里ったら。こんなに混雑しているところで逸れたら、見つけられないのに」<br /> 弱虫で独りにされるのが大嫌いな可愛い妹を、灯里は必死で探した。<br />「どうしよう、柊ちゃん。繭里が見つからない」<br /> そう振り向いた灯里の後ろに、柊はいなかった。<br /><br /> 独りになったのは、灯里だった。<br /> 突然、どうしようもない恐怖が、込み上げてくる。<br />「繭里、繭里?柊ちゃん、柊ちゃん?」<br /> 灯里は、夢中になってふたりを探した。人混みを掻き分けて、細い路地の方まで。<br /><br /><br /> 突然、灯里の右手首を掴んだ者がいた。<br />「灯里お嬢さん」<br /> 勝哉だった。<br />「あ、勝哉さん。繭里と柊ちゃんと逸れてしまって。ふたりを見かけなかった?」<br /> そう訊く灯里を、勝哉はじっと見ていた。<br />「ねぇ、勝哉さん。繭里と柊ちゃんを、一緒に探して?」<br /> 灯里の手首を掴む勝哉の手に力がこもった。反射的に、灯里は腕を引こうとする。<br />「なぜ、逃げるんです?」<br /> 逃げてるわけじゃ…そう言いたかったが声が出なかった。<br />「灯里お嬢さんは、俺の許婚じゃないですか」<br /> それはお祖母様が勝手に決めただけのこと。あたしは、あたしは…。<br /> 勝哉が掴んだ手にぐっと力を込めると、灯里を強く引き寄せ、その胸にかき抱いた。<br />「や、離して」<br /> 灯里は必死に抗った。<br />「抵抗するなよ。灯里は俺のものなんだ」<br /> 低くドスが効いた、オスの声がした。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> いや、いやだっ。絶対に嫌!<br /> 自分をがんじがらめにする腕が怖い。頬にかかる熱い息が気持ち悪い。<br /> 好きだ、俺のものだと繰り返しながら、躰を弄(まさぐ)る手に恐怖と嫌悪感が爆発しそうになる。<br /><br />「いやぁ~っ!止めてっ、離して…っ」<br /> 灯里は夢中で、そう叫んだ。<br /> そして気がついた。自分を優しく抱きしめて揺さぶる両手。<br />ああ、これは愛しいひとのぬくもりだ。<br />「灯里、灯里?」<br />「しゅ、柊ちゃん?」<br />「どうしたの?僕だよ」<br /> ああ、良かった。まだ眼を開けられないまま、灯里の躰から力が抜けた。<br /> 恐る恐る眼を開けると、触れる近さで、柊の愛おしい顔がある。心の底から安堵した。<br />「灯里、汗びっしょりだよ?」<br /> まだ震える両手で、柊の腕を掴んだ。<br />「怖い、怖い夢を見たの」<br />「大丈夫、僕が傍にいるから」<br />「ほんと?」<br /> 縋りつくような眼で覗き込む灯里に、心を再び鷲掴みにされながら柊は囁く。<br />「大丈夫、安心して。僕が灯里を守ってあげる、いつだって」<br /> そう言って柊は灯里の頭を撫でた、まるで幼子にするように。<br /><br /> 窓から、オレンジ色に燃える夕陽が見える。<br /> 止んでしまった雨に、柊は心の中で舌打ちをする。<br /> でも、ふと何かを思いついたように、柊は再び灯里の頭を抱き寄せた。オレンジの光線が差し込む窓からその視界を遮るように。<br /> そして彼女の耳朶にくちゅ、と舌先で雨音を落とす。<br />「灯里、今日の雨は止まないよ。だからこうしていよう、まだもう少し」<br /> <br /> そう、今日の雨は止まない。<br /> 僕が、そう決めたから。<br /> 決めたからね、灯里。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
349

第5章 浅き夢〈ⅰ〉

この記事を閲覧するにはパスワードが必要です<br /> ⇒<a href="http://otonaasabi.blog.fc2.com/blog-entry-349.html?entrypass">パスワード入力</a><br />
348

第4章 秘 密〈ⅷ〉

 オーボエ奏者だったアレンの父親と、チェロ奏者だった母親が出逢ったのはカナダのオーケストラの楽団員としてだった。国際的な交響楽団の一員として海外を演奏旅行で回るうちに、自然に恋が芽生えた。 父親が31歳、母親が29歳のときに、ふたりは演奏旅行で訪れたニューヨークで結婚式を挙げた。それから約1年後に妊娠して、母親は出産と子育てのためにオーケストラを辞めなければならなくなった。初めての出産ということもあり... <span style="font-size:large;"> オーボエ奏者だったアレンの父親と、チェロ奏者だった母親が出逢ったのはカナダのオーケストラの楽団員としてだった。国際的な交響楽団の一員として海外を演奏旅行で回るうちに、自然に恋が芽生えた。<br /> 父親が31歳、母親が29歳のときに、ふたりは演奏旅行で訪れたニューヨークで結婚式を挙げた。それから約1年後に妊娠して、母親は出産と子育てのためにオーケストラを辞めなければならなくなった。初めての出産ということもあり、海外よりは両親や知人がいる母国がいいだろうということで、ふたりは生活の拠点を日本に構えた。それがいまのこのマンションだという。<br />「母親は、落ち着いたらまたオーケストラに戻るつもりだったんだ」<br /> とアレンは言った。<br /> しかし初めての子育てはそれほど簡単ではなく、父親は相変わらず海外での演奏旅行のために不在がち。淋しさが募った母親は、少し情緒不安定になったのだと言う。その頃はまだ強い愛情で結ばれていたふたりは、やっと1歳になったアレンを連れてともに海外を旅する道を選んだ。<br /> それから約1年後に、母親は再び妊った。最初と同じように日本で出産したが、3歳と生まれたばかりの赤ん坊を連れて演奏旅行へついていくのは無理だ。<br /> 父親が国際的にさらに評価の高いオーケストラに移籍した頃から、母親の様子が眼に見えて不安定になった。<br /> 音楽の才能をいっそう開花させて国際舞台で活躍していく夫、同じ夢を追いかけていたはずがどんどん取り残されていく自分。子供たちはこれから幼稚園や小学校に通わせなければならないし、演奏旅行についていくこともままならない。ふたりの子育てが一段落する頃には、もう自分は音楽の道へは復帰できないのではないか。<br /> <br /> 最初に幼い妹を母から守ったのは、アレンだった。陽の高いうちからお酒を飲み、タバコを吸うようになった母親は、酔うといっそう情緒不安定になり取り乱すようになっていた。<br /> 暑い夏の日だった。タオルケットをかけて昼寝をさせられていた妹の横に、幽霊のように真っ青な顔でぺたりと座り込む母親がいた。手にはタバコを持っていて、お酒の入ったグラスが倒れている。中身は床にこぼれ、小さな水溜りをつくっていた。<br />「どうしたの、ママ?」<br /> アレンは嫌な予感がして、朦朧としている様子の母の背中に声をかけた。その声は母には訊こえなかったようで、ゆっくりと母親の手が妹のタオルケットを剥がすのが見えた。<br /> 咄嗟にアレンは母親に走り寄り、彼女の手からタバコを奪うと、床に出来ていた水溜りに捨てた。焦点の合わない眼をした母親の顔が、スローモーションのようにアレンを覗き見て、それからゆっくり視線を外すと、床の水溜りに投げ捨てられたタバコに向けられた。<br />「私…」<br /> はっとした母親がひと言そういうと、アレンの両肩を掴んだ。<br />「ママ、大丈夫。なにも起こっていないよ」<br /> アレンは、そう言わなければいけない気がした。その言葉を訊いて、母親は突然号泣した。<br />「ごめんなさい、ごめんなさい。私、なんてことを。ああ、ごめんなさい。私、いま…っ」<br /> 混乱して泣き崩れる母親の背中をアレンは、撫でた。<br />「ママ、大丈夫だよ。僕がいるから。僕がいるから」<br /> <br /> それから数日して、母親の狂気の行為は突然はじまった。<br />「お前がいるから、お前がいるから…っ」<br /> そう言って、母親はアレンの尻にタバコを押しつけたのだ。<br />「エレンを守るためでもあったんだ。母は正気でなくなっても、それでもまだほんのひと握りの理性はあったんだろうね。タバコを押しつけるのは、いつも簡単には見えないお尻と決まっていた」<br /> けれども、それが発見を遅らせた。<br /> 父親が気がついたときは、すでに母親の狂気は誰の眼にも明らかだった。子供への仕打ちが許せない父親は、離婚してふたりの子供を引き取ると言った。<br /> その父親にアレンは言ったのだという。<br />「僕が、ママの傍にいる」<br /> <br />「親父はそれでも年に1度は会いに来てくれたし、手紙や電話も頻繁にくれて愛情を示してくれたよ。でも18歳になったとき、俺は日本国籍を正式に選んだ」<br /> 柊は、言うべき言葉が見つからなかった。薄々想像してはいたけれど、それを本人の口から詳細に訊くのは思った以上の衝撃だった。<br />「だから、傍にいたい気持ちは俺にはわかる。だけど、心が弱い者は結局救えない。最後に自分を救えるのは、自分自身なんだ。なぁ、柊。Miss幼なじみは弱い女じゃないのか?俺は、それが心配なんだ」<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
347

第4章 秘 密〈ⅶ〉

「たまには、飲みに行かないか?」 ジム帰りに、柊はそうアレンに声をかけられた。「引越ししたから、あまり金ないけど」「じゃあ、なんか買って、ウチで飲む?」 アレンの自宅へは、何度か行ったことがある。 家族がまだ一緒だった頃、父親が買ったという3LDKのマンションに、アレンはいまでも独り暮らしをしている。アレンの母は、心身の状態があまり良くないとかで、実家で両親つまりアレンの祖父母と暮らしている。 広めの... <span style="font-size:large;">「たまには、飲みに行かないか?」<br /> ジム帰りに、柊はそうアレンに声をかけられた。<br />「引越ししたから、あまり金ないけど」<br />「じゃあ、なんか買って、ウチで飲む?」<br /><br /> アレンの自宅へは、何度か行ったことがある。<br /> 家族がまだ一緒だった頃、父親が買ったという3LDKのマンションに、アレンはいまでも独り暮らしをしている。アレンの母は、心身の状態があまり良くないとかで、実家で両親つまりアレンの祖父母と暮らしている。<br /> 広めのリビングにはグランドピアノが置いてあって、音楽家の家庭という雰囲気を醸し出していた。大学時代、星奈や他の仲間と夜通し飲んで、結局泊まったこともある。<br /> そのときにアレンは、酔ってはいても、見事なピアノ演奏を聴かせてくれた。<br />「なぜ、アレンは音楽の道に進まないの?」<br /> 訊いたのは星奈だったと思う。<br />「父親の希望は、エレンが叶えるさ」<br /> アレンの妹のエレンは、海外の音楽院でフルートを選択し学んでいるそうだ。そのとき両親の希望と言わず、父親の希望といったのが、一瞬だけど気になったのを覚えている。<br /><br /> アレンの家の近くのコンビニで、ビールや焼酎、氷やつまみになりそうなものを買った。<br />「なんか久しぶりだな」<br /> そう言いながら、柊はアレンの家のリビングに入った。部屋は意外にこざっぱりと片づいていた。<br /> ローテーブルに買ってきたサンドイッチや唐揚げ、スナックやピーナツの袋を無造作において、缶ビールを開ける。<br />「じゃ、乾杯」<br /> 苦味のある炭酸の刺激が、乾いた喉に心地良い。<br />「お母さんの様子はどうなんだ」<br /> 一度も会ったことはないが、アレンが母親のために日本国籍を選んだことは知っている。<br />「相変わらずだよ。心の問題が躰に影響を及ぼして、弱った躰がさらに気を弱くするという悪循環だ」<br />「でも、もう入院はしていないんだろう?」<br />「ああ。生まれ育った環境の方が、落ち着くみたいだ。爺ちゃんと婆ちゃんは、大変だろうけど」<br /> アレンがピーナツの袋を開けて、大きな片手で掴んだ中身を無造作に口に放り込む。<br />「それより、お前の方はどうなんだ」<br />「なにが?」<br /> 薄々、アレンの言いたいことはわかっていたが、そうしらばっくれる。<br />「Miss幼なじみだよ」<br /> 缶ビールをひと口飲んで、柊は答えた。<br />「傍にいてやりたい」<br />「どういう意味で?」<br />「どういうって、そのままの意味だよ」<br /> 柊にはそれが一番、正確な答えのような気がした。<br /><br /> 灯里はそれを望んでいる、でも僕を好きなわけではない。それでもいいんだ、それでも僕が傍にいたい。<br /><br />「つき合ってるんだろ?」<br /> アレンがさらっと訊く。でもそれは柊には、答えにくい質問だ。<br />「どうなんだろうね?」<br />「どうなんだろうねって、好きなんだろう?」<br />「ああ、好きだよ」<br /> 今度は、柊は迷わず答えた。<br /> <br /> 好きだ、いや、ずっと好きだった、幼い頃から。気がついたら、もう僕の心は灯里でいっぱいなのに、ずっと手が届かなかった。灯里の背中を、ずっと追いかけてきたんだ。<br /> でもいまは、灯里は手を伸ばせばそこにいる。触れることもできる。だから触れる、抱きしめる、泣かせる、傷つける。だってそれが、灯里の望むことなのだから。<br /><br />「Miss幼なじみの方は、どうなんだ?」<br /> アレンが何気ない風を装って、核心に触れる。<br />「さぁ」<br />「さぁって、それじゃつき合ってることにならないだろう」<br /> そう言って、アレンは気づいた。そうか、だから「どうなんだろうね?」なのかと。<br />「焼酎にするか?」<br /> 缶ビールを飲み終えたアレンが、柊に訊ねた。<br /> アレンがミネラルウォーターのペットボトルと、氷を入れたグラスを2つ持ってくる。2つのグラスに焼酎を半分ほど入れると、ミネラルウォーターを注いだ。<br />「濃いかな?」<br />「大丈夫だろ?」<br />「じゃ、改めて乾杯」<br /> <br /> ふたりはしばらく無言で飲んでいたけれど、口を開いたのはやはりアレンだった。<br />「なぁ、柊。お前、この間見ただろ?」<br /> それは突然だったが、何を見たかと訊いているのか、柊には不思議に確信できた。<br />「あぁ、見た」<br /> そうか、とアレンは言って、焼酎をまた飲む。<br />「あれがなんの跡かわかるか?」<br /> 一拍間を置いてしまったが、それでも柊はさらりと答えた。<br />「煙草?」<br /> アレンが、ふっと笑って頷いた。<br />「俺の話をしていいか?いままで誰にも話したことはないし、結構悲惨な話だけど」<br /> 柊が無言で頷くと、アレンは自分の家族のことを話しはじめた。</span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
346

第4章 秘 密〈ⅵ〉

 人は、悲しい生きものだ。 許すことができない事実を抱えながら、許せない自分を責める。 相手を恨むことができたら、どんなに楽だろう。でも恨むべき相手が、最愛のひとだったとしたら? 人は過去を消せないし、それを抱えて生きていかなければならない。 たとえ思い出すのも苦痛な過去だったとしても。 過去は現在に繋がり、未来すら静かに侵食する。 灯里は三宅の話を訊いて、たまらなく淋しかった。 三宅も、三宅の妻... <span style="font-size:large;"> 人は、悲しい生きものだ。<br /> 許すことができない事実を抱えながら、許せない自分を責める。<br /> 相手を恨むことができたら、どんなに楽だろう。でも恨むべき相手が、最愛のひとだったとしたら?<br /><br /> 人は過去を消せないし、それを抱えて生きていかなければならない。<br /> たとえ思い出すのも苦痛な過去だったとしても。<br /> 過去は現在に繋がり、未来すら静かに侵食する。<br /><br /> 灯里は三宅の話を訊いて、たまらなく淋しかった。<br /> 三宅も、三宅の妻も、淋しすぎると思った。本当はお互いを想い合っているのに、それが不幸にすれ違う。いまも、すれ違ったまま、ふたりの季(とき)は止まったままだ。<br /><br /> せめて心を置き去りにできたら…そう考えて灯里は、ハタと思い当った。<br /> 心を置き去りにしたフリで愛しい人に抱かれる罪は、それこそ許すことなどできないほど重い。いつか、それは非情な運命の仕返しとなって自分を罰するだろう。<br /> リツを、定められた宿命を、愛しい幼なじみを、たくさんの周りの人と自分自身を裏切ってきた罪は、見えない力によって正しく罰せられなければならない。そしてそれこそが、あたしが本当に望み欲している安寧なのかもしれない。<br /><br /><br />「一杯だけ、つき合ってくれないだろうか」<br /> 新幹線を降りた三宅は、そう言った。<br /> 三宅が連れて行ってくれたのは、小さな小料理屋だった。濃紺の暖簾をくぐり、艶のある天然木の引き戸を開けると、カウンターとテーブル席が3つあるだけのこじんまりした店だった。<br /> 清潔に拭き清められた白木のカウンターに、三宅と並んで座る。<br />「生ビールでいいかな?」<br /> そう訊く三宅に、灯里は頷いた。料理は常連らしい三宅に任せた。<br /> 突き出しの分葱と薄揚げのヌタがおいしくて、続く品も楽しみになった。<br />「北川さんは、馬肉って食べたことある?」<br />「はい、馬刺しなら」<br /> ほぉ、と灯里の実家の家業を知らない三宅が眼を見張る。<br />「ここ、それがおいしいんだけど、試してみる?」<br />「はい、久しぶりだから嬉しい」<br /> 素直に笑う灯里に、三宅も嬉しそうな表情になる。<br /><br />「日本酒は飲める?」<br />「あまり得意じゃないですけど、少しなら」<br />「じゃあ、ビールの後は飲み口のいい冷酒にしようか」<br /> そのほかにも、灯里の好みを訊きながら、ウニの殻焼きや白レバーの炒め物などを頼んでくれた。この人は日本酒好きだな、と灯里は思った。<br />「でも、意外です」<br />「なにが?」<br />「だって証券会社時代、三宅課長は飲み会に誘っても、いつも断るって有名だったから」<br />「元々、お酒は好きなんだよ。でも、あんなことがあってからは、誰かと飲みに行くことはなくなった」<br />「そうですか…ごめんなさい」<br /> 気まずそうな顔になった灯里に、三宅は優しい眼で言った。<br />「気にしなくていい、私も気にしないから」<br /> それからしばらく灯里と三宅は、何気ない会話をしながら、お酒と料理を楽しんだ。<br /><br /> 小一時間ほど経った頃、三宅がぼそりと言った。<br />「北川さん、図々しいお願いだとは思うんだが、ときどきこうしてお酒につき合ってもらえないだろうか?」<br /> 思わぬ申し出に、躊躇して答えが見つからない灯里に、三宅は申し訳なさそうに言う。<br />「変な意味じゃないから。なんと言うか、心が寒くてね。ときどき、人恋しくなる」<br /> その思いは灯里にもわかる。でも、だからと言って、簡単には承諾しかねる申し出だ。<br />「あの…」<br />「うん?」<br />「三宅課長は、いつも食事はどうしてるんですか?」<br /> 意外な質問に、今度は三宅が真意を測りかねたようだった。<br />「こんな風に外食か、コンビニの弁当かな?」<br /> そうですか、と灯里はしばし考える。<br />「なぜ?」<br />「あたしの祖母が、あの入院している祖母が昔よく言ってたんですけど。きちんとした食事は、躰だけじゃなくて、心も健全にするって」<br /> なるほど、と三宅は淋しそうに笑った。<br />「いまの私は、食事も生活も心身も確かに不健全だ。だから淋しいなんてことを、ずっと年下のキミに臆面もなく言えるのかな?」<br /> 誤解されそうになって、灯里は慌てて言った。<br />「奥様がもし眼を覚まされたときに、悲しまれると思うんです。だって奥様は、課長のために毎晩、バランスの良い食事をつくって待っているような方だったんですよね?」<br /><br />「妻が…眼を…覚ます?」<br /> どこか希望を抱いていない眼で、三宅がそう呟いた。<br />「そんな日が、来るのだろうか」<br /> そう言って、三宅は冷酒をもう一本追加で頼んだ。<br />「実は、妻の両親に、もう離婚してやってくれと言われているんだよ」<br />「そう…なんですか?」<br /> 灯里が驚いて訊く。<br />「ああ。眼を覚ますかどうかわからない娘を、ずっと待っているのは気の毒だからと。本当は私のことを殴っても罵っても足らないだろうに、再婚して子供をつくったらなんて言ってくれてね」<br />「優しいご両親なんですね」<br />「ああ。だから尚更、自分の罪の重さに時折、耐えられなくなる」<br /> 責めてくれれば、むしろ救われると、三宅は言いたいのだろう。<br />「課長は、どうしたいんですか?」<br /> その問いに、三宅の顔が苦しそうに歪む。それはそうだろう、諦め切れるくらいなら、5年もの間見舞いに通わないだろう。でも、目を覚ます保証は、ないのだ。<br />「おかしなもので、眠っている妻の顔を見ていると、楽しかったことしか思い出さないんだ。つき合い初めによく言った場所だの、通っていた安いけどおいしい居酒屋、ケンカして仲直りのために買ったペンダントを彼女がずっと大切にしてくれてたこととか、結婚して初めてつくってくれたのが和風ハンバーグだったこととか、ね」<br />「仲の良いご夫婦だったんですね」<br />「彼女が私にしてくれたことの半分も、私はしてやれなかった気がする」<br /><br /> そう言う三宅に、灯里は思わず言っていた。<br />「課長。もし課長に奥様が目を覚ますのを待つお気持ちがあるなら、後ろ向きの待ち方じゃなくて、前向きに待ちましょう?」<br /> 前向き?と三宅が怪訝な顔をする。<br /> 灯里自身も、なぜそんな発想が出てきたのかわからなかったが、こう言っていた。<br />「料理を習いに行きませんか?そうしたら、課長の毎日の食事も改善されて、課長のことを心から思っている奥様も安心されるはずです」<br />「妻が…いまでも…私のことを思ってくれていると、キミは思うの?恨んでいるのではなく」<br /> 正直、それはわからなかったけれど、いまの三宅に必要なのは、慰めではなくて希望だと灯里は思った。だから、三宅の目を真っ直ぐに見て答えた。<br />「はい。奥様なら、きっと。そう信じましょう?そして目標を持ちましょう。奥様が眼を覚まされたときに、新婚時代の思い出の和風ハンバーグを、今度は課長が奥様につくってあげられるように」<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
345

第4章 秘 密〈ⅴ〉

 日曜日の午前中、灯里は料理教室にいた。 「家庭料理の基本」というコースにしたのは、三宅が一緒だからだ。少人数制のコースで、5人いる受講生のうち、男性は三宅一人。 初めは少し遠巻きにしていた他の受講生も、三宅が料理教室に通う理由を知ってからは、俄然、好意的になった。 今日のメニューはアジのつみれ汁と、タコときゅうりとわかめの酢の物、精進揚げだ。昼過ぎに出来上がった料理を、皆んなで試食している。「最... <span style="font-size:large;"> 日曜日の午前中、灯里は料理教室にいた。<br /> 「家庭料理の基本」というコースにしたのは、三宅が一緒だからだ。少人数制のコースで、5人いる受講生のうち、男性は三宅一人。<br /> 初めは少し遠巻きにしていた他の受講生も、三宅が料理教室に通う理由を知ってからは、俄然、好意的になった。<br /> 今日のメニューはアジのつみれ汁と、タコときゅうりとわかめの酢の物、精進揚げだ。昼過ぎに出来上がった料理を、皆んなで試食している。<br />「最初は、北川さんとおつき合いされているか、ご夫婦だと思ったのよ」<br /> と先生までが言う。<br />「そうそう。でも年齢が少し離れているから、実は不倫かしらなんて噂もあったの」<br /> と新妻の井上さん。<br />「だけど、奥様のためにねぇ」<br />「その話を訊いて、ちょっと感動しちゃった」<br /> 30代のOL中野さんと、20代のOL松永さんも言う。<br /> 女性に囲まれた黒1点の三宅は、それでもまだ居心地が悪そうだ。<br />「いやあ、最初は皆さんの視線が、痛かったです。でも、そこで怯んじゃ、誘ってくれた北川さんにも悪いし」<br />「そうね、北川さんは、もう基礎コースじゃなくてもいいものね」<br /> と先生が言う。<br />「その点も、申し訳なく思ってるんですよ」<br />「大丈夫ですよ、三宅課長。3ヶ月後には、独り立ちしてもらいますから」<br /> と言う灯里に、中野さんと松永さんが言う。<br />「じゃ、そのときは私たちが、サポートしてあげますよ」<br />「なんだか、情けないな。でも、ありがとうございます」<br /> と三宅は頭を掻いた。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 祖母の見舞いに行った療養病院で偶然、三宅課長に会ったのは1ヶ月前のことだ。そしてその帰りの新幹線の中で、三宅はなぜ彼の妻が療養病院に入院することになったかを訥々(とつとつ)と語った。<br /> おそらく、これまで自分独りで抱えて苦しんできたのだろう。ずっと押し込められていた後悔や自責の念は、遅かれ早かれ、出口を求めて決壊していたはずだ。それがたまたま偶然に会った、長い間家族を見舞い続けるという似たような状況にあった灯里だったというだけのこと。<br /> しかし状況は似ていても、抱える深刻さは似て非なるものだった。<br /><br /> 三宅の妻が長期入院するきっかけは、自殺未遂だった。<br />「原因は、私だ」<br /> と三宅は淡々と言った。そこには苦しみ抜いた、もはや事実を受け止めるしかできない男の達観があった。<br />「私と妻は大学の同級生で、学生時代からのつき合いだった」<br /> ごく普通に情熱的な恋愛をして、仕事にも慣れた社会人5年目に三宅の方からプロポーズして結婚したと言う。奥さんの返事は、迷わずYesだったそうだ。<br />「ふたりとも、そうなるような気がしていて、何の疑問も持たずに当たり前に結婚したんだ」<br /> しばらくは共働きだったが、やがて奥さんは正社員を辞めてパート勤めになった。仕事をしながら家事をするのは負担が大きかったし、そろそろ子供が欲しいというふたりの思いもあったからだと言う。<br />「もともと家のことはきちんとしたいタイプだったし、パートになってからは、夕食も私の健康面を考えてバランスの良いものをといろいろ工夫してくれてね。いい妻だった」<br /><br /> しかし三宅は、唯一つ、心にわだかまりを抱えていた。<br />「私は妻が初めてだったんだが、妻はそうではなかった。互いに結婚を意識する頃になって、急に妻はそれを気にしはじめてね。そんな小さな男じゃないと、そのときは怒ったんだ、本心から」<br /> けれども結婚して、ああ、これでもう自分の人生は妻一人しか知らないままで終わるのかと、ふと思ってしまったのだそうだ。 <br /> そんなとき、一身上の都合で退社する部下の送別会に出た。1次会が終わって、結構飲みすぎてしまった彼女を送る道で、「課長のことが好きでした」と告白されたのだと言う。<br />「酔った勢いなんて言い訳にもならないが、男女の関係になってしまった」<br /> 彼女のことが好きだったわけではない。彼女も、最後にたった1度だけと言うので、誘いに乗ってしまった。そして、初めて妻以外の女性の躰を抱いてしまった。<br />「正直、これほど違うのかと思ってしまった。どちらが良いとか悪いとかではなく、とにかく体型から性格まで全く違うタイプだった」<br /> 最後に一度だけ、という彼女の言葉通り、彼女とはそれきり互いに連絡も取り合わないことにした。その後半年くらい経って、彼女が結婚したことを噂で聞いた。<br />「しかし、それから私はおかしくなってしまったんだ」<br /><br /> 女性は皆違うのだという事実が、予想以上に強烈だった。それから自ら積極的に、そういう機会があれば女性と一夜限りの関係や、セフレ的な情事を楽しむようになってしまった。<br /> 毎晩きちんと夕食をつくり待っている妻には悪いが、仕事と偽って遊び歩く夜も増えた。<br />「妻は最初の情事から、気づいていたんだ。女性というのは驚くほど、勘がいいからね。でも、たった一度の遊びだと、目を瞑ることにしたんだそうだ」<br /> それが一度どころか、それをきっかけに夫はどんどん奔放になっていく。<br /> とうとう、激しい夫婦喧嘩になった。<br />「心を入れ替えてくれれば、これまでの全てを水に流すと言ってくれた優しい妻に、私は酷い言葉を投げつけてしまった。男として、いや人間として許されない卑怯な言葉をね」<br /> 許すと言った妻の器の大きさに、ずっと心の底でこだわり続けて来た自分の器の小ささを思い知らされたようで、開き直ってしまったのだ。<br />「僕は、キミが最初で独りだけだったんだ。でもキミは、比べる対象があったよね。僕だって、そういう対象を持ってみただけだよ」<br /> そのときの妻の顔が、忘れられないと三宅は言った。<br /> その表情は、気にしないといった夫の言葉が強がりだったことを知って、彼女が抱え続けてきた自責の念が再び傷口を開いたことをありありと伝えていた。<br />「私を責めてくれれば良かったんだ。だが、彼女は自分を責めた」<br /><br /> ある日、妻の好きな花を買って、早めに帰宅した三宅は信じられない光景を目の当たりにした。眠れなくなっていた妻が飲んだ、大量の睡眠薬。ベッドで倒れている妻の隣に、空っぽの瓶と薬を流し込んだと思われるウイスキーのグラスが転がっていた。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
344

第4章 秘 密〈ⅳ〉

「なんで、わざわざ大学から遠いところへ引越したの?」 Aランチのポークピカタをもりもり食べながら、星奈が訊く。「遠いっていったって2駅違いだし。それにジムに近い」「はぁ?柊、私たちがいま集中しなければいけないのは、研究と実験だよ?ボクシングじゃないでしょ」 わかりきったことを説く、柊の状況を全くわかっていない星奈を、アレンは最高だなと思う。 シンプルで、裏表がなくて、強くて、頭が良くて、男女の機微に... <span style="font-size:large;">「なんで、わざわざ大学から遠いところへ引越したの?」<br /> Aランチのポークピカタをもりもり食べながら、星奈が訊く。<br />「遠いっていったって2駅違いだし。それにジムに近い」<br />「はぁ?柊、私たちがいま集中しなければいけないのは、研究と実験だよ?ボクシングじゃないでしょ」<br /> わかりきったことを説く、柊の状況を全くわかっていない星奈を、アレンは最高だなと思う。<br /><br /> シンプルで、裏表がなくて、強くて、頭が良くて、男女の機微に疎くて、飯の食い方が豪快だ。実に小気味いい。<br /><br />「あのな、星奈。柊は研究と実験に集中するために、わざわざ引越したんだよ。そうじゃないと、気になって悶々として、夜も眠れない」<br /> そう皮肉るアレンに、柊は余計なことを言うな、という視線を投げる。<br />「どういうこと?」<br />「わかんなくていいよ、処女には」<br /> あけすけなアレンの言葉に、星奈がかっと赤くなる。<br />「しょ、処女は関係ないでしょ!てか、セクハラだって何度言ったらわかるんだぁ~、このえろタイガー!」<br /> 箸をぶんぶん振り回して怒る星奈に、それじゃ、アレンの思うツボだと柊はため息をつく。<br /> 組合せ的に全然似合わないBランチの鮭の塩焼きを食べながら、アレンが言う。<br />「関係あるんだよ、星奈。処女だから、男女のデリケートな関係がわからないんだぞ」<br />「わかんなくていーもん。そんなことより私にとっていま一番大事なのは、研究と実験なのっ」<br /> もうすっかり処女だと認めてしまっていることに、どうやら星奈は気づいていないらしい。<br />「だから、いっそ、俺に処女を奪われてみないか?」<br />「ば、ばか。アレンなんか好きじゃないし」<br />「好きになれなんて言ってないよ。だた、躰をあずけてみろって言ってるんだ。大丈夫だ、俺は巨乳好きだし」<br /> アレンが星奈の胸の辺りに、露骨に視線を投げかけて言う。<br />「やだ。まかり間違っても、アンタだけはないっ」<br />「初体験するなら、上手いほうがいいぞ。俺なら、そんなに痛くなくしてやれる」<br /> 昼どき、学食でする会話ではないが、いやその前に、女子に面と向かってする提案ではないが、アレンは全然意に介さない。<br /> さすがの星奈も、涙目になる。<br />「柊、このえろタイガー、ぶん殴って」<br />「あのな、星奈。お前、そんなんだと一生、処女のままだぞ。70になっても、80になっても、偉~い学者になったとしてもだ」<br />「アレン、いい加減にしろよ」<br /> さすがの柊もそう言ったが、星奈の答えは予想を遥かに超えていた。<br />「いい。偉い学者になれるんなら、一生処女のままでもいい」<br /> とうとう呆れたアレンが言った。<br />「わかったよ。そこまで言うなら、頑張れ。必ず、偉い学者になれよ」<br />「なるっ」<br /> アレンの負けだな、と柊は思った。<br />「じゃ、俺行くわ」<br /> そう言うと、アレンはトレイを持って先に学食を出て行った。<br /><br />「コーヒー飲む?奢るよ」<br /> ふくれっ面でポークピカタを食べ続ける星奈に、柊はそう訊く。星奈が黙って頷いたので、柊は食べ終わったAランチのトレイを下げがてら、コーヒーの自動抽出販売機へ向かった。<br /> コーヒーの紙コップを持って戻ろうとする柊の眼に、4人の女子に囲まれている星奈が見えた。なんだろうと思いながら席に戻った柊に、星奈がちょっと興奮して言う。<br />「あ、柊、いいところに。柊からも言ってやって。私とアレンはただの元同級生だって。あ、違うな、アレンは私の天敵だって」<br />「なに?どういうこと?」<br /> そう4人の女子を見ると、そのうちの一人が言った。<br />「あの、私たち、アレン先輩のファンクラブつくってるんです。それで、今井さんとアレン先輩はおつき合いしてるのかなぁって、ずうっと思ってたので…」<br /> また増えたんだ、ファンクラブ。毎年、新入生が入るたびに増えて、いまいったい幾つあるのかわからないくらいだ。<br />「星奈の言うとおりだよ。男とか女とかお互い全く意識してない悪友同士だから、僕たちは」<br />「きゃあ」<br />「よかった」<br /> と無邪気に喜ぶ4人。<br />「そうですよね、そうは思ったんですけどぉ」<br /> と彼女たちは、化粧っ気のない、髪も後ろで無造作に一つにまとめた星奈を見て言う。ちょっと失礼な視線だけど、そんなことを全く気にせず、誤解が解けたのを喜んでいる星奈は凄く可愛い女だと柊は思った。<br /><br />「あのぉ」<br /> 今度は彼女たちが、柊に訊ねてくる。<br />「じゃあ、アレン先輩って好きな人とか、つき合ってる人とかいないんですかぁ?」<br />「アレンに直接聞けば?アイツなら、正直に答えるよ」<br /> すると4人はもじもじしながら言う。<br />「アレン先輩は、ファンクラブの皆んなが俺の恋人だって言うんです。心に想う人は、秘密にしておくほうがミステリアスじゃないかって言って、はぐらかすんです」<br />「げ、ミステリアス?あの、あけすけえろタイガーが?」<br /> 思わず、星奈がコーヒーを吹き出しそうになる。<br /> まったく、お前はどこの大スターだよ、と柊は心の中で突っ込みながら言った。<br />「アレンがそう言うなら、僕たちはそれ以上、わからないよ。なぁ、星奈」<br /> すると星奈は、再び仰天するような発言をした。<br />「あ、でも。アレンの好きなタイプは知ってるよ」<br /> 4人の眼がいきなりキラキラと輝きだして、また星奈に集中する。<br />「ホントですかぁ?」<br />「うん、アイツが好きなタイプは巨乳」<br />「き、巨乳…」<br /> 彼女たちの眼が戸惑ったように泳いで、あ~あ、星奈やらかしたなと柊は思う。<br />「あとね、エロい女」<br />「え、エロい…」<br /> 彼女たちが顔を見合わせる。そして揃ってため息をつくと、一人が星奈に言った。<br />「ありがとうございました。とっても参考になりました」<br /> 嘘だろ、とまた柊は突っ込んだが、星奈は嬉しそうに言う。<br />「どういたしまして。また訊きたいことがあったら、何でも言って。あ、答えられるかどうかわからないけど」<br />「はぁ~い、ありがとうございましたぁ」<br /> 彼女たちは見事な愛想笑いを浮かべて星奈にそう言ったけれど、次はないなと柊は思った。でもまぁ、星奈にとってはその方が平和だろう。<br />「さぁて、研究室戻るよっ!」<br /> 勢いよく立ち上がった星奈に、柊は苦笑しながら従った。<br /><br /> そう言えば。<br /> アレンとのつき合いは長いけど、これまで彼女らしき存在がいたことってなかったな。周りに女子はわんさかいて選び放題だというのに、遊び回ってる感じもしない。まあ、手当たり次第に遊んでいたら、ファンクラブはすぐに吊るし上げクラブに豹変するだろうけど。<br /> アレンの尻にあった跡を思い出しながら、そこに秘められた訳があるように柊は感じた。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
343

第4章 秘 密〈ⅲ〉

この記事を閲覧するにはパスワードが必要です<br /> ⇒<a href="http://otonaasabi.blog.fc2.com/blog-entry-343.html?entrypass">パスワード入力</a><br />
342

第4章 秘 密〈ⅱ〉

この記事を閲覧するにはパスワードが必要です<br /> ⇒<a href="http://otonaasabi.blog.fc2.com/blog-entry-342.html?entrypass">パスワード入力</a><br />
341

第4章 秘 密〈ⅰ〉

 ゴールデンウィークの連休最後の日、柊は東京へ戻ってきた。 一旦、荷物をアパートに置くと、土産を持って柊は灯里のマンションへ向かった。土産は故郷の銘菓で、柊は散々悩んだ結果、あえて生まれ育った地を嫌でも思い出させるものにした。どこか本心を隠したまま苦しんでいるようにも見える灯里の仮面を、何をきっかけにしてでもいいから、剥ぎたいと思っていた。 チャイムを鳴らし、程なくして玄関のドアを開いた灯里の部屋... <span style="font-size:large;"> ゴールデンウィークの連休最後の日、柊は東京へ戻ってきた。<br /> 一旦、荷物をアパートに置くと、土産を持って柊は灯里のマンションへ向かった。<br />土産は故郷の銘菓で、柊は散々悩んだ結果、あえて生まれ育った地を嫌でも思い出させるものにした。どこか本心を隠したまま苦しんでいるようにも見える灯里の仮面を、何をきっかけにしてでもいいから、剥ぎたいと思っていた。<br /> チャイムを鳴らし、程なくして玄関のドアを開いた灯里の部屋から、なんだかいい匂いが漂う。灯里は白いエプロン姿で、その初々しい可憐さに柊は仮面を剥いでやろうと目論んだ出鼻を挫かれた。<br />「柊ちゃん」<br />「いま、帰ってきたんだ」<br />「そう」<br /> すぐに柊を招き入れられないのは、迷いがあるからだ。<br /> ほんの数日間なのに、柊と離れている時間が自分でも驚くほど長くせつなく感じられた。逢いたさと愛おしさが募って、自らの躰を両手で抱きしめた。ぬくもりを知らなければ忘れたフリをして過ごせたあの年月が、ぬくもりを知ったいまは、どうして離れていられたのか信じられないほどだ。<br /> その反面、灯里の中には、自分からはじめた柊との関係をこのまま続けることへの後ろめたさと、終わらせることへの恐怖感が芽生えはじめていた。<br /><br /> 繭里と自分のために子犬を飼ってくれた柊ちゃん、お母さんの卵焼きを何も言わず渡してくれた柊ちゃん。そのほかにも、これまで自分はどれだけこの年下の幼なじみに甘えてきたんだろうと思い返された。断れない彼の優しさを利用している自分に嫌悪感を募らせながら、柊に抱かれて快感を教え込まれることへの抗いがたい渇望。自分はなんて弱くて卑怯なんだろうと、灯里は思う。<br /><br />「お土産があるんだ」<br /> とうとう柊の方から、半ば強引に灯里の部屋へ上がってしまった。<br /> そしてダイニングテーブルやキッチンに並べられた、たくさんのジップロックやフリージングパックに目を見張る。なるほど、いい匂いの正体はこれか、と柊は思った。<br />「晩御飯用のストックや、お弁当の常備菜をつくってたの」<br /> 灯里が慌てて、それらを片づけながら言う。<br />「休みの日はいつも?」<br />「まぁ、大体ね」<br /> 灯里らしい家庭的でつましい行動に、柊は思わず笑みが溢れる。<br /> そして思い出したように、お土産の箱を差し出した。<br />「これ…」<br />「うん、懐かしいでしょ?」<br /> それは灯里の実家である料亭にも出入りしている老舗菓子屋の和菓子で、土産物としても有名なものだ。故郷を嫌でも思い出させるそれを、灯里は黙って受け取った。<br /> 柊は灯里の反応を密かに窺うが、毎月のように祖母の見舞いにひっそり帰郷している灯里に動揺はない。<br />「お茶、淹れるね」<br /> そうなんでもないように言って、やかんに水を入れると火にかけた。お湯が沸く間に、箱の包装紙を丁寧に剥がして畳む。そしてお皿に菓子を乗せて、フォークを添えて柊の前に置いた。<br /> それから茶葉を入れた急須と茶碗を用意して、お湯が沸くとまず茶碗にそれを注ぐ。指で温度を確かめるようにして、茶碗のお湯を急須に移した。それから待つこと約1分、灯里は急須のお茶を茶碗に注いで差し出した。<br /><br /> その一連の所作を見て、まだ小学生の灯里が、柊の家でお茶を淹れたときの母の驚きを思い出した。<br />「灯里ちゃんは、いつもそんな風にお茶を淹れてるの?」<br /> 一瞬きょとんとして、それから灯里は赤くなった。<br />「お祖母様にはナイショ。本当は湯冷ましに注いだのを急須に入れるんだけど、あたしは独りのときはいつもこうして簡単に済ますの」<br />「そうじゃなくて…」<br /> 母が絶句していた。<br /> だいたいいまどきは、大人でも平気で熱湯をそのまま急須の茶葉に注ぐ。茶碗をあらかじめ温めておくなんてこともしない。それを灯里は湯冷ましの代わりに茶碗にお湯を注ぐことで、茶碗を温めると同時に、急須に入れたときのお湯の温度を煎茶に適した約80℃になるようにしたのだ。しかも温度は指の感覚が覚えていると言う<br /> こうしたことを小学生で事も無げにやってのけたのだから、柊の母が驚くのも無理はない。<br /> <br /> 本当に灯里はちっとも変わらない、と柊は思う。素直で真っ直ぐで、凛としていて純粋だ。<br />「灯里は変わらないね」<br /> 思わずそう言った柊の言葉に、灯里の表情が曇る。<br /><br /> それは、柊ちゃんの幻想だよ。<br /><br />「灯里。今度、帰ってみないか?僕と一緒に」<br /> 灯里は一瞬、驚いたように柊を見たが、激しく拒絶するように頭を振った。<br />「どうして?」<br />「あそこはもう、あたしが帰ってはいけない場所なの」<br /><br /> 帰ってはいけない場所?それは帰りたくても、帰れないってことか?<br /> <br />「ねえ、灯里。教えてくれないか」<br /> その問いの意味を正確に察して、灯里はいっそう頑なに首を振る。<br /><br /> 何があったかなんて言いたくない、言えるわけない。<br /> <br /> わかったよ、灯里。キミから話してくれるまで、僕は待つよ。<br /><br /> 柊はふぅ、とため息をつくと、安心させるように話題を変えた。<br />「そうだ、灯里。見せたいものがあるんだ。一緒に来てくれる?」<br />「何?どこへ?」<br />「一緒に来ればわかる。すぐ近くだから、何も持たなくていい」<br /> そう言って立ち上がる柊を怪訝に思いながら、灯里は白いエプロンを外した。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
340

第3章 キミが居た場所〈ⅷ〉

「お姉ちゃん」 リツが料亭を取り仕切っている時間を見計らって、繭里が離れに遊びに来た。 灯里にとって繭里は、母は違えど可愛い妹で、心を許せる唯一の肉親だった。厳しいリツにも、甘えられない父にも感じたことのない、温かな安らぎを感じるかけがえのない存在なのだ。 繭里は少し甘えん坊で、女の子らしく、無邪気で裏表のない性格をしている。そして灯里を心から姉と慕ってくれている。「あのね、プリンをつくったの」 ... <span style="font-size:large;">「お姉ちゃん」<br /> リツが料亭を取り仕切っている時間を見計らって、繭里が離れに遊びに来た。<br /> 灯里にとって繭里は、母は違えど可愛い妹で、心を許せる唯一の肉親だった。厳しいリツにも、甘えられない父にも感じたことのない、温かな安らぎを感じるかけがえのない存在なのだ。<br /> 繭里は少し甘えん坊で、女の子らしく、無邪気で裏表のない性格をしている。そして灯里を心から姉と慕ってくれている。<br />「あのね、プリンをつくったの」<br /> 繭里はお菓子づくりが趣味で、学校の調理部だけでは飽き足らず、休みの日はしょっちゅうお菓子をつくっている。母親の万祐子と同じく上手で、それをときどき持って遊びに来るのだ。<br />「繭里、部屋へ行ってて。紅茶淹れて、持って行くから」<br />「うん、わかった」<br /> 繭里はリツにとっても可愛い孫のはずだが、灯里に対するのとは態度が違う。灯里には厳しい愛情を持って、繭里には関心の薄い優しさを持って接する。それが灯里と繭里の両方を傷つけていることに、リツは気づいていない。だから咎められるわけでもないのに、なんとなくリツの目を盗むような雰囲気になってしまうのだ。<br /><br /> ティーポットに紅茶を入れて、2人分のカップ&ソーサーとプリン用のスプーンを持って、灯里は繭里の待つ部屋へ行った。繭里用には、小さな容器に入ったフレッシュミルクと細長い紙筒入りのシュガーを2つずつ。<br />「お姉ちゃん、今日は繭里、お砂糖いらない」<br />「なんで?」<br />「プリンが甘いから」<br /> プリンより甘いケーキのときだって、お砂糖は2つ入れる繭里なのに、めずらしいなと灯里は思う。でも気にしないようにして、灯里は繭里が渡してくれたプリンをひと口スプーンで救った。<br />「おいしい」<br /> 繭里の顔が、ぱっと明るくなる。<br />「ほんと?」<br /> 繭里もプリンを食べて、紅茶を飲む。<br />「う~ん、やっぱりお砂糖、1つだけ入れる」<br /> 灯里は笑って、繭里に砂糖を渡してやった。<br />「お姉ちゃんは、どうして太らないのかなぁ?」<br /> 繭里がそう羨ましそうに言って、プリンを食べる。<br />「新体操してるから?それともダイエットしてるから?」<br /> レオタート姿に鏡は正直だから、食べ過ぎには注意しているが、特別ダイエットをしている訳ではない。しいて言えば、繭里よりは太りにくい体質だと思う。<br /> 繭里は母の万祐子に似て、骨が細い。だからそれほど贅肉がついているわけではないのに、やわらかで女らしい体型に見えるのだ。<br />「食べ過ぎないようにはしてるけど、たぶん体型が男っぽいんだよ。胸もないし。あたしはむしろ、繭里の胸が羨ましいよ」<br />「胸はこのままで、躰はお姉ちゃんみたいに細くならないかなぁ」<br />「胸はそのままでって、贅沢だよ」<br /> 繭里の無邪気な願望に、灯里は笑う。<br />「それに繭里は女の子らしくて、可愛いよ。あたしの方が羨ましいよ」<br /> でも…そうかなぁ…と繭里は立ち上がると姿見の前へ行って、ウエストを捻ったり、横向きで体のラインを確認したりしている。めずらしく、プリンは半分食べただけだ。<br /> その姿がいつになく真剣な気がして、灯里は訊ねた。<br />「どうしたの?いつもは、でもやっぱり甘いものの誘惑には勝てないって言うくせに」<br /><br /> そんな灯里の前に戻ってきた繭里が訊く。<br />「お姉ちゃんは、勝哉さんが好き?」<br /> え…。 灯里は絶句した。<br />「許婚になるくらい、好き?」<br /> 許婚になったのは好きという感情とは無関係だと、灯里は言いたかった。<br />「どうして?」<br />「うん…なんとなく」<br /> もしかして、と灯里は思った。繭里は勝哉さんを…。だけど、そんな衝撃的な事実、簡単には確認できない。<br />「好き、なんて気持ち、あたし、わからないの」<br /> 灯里はそう言った。本当は嘘だ、柊を想う気持ちはまさに「好き」以外の何物でもない。<br />「そう、なの?」<br /> 不思議そうに、繭里が首を傾げる。<br />「繭里はね、いるの。好きなひと」<br /> 誰?と訊こうとした声が、声にならなかった。<br />「でもね、片思いなの」<br /> 繭里はそう続ける。<br />「片思いは、せつないよね」<br /> 柊に言ったのと同じ言葉を、繭里は繰り返した。<br />「片思いって、わかってるの?」<br /> 灯里は、つい探るように訊いてしまう。その答えを訊くのが、怖いくせに。<br />「うん、たぶん」<br /> 繭里はそう言って、再びプリンを食べはじめる。<br />「でもね、告白しようと思ってる。もしも、N女學館に受かったら」<br /> 頑張ってというべきなのだろうか。もし繭里の好きな相手が勝哉だとしたら、灯里の「頑張って」は皮肉にしか聞こえないだろう。<br />「ダメもとでね」<br /> そう言って、繭里は可愛らしくペロ、と舌を出した。<br /><br />「繭里。お祖母様には内緒だけど、あたし、東京の大学に行こうと思ってるの」<br />「東京?」<br />「うん、それも4年制」<br /> 繭里はちょっと驚いたような表情をした。それはリツに逆らう行為であり、そんなことを灯里がするのは想像できないのだろう。<br />「お姉ちゃん、本気?」<br />「うん。あたしにもあたしの、意思と未来があるから」<br />「そっか」<br /> 繭里は、その言葉に何かを感じ取ったようだ。<br />「お姉ちゃん、頑張ろ。あたしたち」<br /><br /> ふたりの決意は、2年後のそれぞれの運命を、奇しくも暗示しているようだった。</span><br /><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
339

第3章 キミが居た場所〈ⅶ〉

 連休最後の午後、灯里は料理に励んでいた。遅く帰った日も簡単に晩御飯の用意ができるストック料理と、お弁当にも便利な常備菜づくりだ。 まず大量の挽肉を使って、ミートボールとそぼろを作る。ミートボールは焼いて小分けにして冷凍しておけば、デミグラスソース味やトマト味の洋風はもちろん、甘酢の中華風にと使いやすい。野菜と煮込めば胃と心に優しいスープになるし、焼き豆腐と煮込んでもおいしい。そぼろは炒り卵と2色... <span style="font-size:large;"> 連休最後の午後、灯里は料理に励んでいた。遅く帰った日も簡単に晩御飯の用意ができるストック料理と、お弁当にも便利な常備菜づくりだ。<br /> まず大量の挽肉を使って、ミートボールとそぼろを作る。ミートボールは焼いて小分けにして冷凍しておけば、デミグラスソース味やトマト味の洋風はもちろん、甘酢の中華風にと使いやすい。野菜と煮込めば胃と心に優しいスープになるし、焼き豆腐と煮込んでもおいしい。そぼろは炒り卵と2色のそぼろご飯にしたり、あらかじめ味つけしてあるので麻婆豆腐にしたり、野菜炒めにしたりと使い勝手がいい。ササミも大量に蒸し、半分は細く裂いて冷凍しておく。サラダにしたり、あんかけの具にしたり、チーズを乗せて焼けくだけでも1品になる。<br /> 常備菜は切干大根や、人参とツナの煎り煮、いろいろキノコのマリネ、おから。おからは水ではなく、牛乳を入れて炊くと自然な甘さで上品な白さに仕上がる。<br /> 何も考えず無心になれる料理を好きになったきっかけは、お弁当づくりだった。<br /><br /> 高校生になって、それまで給食だったお昼がお弁当になった。<br /> 仲の良くなったばかりの友達3人と机を合わせて、お弁当を開けた灯里は、すぐにパタンと蓋を閉めた。<br />「ん?どしたの、灯里?」<br /> と訊かれて、灯里はちょっと…と口ごもった。<br />「なんか、変なものでも入ってたの?」<br /> 変なものどころか、プロの板前がつくったお弁当は、松花堂弁当かと見紛うほどの豪華さ美しさだった。目の前に開かれている、それぞれ母親の愛情あふれる手づくり弁当とは明らかに違う。灯里は、変な汗が出る。<br />「どうしたの?」<br /> 友達3人が心配して、食べはじめるのを待ってくれているので、灯里は観念した。<br />「う、うゎあ~、何?この凄いお弁当?誰がつくったの?」<br /> 友達が皆、目を丸くして驚いている。だから正直に、自分の家が料亭であること、そこで働く板前がつくったことを白状した。<br />「なぁ~んだ、そうなんだ。灯里ったら、どこのお嬢様かと思ったよ」<br /> それから、灯里は自分のお弁当くらい自分でつくろうと決心した。<br /><br /> リツに言うと、あっさり承諾してくれた。<br />「あなたも、そろそろ料理くらいつくれるようにならないと。良い機会です」<br /> 初めは卵焼きとウインナー以外は、板前が届けてくれる煮物や和え物等でなんとか形にしていたが、もともと嫌いではなかったのだろう。灯里のお弁当づくりは、どんどん上手になっていった。忙しい朝に短時間でつくるコツも覚え、リツに味見してもらったりもした。<br />「少し味が濃いけれど、お弁当にはいいかしら」<br />「全体の彩りが悪いわねぇ。料理は目で楽しむものでもあるのだから、そこにプチトマトでも入れてみなさい」<br />「冷めたときにおいしいかどうかを考えないと。あと、時間が経って色が悪くなるものは入れないほうがいいわね」<br /> そんなアドバイスもしてくれて、祖母と孫らしい会話が灯里は嬉しかった。<br />「でも、血筋なのかしらね。やはり、センスがいいわ」<br /> とリツが遠い目をしてぽつりと言ったときは、不思議な気持ちになった。<br /> 血筋?それはきっと板前の父のことだろう。でもセンスって言葉がなんだか父には似合わないな、と思ったけれど。<br /><br /><br /> そんなある日、日曜日の夕方にいつものようにリツと灯里の夕食が、厨房から届けられた。<br />「灯里お嬢さん」<br /> そう声を掛けたのは、いつもの見習いの板前ではなく勝哉だった。<br /> リツが灯里と勝哉の許婚の件を発表してから、若い修行中の板前ではなく、ときどきこうして勝哉が夕食を届けてくるようになった。それがリツの差金だとわかっているだけに、灯里の心が沈む。それでも無理に笑顔をつくって、灯里は勝哉にお礼を言った。<br />「こちらは温め直ししなくても、そのままで。こっちはお酒を振りかけて、小鍋でゆっくり温めてください」<br /> いつものようにそう教えてくれながら、勝哉は大きめの配膳箱に入ったそれをダイニングテーブルに置いた。<br /> 普段ならそれで厨房に戻るはずなのに、今日に限って勝哉は何か言いたそうにしている。灯里が怪訝そうな表情を浮かべると、少し照れた表情で勝哉が紙製の手提げ袋を差し出した。<br />「これ…」<br />「?」<br />「休みの日に街に行ったら、可愛らしかったんで」<br /> そう言って、戸惑う灯里にそれを押しつけるように渡すと、勝哉は逃げるように戻って行った。<br /><br /> 赤いリボンがついた包装を解き、小さな箱を開けると、そこには花を繋いだ可愛らしいペンダントが入っていた。<br /> ふぅ、と灯里はため息をつく。困ったな、返すことはできない。でも、身につけることもできない。灯里はそれを自分の部屋の、チェストの引き出しの奥の奥へ、そっと押しやった。<br /> それからも勝哉は週に一度は若い板前の代わりにやってきては、灯里と少しでも会話をしようとする。<br />「お弁当の1品にと思って」<br /> と味はプロ級、見た目は家庭料理風の煮物を渡してくれたり、<br />「秋の懐石コースの新作にと考えたんですけど」<br /> とリツが認めるだけある絶品の1品2品を試食させ、感想を求めたりした。<br /> しかし勝哉のそうした努力は、灯里にとって苦痛でしかない。やがて勝哉は、こう言うまでになった。<br />「俺は、灯里お嬢さんが好きです。でも女将さんは、灯里お嬢さんはまだ子供で許婚っていう意味が実感できてないって。いいです、ゆっくり時間をかけてください。俺、待ってますから」<br /> 灯里のぎこちない対応を、勝哉は幼さゆえの少女の恥じらいだと思っているようだった。いや、もしかしたら、そう思いたかったのかもしれない。</span><br /> <br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a>
338

第3章 キミが居た場所〈ⅵ〉

 中学2年生になった秋、県内トップの高校への進学を目指す柊は、受験勉強に没頭することで余計な諸々を忘れようとしていた。 昼御飯を家族で食べて、1時間ほど休憩したらまた勉強しようと思っていたところへ、来客を告げるインターホンが鳴った。インターホンの子機を取った母の瞳が言う。「あら、繭里ちゃん」 繭里?なんだろう、と柊は思った。 瞳が玄関で、繭里と何か話している。「柊」 と母に呼ばれて、柊は繭里の来て... <span style="font-size:large;"> 中学2年生になった秋、県内トップの高校への進学を目指す柊は、受験勉強に没頭することで余計な諸々を忘れようとしていた。<br /> 昼御飯を家族で食べて、1時間ほど休憩したらまた勉強しようと思っていたところへ、来客を告げるインターホンが鳴った。インターホンの子機を取った母の瞳が言う。<br />「あら、繭里ちゃん」<br /> 繭里?なんだろう、と柊は思った。<br /> 瞳が玄関で、繭里と何か話している。<br />「柊」<br /> と母に呼ばれて、柊は繭里の来ている玄関へ行った。<br />「どうしたの?」<br />「あ、柊ちゃん。あのね、これ」<br /> と繭里が小さな箱を差し出す。<br />「何、これ?」<br />「カップケーキ」<br />「カップケーキ?」<br />「うん。調理部の仲間でつくったの」<br />「僕に?」<br />「うん」<br />「ありがとう」<br />「柊、入ってもらったら?」<br /> と瞳が言う。<br />「あ、そうだね。繭里、お茶飲んできな。一緒に食べようよ、カップケーキ」<br />「いいの?勉強の邪魔じゃない?」<br /> と繭里が眼を輝かせる。その姿を見て、本当に繭里は正直で無邪気だな、と柊は思いながら頷いた。<br /><br />「おじさん、お邪魔します」<br /> とダイニングに入ってきた繭里が、リビングのソファに座ってテレビを見ている父の健に挨拶する。<br />「ああ。繭里ちゃん、いらっしゃい」<br />幼い頃から知っている娘のような繭里に、父が相好を崩す。<br />「繭里ちゃん、紅茶でいい?」<br />「はい」<br /> 繭里がミルクをたっぷり入れた紅茶を好きなのも、瞳はよく知っている。<br />「柊ちゃん、開けてみて」<br /> と繭里がカップケーキの箱を柊の前に押し出す。柊が開けてみると、デコレーションがそれぞれ異なる5個のカップケーキが入っていた。<br />「あら、可愛い。皆んな、飾りが違うのね」<br /> 瞳が覗き込みながら言う。<br />「ねえ、柊ちゃん、どれが好き?」<br /> 繭里が悪戯っぽい眼になって、柊に訊く。<br />「え…どれも、おいしそうだよ」<br /> 質問と繭里の表情の意図をくみ取りかねて、柊はそう言った。<br />「ダメダメ、どれか1つ選んで!」<br /> そう命令口調で言う繭里と柊の前に、瞳が紅茶を置いた。<br />「ありがとうございます、おばさん」<br />「なあに?繭里ちゃん、占いかなんか?」<br /> うふぅ、と繭里が笑って瞳を見上げる。しょうがないので、柊は一番シンプルなデコレーションの1つを選んだ。<br />「これ、かな?」<br />「うわぁお!瑞希ちゃんのだ」<br />「?」<br /> 怪訝そうに見る柊に、繭里は嬉しそうに種明かしをした。<br /><br />「あのね、実はね。調理部の中で、柊ちゃんファンの5人がそれぞれ工夫を凝らしてつくったカップケーキでぇ~す!」<br /> その言葉に、健が振り返った。<br />「え、なに?柊のファンなんて、いるのか?」<br />「やだぁ、おじさん。柊ちゃんモテるんだよ。勉強は学年トップだし、バスケだってキャプテンじゃないけどレギュラーだし」<br />「へぇ、知らなかった。で、繭里ちゃんのつくったのは、どれ?」<br /> 瞳も嬉しそうに驚いて、繭里に訊いた。<br />「繭里のはないんです。繭里は、お届け係で~す!」<br />「なんだ、繭里ちゃんは柊のファンじゃないんだ」<br /> 健が可笑しそうに、繭里に訊く。<br />「だって、柊ちゃんは兄妹みたいなものだもの」<br /> ケロっとして言う繭里に、柊は灯里も自分のことを姉弟くらいにしか見てないのだろうかとため息をついた。そんな柊を気にもせず、繭里が言う。<br />「おじさんとおばさんはどれ食べる?あたしは、菜摘ちゃんがつくったのにしよっ」<br />「あらあら、想いがこもったお友達のを食べちゃっていいの?」<br /> 瞳が呆気にとられて、繭里に訊く。<br />「いいの!だって、そういう約束だし。これ、ゲームだし」<br />「あはは、繭里ちゃんは無邪気でいいなぁ。よし、じゃあ、おじさんも柊のファンがつくったカップケーキとやらをいただくか」<br /> 瞳がカップケーキをお皿に乗せて、健と自分の分の紅茶とともにリビングに行った。<br /><br /> ダイニングテーブルで、柊と繭里は向かい合ってカップケーキを食べる。<br />「繭里。繭里は高校、もう決めた?」<br /> 同じ受験生の幼なじみに柊が訊ねた途端、繭里は鼻に皺を寄せる。<br />「はあ。受験なんて、思い出したくない」<br />「模試で、合格率どのくらいだった?」<br /> 柊は心配から、そう訊かずにはいられない。<br />「柊ちゃんはいいよ。こないだの全国模試だって凄かったんでしょ?先生たちが、うちの中学からランキング内の生徒が出たって大喜びしてたもん」<br /> 繭里が食べかけのカップケーキを、つまらなさそうに突く。<br />「まだ時間はあるから、頑張れよ」<br /> はあ、とため息をつくと繭里は言った。<br />「あたしね、N女學館へ行きたいの。でも、合格ラインに届かないの」<br /> N女學館はミッション系の伝統ある女子高で、制服が可愛らしいことでも女子に人気だ。<br />「大丈夫だよ、英語、とくに頑張れ」<br /><br /> うん、と繭里は言って、それからリビングの健と瞳の方を窺いながら小声になった。<br />「ねえ、柊ちゃん。柊ちゃんは好きなひと、いるの?」<br /> 受験の話から突然、恋の話題になるのは繭里らしいというかなんというか、柊は思わず苦笑いする。<br />「そんなことより、いまは受験勉強だろ?」<br />「わかってるけど」<br /> 繭里が不服そうに、唇を尖らせる。そんな正直な幼なじみを見ていて、柊は思わず訊ねたくなった。<br />「繭里は、いるの?」<br /> 繭里の顔がぱっと明るくなる。わかりやすすぎる。<br />「うん!」<br /> それは誰かと訊いていいものか、柊は迷った。しかし、繭里のほうからこう言ってくる。<br />「でもね、片思いなの」<br />「そうなの?」<br />「うん、片思いって、せつないよね」<br /> 本当に切なそうに眉根を寄せる繭里に、柊は心の中で同意した。受け止めてもらえない、宙ぶらりんの恋心はせつない。その上、可能性すら閉ざされたいまの柊には、その苦しさがよくわかる。<br />「でもね」<br /> と繭里は言って、再びいつもの愛らしい笑顔になった。<br />「ちゃんと告白するんだ。N女學館に合格できたら」<br />「そうか。じゃ、両方、頑張んないとな」<br />「うん。応援してね、柊ちゃん」<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a>
337

第3章 キミが居た場所〈ⅴ〉

  中学生で、許婚がいる? そんなのきっと、汚らわしいって思われて当たり前。 あたし自身だってピンと来ない。許婚って何?どうして好きでもない人と、将来のことを勝手に決められるの? リツは母替わりだ、灯里の唯一の後ろ盾だ。でもだからと言って、こればかりは灯里も素直に納得できなかった。 父に相談しても、かつて同じような体験をして、結果リツを裏切り、周りを不幸にした負い目がある父は優柔不断で頼りにならな...  <span style="font-size:large;"><br /> 中学生で、許婚がいる?<br /> そんなのきっと、汚らわしいって思われて当たり前。<br /> あたし自身だってピンと来ない。許婚って何?どうして好きでもない人と、将来のことを勝手に決められるの?<br /><br /> リツは母替わりだ、灯里の唯一の後ろ盾だ。でもだからと言って、こればかりは灯里も素直に納得できなかった。<br /> 父に相談しても、かつて同じような体験をして、結果リツを裏切り、周りを不幸にした負い目がある父は優柔不断で頼りにならない。とうとう灯里は正面切って、初めてリツに正直な気持ちを告げた。<br />「勝哉さんを好きじゃありません。好きじゃない人と、どうして許婚にならなければいけないんですか?」<br />「好きになればいいのです」<br /> それに対するリツの答えは、にべもないものだった。<br />「そんなこと…」<br />「勝哉は、たいへん腕のいい板前です。見た目だって悪くないし、性格だってさっぱりとしています。好きになれないなんて、努力が足りないんです」<br /> 人を好きだと想う気持ちが、努力ではどうにもならないことを、不幸なことにリツは知らなかった。<br />「お祖母様はお祖父様のことを、努力で好きになったのですか?」<br />「まぁ、何を言うの?」<br /> 灯里の言葉にリツは眼を見開いて、本当に可笑しそうに笑った。<br />「私は、真面目で腕がよくて、優しいお祖父様が最初から好きでしたよ」<br /> 話が噛み合わないのを、まだ中学生の灯里はどうしていいかわからなかったが、それでも食い下がった。<br /><br />「繭里では、ダメなんですか?」<br /> 繭里が、勝哉のことをカッコいいと言っていたのを思い出したのだ。<br />「北賀楼を継ぐのは灯里、あなたです。繭里はその器ではありません」<br />「繭里が努力をしても?」<br /> そう問う灯里に、リツはさも話にならないといった様子で、顔をしかめながら手を振った。<br />「努力では、どうにもならないものもあるのよ。人の器とか、才能とかね」<br /> 自分の考えや決定はいつも正しく絶対だと思い込んでいるようなリツに、灯里はそれでも一縷の望みを繋いで言った。<br />「お祖母様、お願いがあります」<br />「なんですか?」<br />「大学に行かせてください。家を継ぐのは、卒業してからにしてください」<br /> そう頭を下げる灯里を、リツは少し疑わしそうな眼で見た。<br />「県内の短大なら、認めましょう。ここから通えないところはダメです。独り暮らしなんかして、ヘンな虫でもついたら…。勝哉との結婚は、短大卒業後ということで認めましょう」<br /> 家を継ぐと言った灯里の言葉を、わざわざ勝哉との結婚と言い直して、それでもリツなりの譲歩を見せた。これ以上は期待できないと思った灯里は、その場は「はい」と言って引き下がったが…。<br /><br /> 灯里が行きたいのは短大ではない、4年制大学だ。しかも東京の。ここしか知らない故郷を離れて、たった4年間でもいい、もっと広いまだ知らない世界を見てみたかった。<br /> それに。その4年間でもしかしたら、なにか状況が変わるかもしれない。というか、それを祈るように願うしかない灯里だった。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 灯里が高校へ入学すると、リツは宣言通り、灯里と勝哉を許婚としたことを取引先や常連客等に発表した。灯里の運命が、本人を置き去りにしたまま決定されていく、その理不尽さに意義を唱える大人は灯里の周りにはいなかった。<br /> 柊は、正式にふたりが許婚になったことを母の瞳から訊かされた。<br />「灯里ちゃんは納得したのかしら。まだ高校1年生なのに、何もわかっていないでしょうに、なんだか可哀想」<br /><br /> あの日、灯里の新体操を見て、自分自身を汚らわしいと思った日から、柊は以前のように灯里に対して笑えなくなっていた。<br /> 灯里の澄んだ眼に自分の邪(よこしま)な欲求を見透かされそうで、柊は不自然に眼を背けるようになった。そしてそんな柊を、灯里は許婚のことを知ってしまったからだと誤解した。<br /> そんなときに訊かされた、灯里の定められた将来。<br /> もう灯里は完全に自分の手の届かないところに行ってしまったのだと、柊は愕然とした。<br /> でも、灯里の気持ちは?本当に勝哉を好きで、許婚になるのか?<br /> 混乱しながらも、心配するのは灯里の本心だ。<br /><br /> 真新しい高校の制服に変わっただけで、また遠くに行ってしまったような気がする灯里。<br /> 僕はまだ中学生で、再び灯里に置いてきぼりにされて捕まえられない。これじゃあ、永遠の追いかけっこじゃないか。<br /> しかも、許婚だなんて…。もう、灯里を追いかけることすら許されないのか?<br /> こんなに想い続けてきたキミなのに。誰よりも大切なひとなのに。キミが僕だけに微笑んでくれる奇跡は、もう永遠に来ないのだろうか。</span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
336

第3章 キミが居た場所〈ⅳ〉

 中学生になった灯里は、セーラー服姿がとても良く似合っていた。小学校へ通う柊や繭里と一緒に通学することもなくなり、入学して早々、新体操部に入部したとかで帰りも遅く、なんだか違う世界へ行ってしまったようで柊は淋しかった。「早く、中学生になりたいなぁ」 そう呟いた柊に、繭里が言った。「繭里はね、中学になったら調理部に入るの」「調理部なんてあるの?」「うん。お姉ちゃんに訊いたら、あるって」「繭里は、運動... <span style="font-size:large;"> 中学生になった灯里は、セーラー服姿がとても良く似合っていた。<br />小学校へ通う柊や繭里と一緒に通学することもなくなり、入学して早々、新体操部に入部したとかで帰りも遅く、なんだか違う世界へ行ってしまったようで柊は淋しかった。<br />「早く、中学生になりたいなぁ」<br /> そう呟いた柊に、繭里が言った。<br />「繭里はね、中学になったら調理部に入るの」<br />「調理部なんてあるの?」<br />「うん。お姉ちゃんに訊いたら、あるって」<br />「繭里は、運動は興味ないの?」<br />「お姉ちゃんと違って、運動神経よくないもの。足も遅いし。でも、お菓子づくりは大好きなの!」<br /> 繭里らしいな、と柊は思った。<br />「柊ちゃんは?柊ちゃんは、どんなクラブに入りたいの?」<br />「僕は…バスケットかな」<br />「ふうん」<br /> 女の子らしくて、女の子の好きなものが大好きな繭里は、あまりバスケットに興味を持てなかったようだ。<br /><br /> そんな柊と繭里が中学に入学した年、灯里は3年生になり、中学最後の年を迎えていた。<br />「北川灯里って可愛いよな」<br />「うん、レオタード姿とかスゲエいい」<br /> 廊下ですれ違った上級生の会話に、柊はとても嫌な気分になった。<br /> 灯里を見るな、噂話もするな。<br /> できればそう言ってやりたかったが、そんな権利はもちろん柊にはない。<br /> それに彼らが言う通り、レオタード姿の灯里は魅力的すぎた。<br /> 繭里に言った通り、バスケットボール部に入った柊は、同じ体育館で練習する灯里の姿に釘づけになった。1年生は雑用が多いのをいいことに、柊は灯里の姿をしょっちゅう盗み見た。<br /> <br /> ストレッチのときとウォーミングアップの最初こそTシャツやスウェットを来ているが、ボールやフープなど手具を使った本格練習になると、みんなレオタードや躰にピタリとした練習着になる。成長期の中学生女子は体型もそれぞれだが、灯里はずば抜けて均整がとれていた。<br /> 小学校までは背が高い方だったが、中学3年生のいまはむしろ小柄な方で胸もお尻も比較的小さい。しかし手足は相変わらず長く真っ直ぐで、贅肉のない全身と細いウエストは妖精のようだ。セミロングの髪をシニョンにまとめ、露わになった細い首筋と美しい鎖骨はまるでガラス細工のような繊細さ。柔軟性の高い躰を活かした難易度の高い演技は、素人目にも眩しいほどの美しさだ。<br /> 新体操がそれほど強くない中学だったが、1年のときから入賞し続けている灯里は高校へスポーツ推薦の可能性があると訊いた。<br /><br /> そんな灯里の中学最後の大会を、柊は繭里に誘われていかにも渋々見に行った。<br /> 男子の観客は少ないだろうと思っていた会場が、意外に男子生徒の姿も多くて、その中の何人かが灯里目的だとわかったときは訳のわからない焦りと怒りで頭がクラクラした。<br /> 灯里の、個人種目別リボンの演技がはじまった。フロアにすらりとスタンバイした灯里は、心持ち緊張しているかに見えて、柊は心の中で必死に頑張れと念じた。<br /> 音楽が流れ、灯里の細くしなやかな足がすぅと前へ出た。静かに情熱を湛えた瞳で真っ直ぐに前を見つめ、やわらかい躰が美しい弧を描いてしなる。それに呼応するようにリボンが、灯里の周りを優雅な曲線を描いて、ときに早くときにゆっくりと生き物のように躍動する。灯里は軽やかにターンをし、軽々とジャンプしながら、リボンとまるで戯れるように完成度の高い演技で会場を魅了していく。<br />「お姉ちゃん、凄い。綺麗」<br /> 繭里がほぉ、とうっとりとした眼でそう言った。<br /> でもそのとき、柊は自分の中で起こっている不可思議な感情に、猛烈に戸惑っていた。<br /><br /> あのリボンで…灯里を…縛りたい。<br /> <br /> どくり、と心臓が落ち着かない鼓動を打って、そしてもうひとつの場所がどくり、と同じように反応した。<br /> <br /> 灯里の躰に、白いリボンがするすると巻きついていく。しなやかに軽やかに舞っていた美しい妖精を、まるで捕らえるように。怪しい幻覚が目の前の灯里と重なった刹那、音楽は止んだ。<br /> すくっと美しく立ってお辞儀する灯里を、柊は呆然と見た。<br /><br /> 僕は…いま…何を想像していた?<br /><br /> 自らの頭の中に浮かんだ映像が信じられなかった。あんなに純粋で美しい灯里を、僕は妄想で汚してしまった。<br />「汚らわしい」<br /> 柊は心の中で、自らを激しく罵った。<br /> ほどなくして、会場から割れんばかりの拍手と歓声が上がった。高得点を賞賛する観客のざわめきで、はっと柊は我に返った。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「お姉ちゃん、残念だったね。繭里は絶対、お姉ちゃんが一番だって思ったのに」<br /> 帰り道、繭里は本当に不服そうにそう言って、唇を尖らせた。<br />「ありがと。でも、やっぱりあの2人の方が上手かったよ」<br /> 灯里はさばさばした表情で、やりきった後の清々しさに満ちていた。<br />「でも、3位だと高校のスポーツ推薦、微妙なんでしょ?」<br />「うん。でも、ダメだったらそれはそれでしょうがないよ」<br /> 灯里は心配してくれる妹に、温かな姉らしいの眼を向けている。<br />「だけど、お姉ちゃんの演技、本当に凄かったよね、柊ちゃん」<br /> 急に同意を求められて、柊は焦った。<br />「う、うん」<br />「いいなぁ、繭里もお姉ちゃんみたいにスタイル良くなりたい」<br />「繭里は女の子らしくて、可愛いよ。あたしみたいにガリは魅力ないよ」<br /> 灯里のその言葉で、柊の脳裏にさっきの映像が再び蘇ってきて振り払おうと頭を振る。<br />「ねぇ、柊ちゃん?」<br /> 灯里が訊ねた言葉が、よく聞き取れなかった。<br /> ああ、僕は…僕は…。<br />「汚らわしい」<br /> ぽつりと思わずつぶやいて、柊ははっとした。<br />「え?なに?」<br /> 繭里がきょとんとした顔で訊く。<br />「え」<br /> 焦る柊に、繭里はもう一度訊ねる。<br />「なに?柊ちゃん、いまなんて言ったの?」<br /> よかった、聞こえなかったみたいだ、と柊は胸を撫で下ろした。<br /><br /><br /> 灯里は、ぎくりと固まった。そしてそんな自分を気取られないように、無理やり笑顔をつくった。<br /> いま…柊ちゃんは…「汚らわしい」って言った?<br /> なぜ?あたしの何が汚らわしいの?<br /> そして灯里は、思い当たった。もしかしたら柊ちゃんは知ってしまったのかも、リツが従業員全員の前で言ったあのこと。どこから漏れたかはわからないけど。<br />「まだ内々の話ですが、灯里と勝哉は許嫁だと思ってください。灯里が高校へ入学したら、正式に発表します」<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a><br />
335

第3章 キミが居た場所〈ⅲ〉

 柊ちゃんは、子供の頃から本当に優しかったな、と灯里は思う。 それは決して表面的な優しさではなくて、子供なのに思慮深い、責任感がある優しさだった気がする。ラッキーのことだって、卵焼きのことだって…。 灯里を取り巻く環境は外からは窺い知れないが、『北賀楼』で働く者にとっては不憫に感じることが多かった。 灯里は、母の顔もぬくもりも知らない。物心ついたときから料亭に廊下続きの母屋で暮らし、祖母のリツが母... <span style="font-size:large;"> 柊ちゃんは、子供の頃から本当に優しかったな、と灯里は思う。<br /> それは決して表面的な優しさではなくて、子供なのに思慮深い、責任感がある優しさだった気がする。ラッキーのことだって、卵焼きのことだって…。<br /><br /> 灯里を取り巻く環境は外からは窺い知れないが、『北賀楼』で働く者にとっては不憫に感じることが多かった。<br /> 灯里は、母の顔もぬくもりも知らない。物心ついたときから料亭に廊下続きの母屋で暮らし、祖母のリツが母親替わりだった。<br /> 母親替わりといっても、リツは愛情溢れる保護者というよりは、厳しい教育者という形容の方がふさわしい。挨拶から礼儀作法、お茶やお花の教養はもちろん懐石料理の知識や洋食のテーブルマナー、細かなことでは畳の目に添った掃除の仕方から表玄関への打ち水、洗濯では色物や柄物を分けたり、汚れのひどいものは下洗いをしてからなど、灯里は幼い頃からリツの流儀で徹底して躾けられた。<br /> 学校に入ってからはお昼は給食になったが、朝晩はリツと一緒に〈まかない〉と共につくり届けられるふたり用の食事をとってきた。しかも食事の間もリツは、使っているダシの種類を当てさせたり、食材の旬を訊ねたり、素材にあった調理法や『北賀楼』の料理へのこだわりなどを教え込む。<br /> 傍から見ていても、せっかくの食事を楽しむ暇もなく、気が休まらないだろうと可哀想に思う者が多かったほどだ。しかしそんなリツに、灯里は素直に従った。<br /> その一方で、妹の繭里はごく普通の家庭の、普通のお嬢さんとして育てられた。もともと父の一史は温厚で優しい性格だったし、母の万祐子は育ちが良いせいかおっとりと甘い母親だった。リツであれば灯里に決して許さないであろうパパとママという呼び方も、繭里は許された。<br /> あまりにも対照的な育てられ方なのに、異母姉妹のふたりは本当の姉妹のように仲がいい。それだけが周りの救いだった。<br /><br /> それでも父親としては、灯里に申し訳ない気持ちが働いたのだろう。リツがめずらしく友人との旅行に1泊2日で出かけた際に、灯里を離れの自宅に呼んで過ごさせたことがある。<br /> 灯里が6年生の頃で、小学校から帰ると繭里の母に離れへ招かれた。<br />「おやつがあるのよ。飲み物はミルク?ジュースがいいかしら」<br /> ふんわりと母親らしい温かな雰囲気を備えた義母が、花柄のエプロン姿でそう訊ねた。<br />リツはいつも隙のない和服姿で、こう言うのが常だった。<br />「手は洗いましたか?では厨房でおやつをいただいて、食べたら宿題をしなさい」<br />義母が出してくれた手づくりクッキーは、チョコチップが入ったものとアーモンドが乗った2種類だった。それをホットミルクと一緒に味わいながら、繭里が言う。<br />「繭里、紅茶のシフォンケーキがよかったなぁ。ねえ、ママ。明日はそれにして。あ、でもお姉ちゃん。ママのクッキー、凄くおいしいでしょ?」<br /> 屈託なく笑う繭里に、「うん、おいしいね」と灯里は微笑み返したが、心の中では軽いショックを受けていた。<br /> 灯里に用意されるおやつは、いつも料亭御用達の店が届ける和菓子やお煎餅だったからだ。洗練されてはいるけれど、料亭の客用でもあるので子供にとっては温かみが足りない。飲み物はホットミルクやジュースではなく煎茶やお抹茶で、灯里は用意されたそれをいつも自分の部屋で独りで食べる。<br /><br /> 夕食は、父は仕事で料亭にいるので、繭里と義母との3人だったが、そこでも灯里は衝撃を受けた。その日の夕食はハンバーグだったのだ。星型のにんじんとポテトが添えられ、市販のデミグラスソースをかけた手づくりのハンバーグも、灯里が初めて口にするものだった。<br />「繭里、にんじん嫌い~。それにハンバーグのときは、ナポリタンつけてって言ったじゃない」<br /> そう甘えられる繭里が羨ましい。リツは好き嫌いを許さなかったし、食事は出されたものを食べるものだと灯里は思っていた。<br />「あら、ごめんなさい。ナポリタンはまた今度ね。それにほら、繭里ちゃん。にんじんは可愛い星型にしたのよ」<br /> 愛情を感じる母娘の会話を訊いて、いろいろなことを見ないように、感じないように閉ざしてきた灯里の心に淋しさがじんわりと広がる。<br /> 夕食後はなんの制限もされずにテレビを見て、繭里とお風呂に入って同じ部屋で眠った。<br /><br /> そして翌朝。<br /> 早朝の市場から戻ってきた父も加わって、朝食になった。<br /> リツとの朝食では決して出ることのない、洋食の朝食。トーストに野菜サラダ、卵焼きとハム、パンプキンスープ、オレンジジュース…。<br /> 卵焼きをひと口食べて、灯里は唖然とした。それはお菓子のように甘かったのである。灯里がいつも口にしている、上品なだし巻き卵とは180度違うものだった。<br /><br /> お母さんの卵焼きは、こんなに甘いものなの?<br /> <br /> 板前の父も、繭里と同じように、その甘い甘い卵焼きをおいしそうに食べている。トーストを食べ、パンプキンスープを啜っている寛いだ様子の父の姿も、灯里には初めての光景だった。<br /> 灯里の知る父は、リツの前で神妙にその意見に耳を傾ける板前のものだったからである。<br /><br /><br />✵ ✵ ✵<br /><br />「お母さんの卵焼きは、お菓子のように甘いものなの?」<br /> その疑問を、灯里は柊に確かめた。<br />「なぜ?そんなには甘くないよ」<br /> 不思議なことを訊くね、という顔をした柊が「あっ」という表情に変わった。<br /> それから数日後、灯里は柊から小さな包みを渡された。<br /> 母屋に帰って自分の部屋で、灯里はその包みを開けてみた。そこにはアルミ箔に包まれた卵焼きが入っていた。柊の母親がつくってくれた卵焼き、それを灯里は恐る恐る口に運んだ。<br /> ほんのり優しい甘さだったけれど、お菓子みたいに甘くはなかった。<br /><br /> お母さんの卵焼きは、みんな違うんだ。<br /> あたしのお母さんの卵焼きは、どんな味なんだろう。<br /><br /> 「母に会ってみたい」と、初めて灯里の本心が叫んでいた。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a>
334

第3章 キミが居た場所〈ⅱ〉

 ガツガツガツガツガツガツ。 野々村家のリビングで、子犬が一心不乱にドッグフードを食べている。汚れていた子犬を取りあえず綺麗にした盥とタオルを片づけて、柊の母の瞳が戻ってきた。 それまで子犬を撫でたり、食べる様子を嬉しそうに見守っていた3人は、瞳の前で揃って正座した。それを見て、瞳がやれやれと言った表情になる。「お父さんに訊いてみないと」 瞳の第一声を聞いて、3人が項垂れる。「おばさん、お願い」 意... <span style="font-size:large;"> ガツガツガツガツガツガツ。<br /> 野々村家のリビングで、子犬が一心不乱にドッグフードを食べている。汚れていた子犬を取りあえず綺麗にした盥とタオルを片づけて、柊の母の瞳が戻ってきた。<br /> それまで子犬を撫でたり、食べる様子を嬉しそうに見守っていた3人は、瞳の前で揃って正座した。それを見て、瞳がやれやれと言った表情になる。<br />「お父さんに訊いてみないと」<br /> 瞳の第一声を聞いて、3人が項垂れる。<br />「おばさん、お願い」<br /> 意を決したように、繭里が言う。それを合図に、3人は揃って三つ指ついて頭を下げる。<br /><br /> ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ。<br /> 子犬は今度はボウルに入った水を勢いよく飲みはじめた。<br />「ウチでは無理なんです。お祖母様が許さないから」<br /> 灯里がそう言うと、繭里も続ける。<br />「この仔、独りなの。かわいそうな仔なの。誰かが飼ってあげないと死んじゃう」<br />「お母さん、僕、ちゃんと面倒見るから。散歩も連れてくから」<br /> そういう息子に、瞳は言った。<br />「柊が、そんなに犬好きだとは知らなかったわ」<br /> 灯里と繭里への優しさから、息子がそう言っているのは母親だからすぐにわかった。でも柊は、そんな母にきっぱりと言った。<br />「お母さん。僕、犬飼いたかったんだ、ずっと。お父さんに、ちゃんと頼みます」<br />「そう。じゃあ、柊が責任持って頼みなさい」<br />「うん」<br /> 灯里と繭里が嬉しそうに顔を見合わせて、それから柊に懇願するような眼を向けた。<br />「大丈夫、僕にまかせて」<br /> そんなふたりに男らしく約束する息子を、瞳は密かに頼もしく思った。<br /> <br /><br /> 次の日の朝、灯里と繭里は、柊からとても嬉しいニュースを訊かされて飛び跳ねた。<br />「ほんとぉ?ありがと、柊ちゃん」<br />「名前、決めなきゃ。ね、繭里」<br /> 嬉しそうな幼なじみの姉妹を見て、父親説得に意外に苦労したことなどすっかり吹っ飛んでしまった。<br />「でも毎朝、ちゃんと散歩に連れてくようにって言われたよ」<br />「ね、3人で行こう?毎朝」<br />「うわぁ、楽しみ!絶対そうしよう?」<br /> 灯里と繭里が飛び跳ねたりスキップしたりしながら、本当に嬉しそうだ。<br /> 学校から帰ると、灯里と繭里はランドセルを置くやいなや、すぐさま柊の家へ行って子犬と遊んだ。<br /> 念のためと瞳が獣医さんに連れて行ってくれて、子犬は生まれて半年くらいの男の子だと言われたそうだ。血液検査などもしてもらって、栄養失調気味だけれど、とくに問題はなさそうだと訊いて、3人は安堵した。<br />「名前どうする?」<br /> と柊が訊く。<br /> 繭里は大好きな「アルプスの少女ハイジ」の犬と同じ名前ヨーゼフがいいと言い、柊は尊敬する物理学者・天文学者のガリレオがいいと言い、灯里は日本の犬だから小太郎が可愛いと言った。結局、拾われた強運と、これからもそれが続きますようにという思いを込めて「ラッキー」に落ち着いた。<br /> そして3人は本当に毎朝、揃ってラッキーと散歩に言った。楽しかった。<br /> でもラッキーは残念なことに、わずか5年で病気のために亡くなってしまった。3人は泣いた。そして命には限りがあることも身を持って知った。見上げる夜空の星になったラッキーは、いまも3人の大切な思い出としてそこにいる。<br /><br /> <br />✵ ✵ ✵<br /><br /> 早朝のランニングから帰ってシャワーを浴びた柊を、久しぶりの母の朝食が待っていた。ランニングに出かける前はまだ寝ていた父の健(たけし)ももう起きていて、親子3人でテーブルを囲んだ。<br /> 野々村家の朝食は、母の気分次第で和食だったり洋食だったりする。この日は和食で、納豆と卵焼き、ひじきの煮物、ほうれん草のおひたし、なめこと豆腐の味噌汁。食後に林檎を食べ、コーヒーを飲んでいると父が訊く。<br />「院はどうだ?」<br />「うん、もうすぐ産学協同のプロジェクトがはじまるから、忙しくなる」<br />「そうか、がんばって勉強しなさい」<br /> 県内の信用金庫に勤める柊の父は、堅実で寡黙な人だ。それだけ言うと、再び新聞を読みはじめる。代わりに母が、久しぶりの息子との会話を楽しむように話しかけてくる。<br />「そう言えば昨日買い物に行くとき、繭里ちゃんに会ったけど、結婚してだいぶ経つのに子供はまだなのね」<br />「元気にしてる?繭里」<br />「せっかくだから、会っていけばいいじゃない。幼なじみなんだし」<br />「うん」<br /><br />「でも」<br /> と母が思い出したように言う。<br />「灯里ちゃんは、いま頃どうしてるのかしらねぇ?」<br /> そう言われて柊は、思わずコーヒーを吹きそうになった。<br />「あれから一度も帰ってきていないみたいよ。灯里ちゃんがいなくなってから、いろんな噂があったけど、後ろ盾だったリツさんが倒れた途端に、あんなことになるなんてねぇ」<br /> あんなこと、とはもちろん灯里に替わって繭里が勝哉と結婚したことだろう。<br />「いろんな噂って?」<br /> どんな噂が流れているのか、柊は灯里のために気になる。<br />「やっぱり、強引なのがよくなかったんじゃないかって」<br />「強引?」<br />「そう、リツさんのやり方よ。だって一史さんと織江さんのことだって。結局、一史さんは好きだった万祐子さんを忘れられなかった訳だから…」<br />「やめなさい、人様のウチのことだ」<br /> 新聞を読んでいた父がそう言って嗜(たしな)めたので、柊もそれ以上訊くことはできなかった。だけど母の話だと、リツが強引に灯里と勝哉を許婚にして、リツが倒れた途端、勝哉はもともと好きだった繭里と結婚したことになる。 <br /><br /> それじゃあ、灯里があまりにも可愛そうじゃないか。おまけに影でそんな噂話までされたら、帰ってきたくても帰れないだろう。それが本当なら、繭里や勝哉とも顔を合わせたくないのだって当然のことだ。<br />柊は自分の気持ちより、灯里のことを思って心ない噂話に憤慨したが、それを隠すように言った。<br />「お母さん、コーヒーもう一杯ちょうだい。僕、自分の部屋行くよ」<br />「うん。お昼までゆっくりしてなさい。お昼、何か食べたいものある?」<br />「そうだな。あ、お母さんのちらし寿司」<br />「了解!まかせなさい」<br /> 十八番のひとつであるメニューを息子にリクエストされて、母は嬉しそうにそう言って笑った。<br /><br /><br /> コーヒーを持って自分の部屋に戻ると、柊は窓を全開にした。薫風の季節の爽やかな風が流れ込んできて、頬をくすぐる。階下に『北賀楼』の勝手口が見えて、懐かしい灯里の姿が昨日のことのように思い浮かぶ。<br /> 灯里の家の事情が、普通の家と異なることを具体的に意識したのは、小学校の高学年頃だったろうか。それは、繭里がぽつりと言った言葉がキッカケだった。<br />「繭里とお姉ちゃんは、一緒にご飯は食べないの」<br />「え?どういうこと?」<br />「繭里はパパとママと離れのおウチで食べるけど、お姉ちゃんは朝御飯も晩御飯も母屋でお祖母様と食べるの」<br />「それ、いつから?」<br />「ん?生まれたときから、ずっとだよ」<br />「でも灯里も、パパとママと一緒に暮らしてるんだよね?」<br /> そう訊ねる柊に、繭里はまるで当たり前のように言った。<br />「お姉ちゃんは、お祖母様と母屋で暮らしてるよ。お姉ちゃんのお部屋はそこにあって、ウチにはないの」<br /> いつも一緒で仲の良い異母姉妹の陰の事情に、柊は心がひやりと冷たくなるのを感じた。<br /></span><br /><a href="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access2.php?citi_cont_id=315029478" target="_blank"><img src="http://www.alphapolis.co.jp/cont_access.php?citi_cont_id=315029478&size=88" width="88" height="31" border="0"></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/"><img src="http://novel.blogmura.com/img/originalimg/0000040770.jpg" width="142" height="47" border="0" alt="にほんブログ村 小説ブログへ" /></a><br /><a href="http://novel.blogmura.com/">にほんブログ村</a>
    Return to Pagetop